教行信証解説【9】正信偈-是人名分陀利華

教行信証 解説

9.正信偈-是人名分陀利華

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

阿弥陀仏のお力によって、欲を満たす事しか考えていなかった私の心に浄らかな仏の心が一念で生まれ、それによって、人の苦しみを取り除いていく苦労が喜びとなり、また、自分と同じようにまわりの人たちを大事にしていきたいという心が、自分の中で起きたという事がハッキリと自覚できるようになる。それは、阿弥陀仏のお力によって生まれた信心であり、私はまだ欲を満たしたい心・楽をしたい心で一杯なのだが、信心の火が私の煩悩を焼き、やがては火そのものとなるように、煩悩がさわりとならず、必ず煩悩から無くなった浄らかな心になる事ができるのである。
まず、「能発一念喜愛心」のお言葉ですが、これは如来会のお言葉が元になっております。

(真宗聖典p351l7)
他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて能く一念の浄信を発して、歓喜愛楽せん。

 善知識から教えを聞いて導かれている迷いの人たちが、善知識の説法を通して無量寿如来の智慧を頂き、それによってその人の心に煩悩によって染まる事のない浄らかな信心のかけらを起こして、それによって他人の苦しみを取り除いていく苦労を喜びに変え、自分と同じようにまわりの人たちも大事にしたいと思えるようにしてあげよう。

ここで、阿弥陀仏から頂く”煩悩によって染まる事のない浄らか信心のかけら”とは何でしょうか?この事について、教行信証信巻には、次のように教えられています。

(真宗聖典p354l4)
「是心作仏」というは、言うこころは、心能く作仏するなり。「是心是仏」というは、心の外に仏ましまさずとなり。譬えば、火、木より出でて、火、木を離るることを得ず、木を離れざるを以ての故に、則ち能く木を焼く。木、火の為に焼かれて、木即ち火と為るが如し。

 「是心作仏」というのは、阿弥陀仏から頂く他力の信心の働きによって、私たちは仏になっていく。「是心是仏」というのは、この信心こそ、阿弥陀仏であり、この信心以外に阿弥陀仏はおられないという意味です。この事を譬えるならば、火が木に燃え移って、木を焼いて燃え始めたならば、火は木を焼き尽くすまで、木から離れる事はない。火が木から離れないので、常に燃やし続ける。そして、木が火のために焼かれて、やがて、木のすべてが火となるようなものである。

この木とは、私たちを三悪道に引きずり込む煩悩の事であり、火とは、阿弥陀仏から頂いた信心の事である。阿弥陀仏から頂いた他力の信心には、火が木を焼いていくように私たちの煩悩を焼き、心を浄化させていく働きがある。だから、一度、私たちの心に信心の火が燃え移ったならば、その信心の火は私たちの心から離れる事なく、私の心を照らし、欲の心や怒りの心を見せてくれる。だから、どんなに欲の心が起きて、現実の苦しみを誤魔化そうとしても、他力の信心は誤魔化そうとしている現実を見せ、現実と向き合うしかない事を知らせてくれる。また、怒りの心が起き、相手を切り捨てたいと思っても、他力の信心は、今、怒りを向けている相手のすがたこそ自分であると知らせ、怒りの心を消してくれるのである。このように、現実と向き合う事から逃げ回って、楽に流れて、自分の殻に閉じ籠ったり、また、現実を受け止められない所から来る苦しみを他人のせいにする心しかない私たちを他力の信心は現実と向き合うように引っ張って下さるのです。

では、どうしたら信心を頂く事ができるのでしょうか?
それについて”無量寿如来の名号を聞きて能く一念の浄信を発して”と言われていますように、善知識の教えを聞いていく事によって信心を頂く事ができます。しかし、その道は簡単なものではありません。なぜなら、私たちは誰しも自分の考えは正しいという我を持っているからです。私たちは、仏法を聞き始めた時は、教えも分からず自分の都合の良い所だけを聞いているので、気持ち良く聞いていく事ができます。
しかし、仏法を聞き続け、幸せになるためには現実を向き合い、自分の心を見つめていかなければならないと知らされ、今まで趣味程度に聞いていた仏法が、自分の人生にとって切実なものへと変わっていくと、今まで自分の心には無かった疑いの心がムクムクと湧いてきます。それは、仏法の教えとは、自分の心にメスを入れ、心を変えていく教えなので、自分の心を変えていこうとすると我とぶつかり、自分の間違いを認めていかなければならないので、我が反発するからです。それは、大変苦しい事なので、その苦しみから、仏法や善知識に対する疑いの心が起きます。仏法ではこれを謗法罪と言われますが、謗法罪は仏法を謗る事だけでなく、その苦しみから生まれる怒りは仏法を説かれる善知識にも向けられ、その人間性や言動に対する非難になって現れます。親鸞聖人は末灯鈔(真宗聖典p648)に”
善知識をおろかに思い、師を謗る者をば謗法の者と申すなり”と言われていますが、親鸞聖人ご自身も感じておられたのだと思います。
仏法を求めている人にとって、頭では仏法は正しい事だと分かっているので、仏法を聞いていく事によって、我が崩され苦しくなったとしても、仏法そのものを攻撃する事はできませんし、また、実体の無い仏法を攻撃したとしても、相手は形のない仏法なので、いくら心の中で仏法が悪いのだと思っても、それによって心が晴れる事はありません。だから、我が崩されていく苦しみから仏法をなんとなく聞きたくないと聴聞を避けたり、また、聴聞中に都合の悪い話が出ると眠くなったり、また、善知識を自分の中で軽く見るようになったりします。この事を親鸞聖人は”善知識をおろかに思い”と言われているのだと思います。また、怒りの業が強い人は、「仏法さえ聞かなかったらこんなに苦しむ事はなかったのだ」とか、「仏法は素晴らしいけど、それを説かれる人が信用できんから、あそこを直して欲しい」など、善知識に対する直接の攻撃へとなる人もいます。これを師を謗る者と言われているのだと思います。法蔵菩薩も大経(真宗聖典p22l4)に
“たとい身をもろもろの苦毒の中におわるとも、我が行は精進にして、忍びて終に悔いじ”(たとえこの身に様々な非難や疑い、また、攻撃をぶつけられ続けるだけで一生が終わったとしても、私はその中、決して諦める事はなく努力を続け、苦しみを忍び、あ~、こんな事ならやるんじゃなかったと後悔するような事はしません。)
とありますが、これは今まで、私は仏法を聞いていない人から攻撃される事だと思っていましたが、仏法を伝えていく中で知らされた事は、仏法を信じて聞いている人たちから向けられる非難であり、疑いで攻撃であるという事です。これはとても苦しい事であり、「こんな思いをしてまで、どうしてこの人を助けなければいけないのだろう」と相手を見捨てたいと思う事もありますし、だから、本願の中で謗法罪の者は唯除(助からない)と言われているのもよく分かりますが、そんな人であっても法蔵菩薩は諦めない、その人が救われるまで努力を続けると誓われているお言葉を見て、私も頑張るしかないと、いつも苦しくなるとこのお言葉を思い出し、一歩ずつ前に進むように心がけています。勿論、説く者も苦しいが、聞くものもまた苦しい。その苦しみについて、二河白道の譬えの中に、次のように教えられています。

(真宗聖典p329r7)
此の人、既に空曠のはるかなる処に至るに、更に人物なし。多く群賊・悪獣ありて、此の人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。
此の人、死を怖れて直ちに走りて西に向かふに、忽然として此の大河を見る。即ち自ら念言すらく、
〈此の河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、極めて是れ狭少なり。二つの岸、相去ること近しといへども、何によりてか行くべき。
今日、定んで死せんこと疑はず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。
正しく南北に避け走らんと欲すれば、悪獣・毒虫、競ひ来りて我に向ふ。
正しく西に向ひて道を尋ねて去かんと欲すれば、復、恐らくは此の水火の二河に堕せん〉と。
時に当たりて惶怖すること復言うべからず。即ち自ら思念すらく、〈我今回らば亦死せん、住まらば亦死せん、去かば亦死せん。
一種として死を免れざれば、我寧く此の道を尋ねて、前に向うて去かん。

 ある人が広い世界を彷徨い旅をしていたが、そこで出会う人は一見すると人当たりもよく、思いやりもあるように見えるのだが、皆、本当の心は隠し、良い顔しながら接してきている人ばかりで、本当に心の交流のできる人は一人もいなかった。人はたくさんいるのに、誰も私の事をちゃんと見てくれる人はいない。そんな寂しさの中で、本当に分かり合える人を求めて旅をしていた。いつかそんな人が見つかるだろうと思ってなんとなく生きていた旅人が、ある時、こんな事をしている間に自分は死んでいくのだろうなぁと、ヒタヒタと迫る我が身の死が知らされて、このまま人生が終わったら後悔する。このままではいけない。この心の寂しさを何としても解決しなければと西に向かって走り始めた所、突然、目の前に大きな水と火の河があらわれた。この河こそ、私自身の心が生み出した河であり、水の河とは、旅人の楽をしたい心、面倒臭い心、苦しみから逃げたい、欲を貪りたいという心が生み出した河であり、火の河とは、怒りの心、苦しみを他人のせいにしたいという心、また、責める心や傷付けたいという心が生み出した河である。私たちが見ている世界は自分の心を映す鏡であり、自分が見ている相手も、また自分の心の影を重ね合わせて見ているに過ぎない。だから、他人と向き合う事は自分と向き合う事であり、本当の魂の友達を求めて相手と向き合った旅人は、そこに自分という大きな河にぶつかったのです。
私たちは、誰しも我という理想の自分を持っている。その理想の自分だと思って、自分にとって都合の良い人たちを周りに集め、自分の思い通りになる事が幸せだと信じて生きています。しかし、どんなに世界が自分の思い通りになったとしても、それは他者の心の自由を否定した自分の考えしか存在しない世界なので、そこには自分しか存在しない寂しくつまらない世界となってしまうのです。だからこそ、この寂しさを解決するには、他人と向き合わなければなりません。しかし、それは、今まで向き合う事から逃げてきた現実の自分と向き合わなければならない事であり、相手を通して見えてくる自分の心の影こそ水と火の二河なのです。この二河を進んでいくというのは、我という理想の自分という幻想を崩し、現実の自分を受け入れていくという心の道です。我を本当の自分だと思って生きてきた私たちにとって。我を崩していく事は苦しい事であり、なかなか二河を進む事はできません。二河を進む事の苦しさから逃げて水の河に落ちた人は、仏法を軽く見るようになり、「今すぐ聞かなくてもいいものなんだ」と聴聞を後回しにして、たとえ聞いたとしても、教えられた事を真面目に実践する事はしません。また、今まで以上に我を通そうとしたり、欲を満たして自分の心を誤魔化したりします。また、反対に火の河に落ちた人は、都合が悪い事が起きると他人のせいにしたり、自分の思い通りにならない人を切ったり、怒って思いを通したりします。しかし、どんなに欲に逃げても、心の片隅には、「こんな事をしていても、死んでいかなければならないのだなぁ」と我が身の無常のささやきが聞こえてきて、心から安心する事は出ないし、怒って思いを通しても、落ち着いて考えてみると「自分は何をやっていたのだろう」と虚しくなります。結局、戻って我の殻に隠れても安心できないし、怒って他人のせいにしたとしても、余計自分が苦しむし、聴聞をするとやっぱり進むしかないと知らされるし、「進もうか、戻ろうか」と心の中で何度も何度も繰り返しながら、最後には「これは逃げる事の出来ない問題だ。前に進もう」と心が定まります。

この様に、仏法を求める者も心が定まるまでは苦しみます。そして、心が定まると、善知識の説かれる教えを真剣に聞いていこうという気持ちになります。この時の気持ちについて、教行信証信巻には次のように教えられています。

(真宗聖典p326l2)
深信とは、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心に唯仏語を信じて身命を顧みず、決定して行に依れ。仏の捨てしめたまふ者は即ち捨て、仏の行ぜしめたまふ者は即ち行じ、仏の去らしめたまふ処をば即ち去つ。

 仏教を深く信じるというのは、次の事を「是非自分もそうなりたい」と仰ぎ願うようになる事です。それは、どんな苦しい事があっても、現実から目を逸らし、逃げたり、誤魔化したり、他人のせいにしたりする事なく、一心に現実と向き合い、その解決の道はただ仏の説かれる教えしかないと信じ、自分の都合を入れず、仏の説かれた教えを実践していく。そして、それを一生涯貫いていけるようになる。つまり、仏が「これはやめなさい」と言われるものはやめ、「これを実行しなさい」と勧められるものはすぐに実行する。そして、今まで自分がいた煩悩に塗れた穢れた世界から離れる。

この気持になった人が善知識から聴聞を続けていく事によって、心の中に生まれてくるのが他力の信心であり、一念の浄信なのです。この一念の浄信は、私たちの煩悩に染まった心を燃やし、心を浄化していきます。よく、「阿弥陀仏に救われても煩悩は変わらない」と言う人がいて、その根拠に正信偈のこの「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」を出す人がいますが、これは、私の心から、三悪道に堕ちていくような楽がしたいという心、面倒臭いという心、都合の悪い事を他人のせいにする心、怒って自分の我を通そうとする心…、そのような三悪道を生み出すような心がまだ断ち切れないままで、一念の浄信が起きる事をこのお言葉で言われているのです。そして、一念の浄信が起きると、火が木を燃やしていくように、一念の火が私の心の煩悩を焼き、段々と浄らかな心になっていきます。これは、信心が起きた人なら実感できる事なので、救われても煩悩が無くならないという人は、まだ救われていないか、何か別の信心をつかんだ人なのかもしれません。

凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
凡夫も聖人も逆謗の者も、一念の信心に導かれて弥陀の本願海に飛び込んだならば、川から流れるどんな水も海に入れば同じ塩味となるように、本願海まで辿り着いた人は皆、心に大慈悲心が起きるのである。
まず、一味とはどういう意味なのかと言いますと、教行信証真仏土巻に次のように教えられています。
(真宗聖典p426l1)
海の性は一味にして、衆流入る者必ず一味と為り、海の味、彼に随いて改まざるが如し。又、人身の性不浄なるが故に、種種の妙好の色、香、美味、身に入りぬれば皆、不浄となるが如し。安楽浄土は、諸の往生の者、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じて皆、清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土の清浄の性成就したまえるを以ての故なり。
凡夫も聖人も逆謗の者も、一念の信心に導かれて弥陀の本願海に飛び込んだならば、川から流れるどんな水も海に入れば同じ塩味となるように、本願海まで辿り着いた人は皆、心に大慈悲心が起きるのである。
まず、一味とはどういう意味なのかと言いますと、教行信証真仏土巻に次のように教えられています
(真宗聖典p426l1)
海の性は一味にして、衆流入る者必ず一味と為り、海の味、彼に随いて改まざるが如し。又、人身の性不浄なるが故に、種種の妙好の色、香、美味、身に入りぬれば皆、不浄となるが如し。安楽浄土は、諸の往生の者、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じて皆、清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土の清浄の性成就したまえるを以ての故なり。

 海にはそこに流れ入ったものを一味にする働きがあるので、海に入ったもろもろの水は、その働きによって必ず一味となる。たとえ、流れ入った水がどんなに甘かったとしても、その甘さが海に溶け込んで海が甘くなる事はないようなものでる。たとえ、人間の性質にはものを不浄にする働きがあり、どんなに素晴らしい形をしているものでも、良い香りがするものでも、また、どんなに美味しいものであっても、その身に触れて体に入ったならば、汚く変えてしまう不浄なものであったとしても、阿弥陀仏の極楽浄土に往生したならば、そのような不浄な肉体も不浄な心も浄化していく働きがあるので、海がもろもろの水を塩味という一味に変えていくように、そこに往生した人を最終的には、煩悩から完全に離れた自他の区別なく平等に見る事ができる生滅の苦しみから離れた身にしてくれるのである。

つまり、一味とは、煩悩から離れた浄らかな心の事であり、海がすべての水を塩味に変えていくように、私たちの心も浄土の功徳によって浄らかな心へと変わっていきます。それは、一瞬にして浄らかになるものではなく、”畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ”と言われていますように、この”畢竟”とは”必ず”とか”最終的には”という意味なので、海の中で死んだ魚の死体が、海の中に住むバクテリアの働きによって分解され、最後には跡形もなく無くなってしまうように、私の心の中にある煩悩も、阿弥陀仏の功徳の働きによって浄らかな心へと変えられてしまうのです。これは、先程の一念の説明で、一念の浄信の火が私の煩悩の炭を焼き浄化していく話をしましたが、一味はその一念の働きを別の形で説明したものです。

貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
阿弥陀仏の闇を破る光が、私の心の貫き、真実の自己が見え始めたと雖も、私の心は真実の自分を見たくない心で一杯で、欲を起こしては現実を誤魔化したり、思い通りにならない事があると怒って我を通したり、何とか真実の自分を照らす弥陀の光を覆い隠そうとしている。しかし、どんなに煩悩の雲や霧が弥陀の太陽の光を隠したとしても、弥陀の光は雲や霧を貫き、私の心を明るくしてくれるので、私の心が再び闇に隠れて三悪道に堕ちる事はない。
獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
だから、私の心に阿弥陀仏の光が届き、それによって他力の信心の火がついたならば、弥陀の光はどんなに煩悩を貫き、真実の自己を明らかにしてくれるので、その光のおかげで、私の心が再び煩悩に染まることなく、自分の間違いを知らせ、心を浄化させてくれる。「この弥陀の働きが無かったら、どうして私は浄土に往生する事が出来るであろうか」と思うと、私を三悪道の世界から抜け出させて下さっている弥陀のお力に感謝し、喜ばずにはおれない。
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華

善人も悪人も、その人がどんな人であっても、阿弥陀仏の全ての人を救いたいという願いが届き、それが無上菩提心という私の願いとなって起きたならば、弥陀はすべての人を救うための智慧を説法を通して与えて下さる。だから、その人は身は智慧のない凡夫の身でありながら、その説法は智慧を体得した仏の説法となる。だから、仏様はこの人を「一切経を読み破ったような勝れた智慧を持っている人」と言われ、「三千年に一度しか咲かないような分陀利華のような人」と名付けられたのである。

阿弥陀仏から頂いた他力の信心は、私の心を浄化していき、やがて私の心に仏の心である大慈悲心を起こしていきます。この事は、教行信証真仏土巻に次のように教えられています。

(真宗聖典p425r6)
又云く、(浄土論に)「正道の大慈悲は出世の善根より生ず」とのたまえり。この二句は「荘厳性功徳成就」と名づく。乃至。性はこれ本の義なり。
言うこころはこれ浄土は、法性に随順して、法本に乖かず、事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。
また言うこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。諸の波羅蜜を集めて、積習して成ぜるところなり。また性と言うは、これ聖種性なり。
序めに法蔵菩薩、世自在王仏の所にして無生忍を悟る。その時の位を聖種性と名づく。
この性の中にして四十八の大願を発して、この土を修起したまえり。すなわち安楽浄土と曰う。
これ、かの因の所得なり。果の中に因を説く。故に名づけて性とす。
また性と言うは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性一味にして、衆流入るもの必ず一味になって、海の味、彼に随いて改まざるが如しとなり。
また人身の性不浄なるが故に、種種の妙好色香美味、身に入りぬれば皆不浄となるがごとし。
安楽浄土は、諸の往生の者、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じて皆、清浄平等無為法身を得しむ。
安楽国土清浄の性成就したまえるを以ての故なり。
「正道の大道大慈悲は、出世の善根より生ず」というは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とする所以は、平等はこれ諸法の体相なり。
諸法平等なるを以ての故に発心等し。発心等しきが故に道等し。道等しきが故に大慈悲等し。
大慈悲はこれ仏道の正因なるが故に、「正道大慈悲」と言えり。
慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲は即ちこれ出世の善なり。
安楽浄土はこの大悲より生ぜるが故なればなり。故にこの大悲を謂いて浄土の根とす。故に出世善根生と曰うなり、と。
 「仏道を進んでいくために必要な仏の心である大慈悲心は、弥陀の浄土の功徳である私の心を浄化させる働きによって生まれてくる」(浄土論)
これを「海がすべての水を塩水に変えていくように、浄土の海のような浄らかさはどんな人の心でも浄化させていく働きがある」と言います。なぜなら、阿弥陀仏の浄土はこの世界に降り注ぐ仏性の働きによって生み出された世界であり、浄土の浄化の働きとは、仏性の働きそのものである。これは、「華厳経」第三十四巻に説かれている宝王如来が真理の働きによって生み出されてくるというのと同じ意味である。つまり、この話では、宝の王である如来宝殊が自然にすべての宝を生み出すように、真理の光が愚痴の闇を照らし、真実を知らせ、それによって間違った考えを正し、迷いを破っていく事によって、迷いに満ちた凡夫が如来となる様に阿弥陀仏の浄土の功徳も私たちの心に作用して、心を浄化させ浄らかな心にしてくれる働きがある。また、この浄化の働きは、私の阿頼耶識の中に、浄らかな業が繰り返し薫習されていく事によって、私の心が浄土と同じ浄らかな心になる。これは、法蔵菩薩が私の心を揺り動かし、六度万行の功徳を積ませる事によって浄らかにしていくのである。この私の心を揺り動かす法蔵菩薩の働きを聖種性と言い、これは、大無量寿経の中で、世自在王仏のまえで法蔵菩薩が自分の気持ちを告白された嘆仏偈の内容がこれに当たります。この気持が阿弥陀仏のお力によって私の心に起きた時を初地と言い、これを「聖種性」と言います。この心が私の心を揺り動かし、四十八願を実践させて、この世に浄土をつくっていきます。この世の浄土が生み出されるのは、阿弥陀仏が四十八願を建てられ、その願いを満たすために修行せられ、浄土をつくられたからであり、その浄土の功徳を受ける事によって、私の中に聖種性が生まれ、その心に揺り動かされて活動していくからです。また、阿弥陀仏の心を浄化させていく働きは、浄らかな心になるまで浄化させていく力と、どんな穢れた人でも浄化させていく力がある。丁度その働きを海に譬えるならば、海には、海に流れてきたどんな水でも同じ塩味に変える力があり、その水がどんなに甘い水であったとしても、その甘さによって、海の水の味が変わってしまう事はない。それと同じように、阿弥陀仏の極楽浄土は、そこに往生した人を海に流れ出た水のように浄らかにする働きがあるので、どんなにまわり中を穢していく人があっても、その穢れた人のために浄土が穢れる事はなく、その人の心を浄化させ、我執から離れさせ、自他平等に見られる心の境地へと出させて下されるのである。ここで、自他平等に見られる心の境地とは、大慈悲の事であり、この大慈悲の心へとなる道が仏道である。そこで大慈悲とはどんな心かというと、慈悲と言っても三つある。一つは小悲、これは人間の慈悲の事で、私たちが一般的に可哀想だと思って起こす慈悲です。この慈悲は、人間の執着によって生み出される心なので、自分にとって都合の良い人には起きますが、都合の悪い人には起きません。この様に、都合によって差別があるので、これを小悲と言います。次に二つ目は、中悲です。これは人間の考える理想的な慈悲の事で、都合が良いとか悪いとかに関係なく、苦しむ者に対して平等に起こす慈悲です。最後に三つ目は大悲です。この慈悲は唯識をさとる事によって、自他平等の境地に出る事によって、自分の心を大事にするように他人の心もまた大事に出来る心です。この大悲が知らされた人は、出世の善である自利利他を実践する様になる。その自利利他の活動は、波紋が広がっていくように、我利我利の心を打ち砕き、その善知識のまわりに浄土を生み出していくので、この大悲を浄土を生み出す根本なのです。このような善知識の自利利他の活動は、阿弥陀仏の功徳を受け取る事から始まるので、これを「出世の善根より生ず」と言われるのです。 また、真仏土巻には次のようにも教えられています。
(真宗聖典p426r6)
また云わく、問うて曰わく、
「法蔵菩薩の本願力および龍樹菩薩の所讃を尋ぬるに、皆かの国に声聞衆多なるをもって奇とするに似たり、これ何の義あるや。」
答えて曰わく、
「声聞は実際をもって証とす。計るに更によく仏道の根芽を生ずべからず。
しかるを仏、本願の不可思議の神力をもって、摂して彼に生ぜしむるに、必ず当にまた神力をもってそれをして無上道心を生ぜしむべし。
譬えば鴆鳥水に入れば、魚蚌ことごとく死す。犀牛これに触るれば、死する者みな活えるがごとし。
是の如き生ずべからずして生ぜしむ、所以に奇とすべし。
しかるに五不可思議の中に、仏法最も不可思議なり。仏よく声聞をして、また無上道心を生ぜしめたまう。真に不可思議の至りなり。」
 お尋ねします。「法蔵菩薩の本願(声聞無数の願)、そして、龍樹菩薩の「易行品」に讃嘆せられている所によりて調べてみるに、阿弥陀仏の極楽浄土には、まだ菩提心も起こしていない声聞がたくさんいる事は不思議な事である。自分の心の穢れさえも満足に取れないものが浄土の中にいたら、その浄土は穢れ浄土では無くなってしまうのに、どうして阿弥陀仏の浄土は穢れる事が無いのでしょうか?」
それについてお答えします。「声聞は、自分の生老病死の苦しみを解決する事しか求めていない。だから、結局このままでは我利我利の心から離れられず、自利利他の心になる事も無いし、生老病死の苦しみも解決する事はできない。そこで、阿弥陀仏は大願業力の働きによって、浄土に生まれさせ、また、本願力の働きによって智慧を与え、それによって大菩提心を起こさせてくれるのである。これを譬えるならば、鴆鳥(全身が毒の羽に覆われた鳥)が水に入ると、その中の魚はことごとく死に、サイのツノがその水に触れたならば、死んでしまった魚が皆生き返るようなものである。このように、菩提心のない、我利我利の心しかない、人の幸せに対して無関心で無慈悲な、死んでしまった心を、弥陀の本願力によって人の幸せを願う温かい心に生まれさせる。これこそ、本当に不思議な事である。」 また、阿弥陀仏の本願力不思議とは、どのような不思議なお力なのか。教行信証真仏土巻には続けて次のように教えられています。
(真宗聖典p427l1)
また云わく、不可思議力とは、すべて彼の仏国土の十七種荘厳功徳力、不可得思議なることを指すなり。
諸経に説きて言わく、
「五種の不可思議あり。
一つには衆生多少不可思議、
二つには業力不可思議、
三つには龍力不可思議
四つには禅定力不可思議、
五つには仏法力不可思議なり。
この中に仏土不可思議に二種の力あり。
一つには業力、謂わく法蔵菩薩の出世の善根と大願業力の所成なり。
二つには正覚の阿弥陀法王の善く住持力をして摂したまうところなり。」
 阿弥陀仏の不思議なお力とは、総じて言うのならば、浄土論の中に説かれている
「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし。正道の大慈悲、出世の善根より生ず。浄光明の満足せること、鏡と日月輪とのごとし。もろもろの珍宝の性を備へて、妙荘厳を具足せり。無垢の光炎熾りにして、明浄にして世間を曜かす。宝性功徳の草、柔軟にして左右に旋れり。触るるもの勝楽を生ずること、迦旃隣陀に過ぎたり。宝華千万種にして、池・流・泉に弥覆せり。微風華葉を動かすに、交錯して光乱転す。宮殿・もろもろの楼閣にして、十方を観ること無礙なり。雑樹に異の光色あり、宝欄あまねく囲繞せり。無量の宝交絡して、羅網虚空にあまねし。種々の鈴響きを発して、妙法の音を宣べ吐く。華と衣とを雨らして荘厳し、無量の香あまねく薫ず。仏慧明浄なること日のごとく、世の痴闇冥を除く。梵声悟らしむること深遠にして微妙なり。十方に聞ゆ。」
という十七種の阿弥陀仏の浄土にある功徳が不可思議であるという事です。
この浄土論の内容を簡単に説明すると、阿弥陀仏の浄土の光によって愚痴の闇が破られ、それによって今まで我を自分だと思って、それを証明しようとして頑張って、どんなに我を強くしたとしても無常によって崩されてしまい、積み上げては崩され、崩されては積み上げる。そんな同じ事を繰り返してきた事が知らされた。お釈迦様が「真実を知らずに百年生きるよりも、真実を知って一日生きた方が素晴らしい」と言われていたが、その意味が今、本当に分かった。何と今まで私は意味が無い事を、意味があると思って続けてきたのだ。これも自分に暗いためであったからなのだろう。今、自分は今まで自分のやってきた事は価値が無い事であると知らされ、そして同時に、本当に価値がある事が知らされたのだ。これからは、知らされた真実のために生きていきたい。この知らされた真実とは、本当の自分とは唯識であるという事。この唯識が知らされる事によって、今まで私の心の中で頑として硬い石のように存在していた我は砂のように崩れ去っていき、そして、私の心を自他平等に見られる広い心、また、差別のない大慈悲の心へと変えていくのである。まさに弥陀の浄土の功徳は、私の我利我利の心を自利利他の心に変え、仏道を進ませて下さるのです。その心の浄化の道は、昼間は太陽の光が世界を照らし、間違った方向に進まないように正しい方向を示し、夜は月の光が優しく照らすように、順境の時は、阿弥陀仏の光は自分の間違いを知らせ正しい道へと導き、逆境で苦しんでいる時は、月の光のように傷付いた自分の心を癒してくれる。この様にして、私たちが煩悩から離れ、完全に鏡が世界を映すように、思い込みや都合を入れず世界をありのままに見られる清浄の心になる所まで私の心を照らし、浄化してくれるのである。私たちの心を浄化させて、我利我利の心を自利利他の大慈悲の心へと変えていくために、阿弥陀仏の浄土には様々なお徳があり、その功徳によって、私たちの心が浄化されていくのである。弥陀の光は火のように煩悩の炭を燃やし、心を浄化させ、また、弥陀の光は闇に閉ざされていた私の心を照らし、それまで暗くて気付かなかった自分の間違いに気付かせ、正してくれる。また、智慧を頂く事によって、今までちっぽけで取るに足りない事にとらわれ、どうでもいい事に意地を張っていた事が知らされ、柔軟に物事が考えられるようになり、また、今まで人の顔色ばかり見て、あっちにふらふら、こっちにふらふら流されるだけの浮き草のような人生だったのが、本当に大事にすべきなのは、自分の心であったと知らされ、地に足がつき、自分の望む人生を進むようになる。その進む道は行雲流水。雲が流れるように相手に合わせて形を変え、水が流れるように目的地に向かって真っすぐに流れ、その途中に石があったとしても石と争うことなく、石の周りを通り、流れていく。不安は人の心を固くし、安らぎは人の心を柔らかくさせる。阿弥陀仏の大悲は心を支え、不安一杯の人生を安心して生きられるようになる。世の中の人たちは、お金の力によって安心しようとしたり、権力や財産を手に入れる事によって安心しようとしたりしているが、この世のどんな力よりも私の心を安心させてくれるものが弥陀の大悲である。そして、その安らぎに満ちた心によって生きる事によって、様々な徳が身に付き、豊かな心は自分だけでなく周りの人たちにも潤いを与えていく。阿弥陀仏の「すべての人を救いたい」という願いが、その人の心を揺り動かしたならば、その人の口から様々な説法が流れ、それによって人々の愚痴の闇を破り、智慧の光を与えていく。唯識を正しく知る事によって、自分を苦しめているものは他人ではなく、自分が今まで他に向けて発してきた負の感情である事を知り、自分の中にある黒い部分を受け入れる事によって自分の都合によって人を差別する事が無くなり、すべての人を平等に見る事ができる。弥陀のお力によって間違いは正されても、個性が失われる事はなく、赤き色には赤き光、青き色には青き光、黄なる色には黄なる光が発つように、その人その人の性格はそのままで、その人の人生が光輝くようになる。だからと言って、自分勝手に生きるのではなく、目に見えない仏様の力に守られて、その人が道をそれて、また三悪道に堕ちてしまう事が無いように守って下される。浄土に向かって進む道はいつも喜びに満ち溢れ、真実を知らせる光は私の苦しみを生み出す我執を取り去ってくれる。そして、弥陀の「すべての人を浄土へ連れていきたい」という願いは、その人を動かし説法をさせる。その説法はまるで阿修羅の持っている事が誰も弾く人がいなくても、自然に音が鳴るように、弥陀に救われた人も、頭でこのように話をしようと考える事が無く、口が勝手に動き、話をさせる。しかも、弥陀の説法自在のお力によって、説いている教えは常に真理に従った教えを説き、相手に合わせて、その人が今必要な事を示し、間違える事も失敗する事もない。ただ、その人が心に計らいがあると目が曇り、間違って教えを説き、それによって失敗する事もある。その説法は人々の苦しみを取り除き、心に善根を植え、様々な幸せになるための徳を身に付けさえていく。このように、阿弥陀仏の智慧の光は、善知識の心を我利我利の心から自利利他の心へと変えさえ、弥陀の説法をさせる事によって、人の愚痴の闇を破って下される。このお力は、私がこの世に生まれる遥か昔から、私たちに降り注いでいるお力であり、大宇宙どこへ行ったとしても、このお力がかかってない所はない。
以上が、浄土論に説かれている十七種の浄土の功徳であり、それが私たちの想像を越えている事を教えられています。また、「華厳経」等の経典の中に次のような事が説かれています。
世の中には五つの不思議な事がある。
一つには、衆生多少不可思議(世の中には数えられない程の衆生がいる事)、
二つには、業力不可思議(蒔いた種は必ず結果となってやってくることの不思議)、
三つには、龍力不可思議(天気になったり、雨になったり、天候は私たちの想像できるものではないから)、
四つには、禅定力不可思議(禅定により数百年も肉体を維持し、又は、神通を現ずる等の不思議)、
五つには、仏法力不可思議(阿弥陀仏の本願力不可思議)。
この五つの不思議の中で、仏法力不可思議とは、大きく二つの阿弥陀仏の働きを言います。一つは、私の心の中に法蔵菩薩の心が生まれ、その心が煩悩に染まった私の心を浄化し、浄らかにして下される事を言います。どんなに煩悩によって三悪道へと流されそうになっても、法蔵菩薩の大願業力が私の業力を打ち破り、浄土へと引っ張って下さる不思議を言います。もう一つは、法蔵菩薩の大願業力によって、浄土へ往生した人が、今度は人々を浄土まで導いていくようになる不思議を言います。この事については、浄土論に次のように教えられています。
(真宗聖典p191r6)
正覚の阿弥陀法王、よく住持したまへり。如来浄華の衆は、正覚の華より化生す。仏法の味はひを愛楽し、禅三昧を食となす。永く身心の悩みを離れ、楽しみを受くること常にして間なし。大乗善根の界は、等しくして譏嫌の名なし。女人及び根欠、二乗の種生ぜず。衆生の願楽する所、一切よく満足す。故に我かの阿弥陀仏国に生ぜんと願ず。無量大宝王の微妙の浄華台あり。相好の光一尋にして、色像群生に超えたまへり。如来の微妙の声、梵響十方に聞ゆ。地・水・火・風・虚空に同じて分別なし。天・人不動の衆、清浄の智海より生ず。須弥山王のごとく、勝妙にして過ぎたるものなし。天・人・丈夫の衆、恭敬して繞りて瞻仰したてまつる。仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よく速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。安楽国は清浄にして、常に無垢の輪を転ず。化仏・菩薩の日、須弥の住持するが如し。無垢荘厳の光、一念および一時に、あまねく諸仏の会を照らし、もろもろの群生を利益す。天の楽と華と衣と妙香等とを雨らして供養し、諸仏の功徳を讃ずるに、分別の心あることなし。なんらの世界皆、往生して、仏法を示すこと仏の如くせん。我、論を作り偈を説く。願はくは弥陀仏を見たてまつり、
 私の中で、煩悩を焼き浄土へ往生させようとしていた大願業力である法蔵菩薩は、真理の光を見る事を妨げていた我執が破れ真実を受け入れ始めると、私の中で阿弥陀仏となり、私の中に留まり、真実を知らせ続けてくれる。この事について、教行信証証巻には次のように教えられています。
(真宗聖典p393l4)
「荘厳主功徳成就」は、「偈」に「正覚阿弥陀法王善住持」の故にと言えり。これいかんが不思議なるや。
正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。
「住」は不異不滅に名づく、「持」は不散不失に名づく。不朽薬をもって種子に塗りて、水に在くに蘭れず、火に在く焦れず、因縁を得て即ち生ずるが如し。
何を以ての故に。不朽薬の力なるが故なり。もし人、一度、安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑
生の火の中に生まると雖も、無上菩提の種子畢竟じて朽ちず。何を以ての故に。正覚阿弥陀の善く住持を径るを以ての故にと。

 「荘厳主功徳成就」というのは、浄土論の中の「正覚阿弥陀法王善住持」についての功徳を説明したものです。これがどうして不思議なのかと言いますと、私の心の中で、正覚の阿弥陀仏が生まれる不思議です。そのために、私の心の中は正覚の阿弥陀仏のお力によって、心の浄らかさが保たれて、また、阿弥陀仏の「すべての人を浄土へ連れていきたい」という願いが私の願いとなって、今まで、自分の苦しみを解決したい、そして、今が別に苦しくなければ、他人のために特別に頑張りたいと思う事も無かった私の心に、不思議と他人を幸せにしたいという心が起きる。この「法王善住持」の住持とは、「住持」とは私の中で、阿弥陀仏の願いが変わってしまう事なく、無くなるという事も無く、私の心の中を太陽のように照らし、真実の自己を知らせ、自分の使命を教えて続けてくれる。次に「持」とは、自分の中にできた阿弥陀仏の心は、どんなに煩悩が起きても、それによって、かき消される事も、また、私が忘れてしまう事も無い、丁度たとえるならば、水面に映った月の光のようなもので、水面に映った月の光を壊そうとして、どんなに水面をバチャバチャ叩いたとしても、水面の月はユラユラと揺れるだけで壊す事も消す事もできません。丁度、この月の光のように、阿弥陀仏の真実を照らす月の光が、私の心という水面に宿るのが、法王善住持です。また、他の事で譬えるならば、朽ちる事のない薬を種子に塗ると、その種子を水の中に入れておいても、種子が水によって腐ってしまう事なく、また、火の中に入れても燃えて無くなってしまう事が無い。その種子は水の中でも火の中でも関係なく、すくすくと成長していく。それは、朽ちる事のない薬の力のためである。丁度、これと同じように、浄土に往生した人は、心の中に阿弥陀仏の心が生まれる。その心は、浄土に往生して、自分の心が楽になる事しか考えていなかった私の心を、再び穢土の中に戻り苦しんでいる人を助けたいという心へと変えて下される。そして、その願いに従って、苦しむ人たちのいる穢土に飛び込み、心の中に様々な楽がしたいという心、面倒臭いという心、他のせいにしたいという心が起きて、苦しむ人を助けたいという心を妨害したとしても、心の中にできた阿弥陀仏の心は決して崩れる事無く、苦しむ人を救っていく事ができる。この働きによって苦しみ悩む人を助け、この世に浄土を生み出す菩薩が誕生するのである。 この事を浄土論註には次のように教えられています。

(真宗聖典p393r4)
「荘厳眷属功徳成就」とは、『偈』に、「如来浄華衆、正覚華化生」といへるが故にと。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業を以ての故に。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきが故に、遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや」と。

 「荘厳眷属功徳成就(阿弥陀仏の浄土の功徳には、仏の御心を伝える菩薩を生み出す力がある)」というのは、浄土論の「如来浄華衆正覚華化生(阿弥陀仏の御心を伝えるためにこの世に現れた様々な菩薩方は、阿弥陀仏のお力によって化生する事によって、この世に誕生する)」の事です。これはどうして不思議なのかと言いますと、様々な種類の生き物が生息しているこの世界は、お母さんのお腹から誕生する生物もいれば、卵から生まれるものもいる。また、ジメジメしたところから湧いて出てくるものもいれば、業によって忽然と現れるものもある。そして、それぞれ血のつながっている兄弟がたくさんいて、それぞれの業によって苦しんでいるものもあれば、楽しんでいるものもある。そこで、私たちが阿弥陀仏の浄土に生まれるとは、どういう生まれ方をするのかと言えば、お母さんのお腹から生まれるのでもなければ、卵から生まれる訳でもない。阿弥陀仏の御心が私の心に生まれ、その心が私の心を浄化していく事によって私の業が変わり、それによって、浄土に生まれる事ができるのである。阿弥陀仏はすべての人を浄土へ連れて行くと誓われているから、阿弥陀仏のお力はすべての人に降り注いでおり、そのお力を念仏によって受けていく事によって、どんな人の心にも阿弥陀仏の御心が生まれる事ができる。それは勿論、その人の宿善によって早く生まれる人もいれば、遅く生まれる人もいる。しかし、時間の差こそあれ、すべての人はいずれは阿弥陀仏の御心が生まれ、浄土へ往生する事ができるので、皆、仏の子であり兄弟である。この世に現れた菩薩だけでなく、仏法を聞いている者も、まだ聞いていない人たちまでも皆仏の子であるという事が、あまりにも途方も無い事であり、どうして想像する事ができるであろうか。 この様にしてこの世界に現れた菩薩方は、私たち人間は欲を満たす事が喜びなのに対し、仏法を説く事によって真実が知らされる事を喜びとし、私たち人間は欲によって心が散り乱れる事を楽しみとするのに対し、菩薩方は心が穏やかで静かである事に満足を覚える。私たち人間は、このような心の静けさは耐えられない。何故なら、自分を感じられなくなるからである。私たちの心は猿のように常に動き、外界の事象に触れていないと、不安でしょうがないのだ。でも、菩薩方は弥陀の光によって本当の自分が常に照らされ、知らされているから自分の存在を確認するために心を散り乱れさせ、動き回る必要もないし、それによって心が疲れてしまう事もない。常に心が静かなままで、満たされている。弥陀から放たれる真実の光は、常に心を浄化させ、自他平等に見られる心にしてくれる。だから、私たちの心の中にある苦しみを受け入れる事ができず他人のせいにしてしまう弱い心も苦しみや病気を自己責任として自分が解決していかなければならないのに、自分が苦しんでいるのだから、誰かが自分を助けてくれるのだろうという責任転嫁の心、また、他人の苦しみを解決するために、自分が苦労したくないという思いを取り除いてくれる。この弥陀のお力によって、私たちは自分を成長させることができ、人間として自分に自信がついてくる。この幸せを知ったからこそ、私は阿弥陀仏の極楽浄土に生まれようと願うのです。仏様は、私の心に宿った信心の花から生み出され、私を仏へと変えていく。その信心の花は、弥陀の光を栄養にして仏を生み出し、様々な徳を身に付けていく。そうやって身に付けた徳の光は、身近な人を変えていく程の力を持ち、自分の中でいよいよ人間を離れ、仏へと生まれ変わろうとしているという事を実感し始める。私の心に鳴り響く阿弥陀仏の声は、私の心の穢れを取り除き、隅々まで浄らかにして下される。また、弥陀の光によって、唯識こそ本当の自分であるという事が知らされ、今まで肉体にとらわれていた執着が、ドライアイスが溶けるように消えていき、自他平等に見られる心へと変わっていく。このような弥陀のお力によって、この世にすべての人を浄土へ連れていくという弥陀の願いを実現するために、金剛の志を持った菩薩がこの世に出現する。その人は、この世界の中心にそびえ立つ須弥山のように、その人を中心として浄土が生み出されていく。そして、その教えを聞いた宿善の厚い人たちは、その方が説かれる教えの素晴らしさに心から感動し、敬うようになる。その菩薩の説法を通して、心に他力の信心が生まれたならば、その信心の働きによって、三悪道の再び堕ちる事はもう無くなる。そして、心は次第に浄化され、必ず浄土に往生する事ができる。菩薩の説法は、太陽の如く、人々の心を照らし、心の垢を取り除き、清らかな穢れなき状態を保ち続けてくれる。この菩薩の説法は、その時そこに集まった人々の苦しみを取り除き、心を浄化してくれる。だから、仏法を聞いている人たちは、「他の人が聞くようになったら、自分が聞く時間が減ってしまうのではないか」と心配する事も無く、「自分だけでなくみんなも聞いて欲しい」という気持ちになれる。仏法とは、この世で最も素晴らしい宝である。その宝を知らず人生が終わってしまう人がいる事は、何と悲しい事であろうか。だから、阿弥陀仏の極楽浄土に往生した人は、お釈迦様が仏法のない所で一から仏法を教えられたように、仏法の無い邪教に染まった場所であっても、勇気を出して仏法を説いていけるようにしてあげましょう。

これが、正覚阿弥陀法王の善住持力についてです。以上を通して、阿弥陀仏の本願力を聞信したならばどのような身になれるのかを説明してきました。もう一度簡単に説明するならば、阿弥陀仏の本願力には大きく二つの力があります。一つは、大願業力によって、煩悩を打ち破り、仏法を聞いている人を浄土へ往生させていく力。そして、もう一つは、浄土へ往生した人が菩薩となって、そこに浄土を建立し、その中で新たな菩薩を生み出していく力です。だからこそ、仏様は、阿弥陀仏に救われた人を「広大勝解者(仏様と同じような智慧を持ち、仏法を説いていく事ができる人)」と言い、この人を「泥々の泥の中で、その泥の中に染まることなく真っ白な華を咲かせた白蓮華のような人」と名付けるのです。

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