教行信証解説【6】

教行信証 解説

6.p314-正信偈

(真宗聖典p314)
『楽邦文類』に云く、「宗曉禅師の云く、〈還丹の一粒は鉄を変じて金と成す。真理の一言は悪業を転じて善業と成す〉」と。{以上}

 「楽邦文類」に次のように教えられている。還丹の一粒は、鉄を金へと変える。それと同じように、心に真実の光が差し込んだならば、どんなに長い間、悪業によって苦しんできた人も、その苦しみが取り除かれ、心は喜びに満ち溢れる。

(※真宗聖典p314の二行四十八対、p315の二機十一対は省略。

(真宗聖典p315r3)
敬つて一切往生人等に曰さく、弘誓一乗海は、無碍、無辺、最勝、深妙、不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。
何を以ての故に。誓願不可思議なるが故なり。
悲願は喩えば、大虚空の如し、諸の妙功徳、広無辺なるが故に。
猶、大車の如し、普く能く諸の凡聖を運載するが故に。
猶、妙蓮華の如し、一切世間の法に染せられざるが故に。
善見薬王の如し、能く一切煩悩の病を破するが故に。
猶、利剣の如し、能く一切驕慢の鎧を断つが故に。
勇将幢の如し、能く一切の諸の魔軍を伏するが故に。
猶、利鋸の如し、能く一切無明の樹を截るが故に。
猶、利斧の如し、能く一切諸苦の枝を伐るが故に。
善知識の如し、一切生死の縛を解くが故に。
猶、導師の如し、善く凡夫出要の道を知らしむるが故に。
猶、涌泉の如し、智慧の水を出して窮尽すること無きが故に。
猶、蓮華の如し、一切の諸の罪垢に染せられざるが故に。
猶、疾風の如し、能く一切諸障の霧を散ずるが故に。
猶、好蜜の如し、一切功徳の味わいを円満せるが故に。
猶、正道の如し、諸の群生をして智城に入らしむるが故に。
猶、磁石の如し、本願の因を吸ふが故に。
閻浮檀金の如し、一切有為の善を映奪するが故に。
猶、伏蔵の如し、能く一切の諸の仏法を摂するが故に。
猶、大地の如し、三世十方の一切如来、出生するが故に。
日輪の光の如し、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するが故に。
猶、君王の如し、一切上乗人に勝出せるが故に。
猶、厳父の如し、一切の諸の凡聖を訓導するが故に。
猶、悲母の如し、一切凡聖の報土真実の因を長生するが故に。
猶、乳母の如し、一切善悪の往生人を養育し守護したまふが故に。
猶、大地の如し、能く一切の往生を持つが故に。
猶、大水の如し、能く一切煩悩の垢を滌ぐが故に。
猶、大火の如し、能く一切諸見の薪を焼くが故に。
猶、大風の如し、普く世間に行じて碍ふる所なきが故に。
能く三有繋縛の城を出して、能く二十五有の門を閉づ。能く真実報土を得しめ、能く邪正の道路を弁じ、能く愚痴海を竭し、能く願海に流入せしむ。
一切智の船に乗ぜしめて、諸の群生海に浮ぶ。福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ。良に奉持すべし、特に頂戴すべきなり。

 敬いて極楽に往生したすべての人たちに申し上げます。阿弥陀仏の本願によってできた一乗海には、往生した人だけでなく、往生した人の周りにいる人たちもまた、その本願力の働きを受ける。それは、どんな働きかというと、自他を区別して、自分に執着する迷いを打ち破り、煩悩から離れさせていく働き。その働きによって、阿弥陀仏がどのように私たちを導き、浄土まで連れて行くのかという事は、仏の御心は私たちのような凡夫と比べてあまりにも深く素晴らしいので、とても想像することも説くことも言うことも出来ないのである。ではなぜ往生した人だけでなく、そのまわりの人たちも心が浄らかになっていくのかと言えば、浄土の浄らかな功徳は往生した人の心を浄化し、苦しんでいる人の苦しみを抜いてやりたいという菩提心を起こして、その往生人が動き出す事によって、まだ往生していない人たちも救っていくからである。この阿弥陀仏の本願力をたとえるならば、

(1)大虚空のようなものである。それは、阿弥陀仏のお力によって自他を区別することのない平等の世界に出させて頂けるからである。

(2)たくさんの人を乗せる大きな車のようなものである。それは、阿弥陀仏のお力によってどんな人でも浄土へ導き連れていくからである。

(3)妙なる蓮華のようなものである。それは、阿弥陀仏のお力によって真理を知らせ、自分にとらわれることが如何に苦しみを生み出し、この世も未来も不幸にさせるということに気付かせるからである。

(4)善見薬王のようなものである。それは、阿弥陀仏のお力によって真実を照らし知らせ、それによって目が曇ることによって生み出される煩悩の病を打ち破って下されるからである。

※煩悩とは大きく分けると、面倒臭いと思って問題を先送りにする欲の心と、自分にやってきた苦しみを他人のせいにして怒りを起こすことによって他人に問題を解決してもらおうとする怒りの心に分けられる。共に自分の抱えている問題と向き合わない所から煩悩が生み出される。煩悩を破るとは、問題は自分の心から生み出されているものであり、他人が悪い訳ではない。そして、自分の抱えている問題は自分が解決していくしかないと知らされる事によって、煩悩は破られる。阿弥陀仏は真実を見せ、問題と向き合うようにして下されるのです。

(5)切れ味の鋭い剣のようなものである。それは、弱い自分を映し出し、それによって相手を思い通りにすることのできる様々な自心を打ち破って下されるのである。

※驕慢とは、相手に対して自分が優位に立とうとする心。私たちは自分に自信がもてないので、その自信をつけるために、お金の力を手に入れたり、権力を手に求めたり、資格を取ったり、今まで自分が頑張ってきたことを己の力として自分に自信をつけようとする。それは同時に、相手の価値を低く見て、馬鹿にする心。自分の価値を自慢して、相手に自分の価値を認めさせようとする心になる。

(6)勇猛な将軍の瞳のようなものである。それは、心の中に吹き上がる穢土へと引き戻す誘惑を断ち切り、自分の心と向き合うようにしてくれるから。

(7)切れ味の鋭いのこぎりのようなものである。それは、真理を知らないために自分の心に目を向けることがなく、知らず知らずのうちに心で育て、大木のようにしてしまった負の感情の木を断ち切ることができるから。

※私たちの苦しみは心によって生み出される。それは、天に向かってツバを吐くように、自分の心で起こした心は、自分に向かって返ってくる。例えば、私の心で誰かを責めれば、自分も世界から責められているように感じるし、また、誰かを騙したら自分もみんなから騙されているように感じる。だから、自分が見ている世界は自分の心の鏡なのである。

(8)鋭い斧のようなものである。それは、迷いによって生み出される苦しみの連鎖を断ち切って下されるからである。

(9)善知識のようなものである。それは、自分の力ではどうにもならない迷いの流転輪廻を断ち切り、心を軽くしてくれるからである。

(10)導師のようなものである。それは、私たちが迷いから離れるための方法を知り、私たちに知らせてくれるからである。

(11)いつまでも水が湧き出てくる泉のようなものである。それは、相手を苦しみのない世界へと出させるために、相手に合わせて次々と智慧が吹き上がってくるからである。

(12)蓮華のようなものである。それは、穢れた世界に身を置いても、自分の心まで穢れてしまうことがないからである。

(13)突風のようなものである。それは都合の悪い事があって、それを誤魔化すために目が曇っても、阿弥陀仏のお力によって目の曇りを吹き去り、真実を明らかに知らせてくれるからである。

(14)とても美味しい蜜のようなものである。阿弥陀仏のお力によって、不安を取り去り、安心感が増してくるからである。

(15)阿弥陀仏の御心のままに従って進んでいく道である。それは、自分に対するとらわれを離れて、人々の苦しみを取り除くために、人々の迷いを打ち破り、真理を知らせて、もう迷わない世界へと出させて下されるからである。

(16)磁石のようなものである。それは、すべての人を浄土へと導くために多くの人を巻き込んで、様々なご縁を与えられ、同時に多くの人を浄土へと導いておられるからである。

(17)閻浮檀金のようなものである。今まで自分がこうしたら幸せになれると思っていたものの真実の姿を明らかにし、それを手に入れても決して幸せにはなれないことを知らせ、迷ったものを追いかける気持ちを離れさせてくれるから。

(18)伏蔵(地中に隠された宝の蔵)のようなものである。なぜなら、阿弥陀仏のお力によって、相手に合わせてまだ自分が体得していない真理でさえも話す事ができ、それによって相手や自分の苦しみさえも取り除くことができるからである。

(19)大地のようなものである。それは、すべての植物がこの大地から生まれ出たように、阿弥陀仏のすべての人を救いたいという願いから、苦しんでいる人たちを救うために、大宇宙で諸仏方が現れているからである。

※阿弥陀仏をはじめ仏様方は、苦しんでいる人たちを助けるためにこの世に現れる。だから、私たちは仏様に助けて頂くのをゆっくり待てばいい。確かにその通りかもしれないが、そのように思ってしまうのは自分の抱えている苦しみにまだ気付いていないからだと思います。私たちは迷いが深いために、現在、苦しみの中にいながら、その苦しみが分からない。それは煩悩によって苦しみを誤魔化しているからであり、煩悩を満たす事によって幸せになれると勘違いしている。しかし、煩悩によって得られる楽しみは執着を生み出し、それによって思い通りにならない時の苦しみが大きくなる。つまり、現在の楽しみが未来の苦しみを生み出す。これが、私たちの生きている世界なのである。三界は火家の如し。今、生きている世界こそ不安に満ちた世界であるのに、煩悩によってその不安を誤魔化しているために、今の苦しみが分からないのである。だから、お釈迦様は「如何にして私たちにこの苦しみを知らせるか」、それを悩まれ私たちを教え導いていかれたのです。苦しみが分かれば苦しみを取り除こうと必死になる。苦しみが分からないから、仏法に対して真剣にならないのですね。私たちの抱えている苦しみに気付かせるために、大宇宙で諸仏方が現れているのだと思います。

(20)太陽の光のようなものである。それは、智慧がなく、自分の心を見つめる事がなかった時は、自分を苦しめるような心が起きていても、それに気付かずに起こし続けてきたのに、阿弥陀仏のお力によって太陽のように心を照らすと、真実が知らされ、初めて心から心の中にある負の感情を無くしたいと思うようになるからである。

(21)帝王のようなものである。それは、この世のどんな人よりも勝れているからである。

(22)厳しく子供を育てる父親のようなものである。なぜなら、すべての人々を真理に外れないように、外れそうになったならば痛みや苦しみを与えて教え導くからである。

(23)慈悲深い母のようなものである。くじけそうな私たちの心を支えて下さり、自分は決して見捨てられないという安心感を与えて下されるからである。

(24)乳母のようなものである。なぜなら、赤ちゃんがお母さんのお腹から出るように、自分の殻の中に閉じ籠って外に浄土という世界が広がっていることも知らなかった私たちが阿弥陀仏によって育てられ、初めて外に出た後、その人がまわりの人を導くことのできるような立派な菩薩へと成長するところまで、その人の心を守り、育てて下されるからである。

(25)私たちの心を支える大地のようなものである。それは、往生した人の心を根底から支え、その人の心が様々な苦しみによって崩れる事を防いでくれるからである。

※私たちの心は我によって支えられている。だから、思い通りに物事が進んでいる時は心が安定しているが、一度思い通りにならない事が起きると心が崩れ、様々な不安が襲ってくる。こうなると、冷静な判断が出来なくなり、心からは次々と悪い感情が吹き上がって、それによってさらに苦しむことになるのである。私たちが苦しい時に、心がもろいのはこのためで、どんなに心が強そうな人でも、突然の不幸がやってくると案外弱いものなのである。この心の弱さを体験した人は本当に自分の心を支えてくれる心の大地を求めるようになる。それを与えて下さるのが阿弥陀仏なのです。

(26)勢いよく流れる水のようなものである。なぜなら、阿弥陀仏のお力で説法することによって、仏法を説いた人も聞いた人も共に心の穢れを取り除くことができるからである。

(27)大火のようなものである。それは、心の中にある「私は間違っていない」と自分の考えに固執する心の中に根を張っている邪見の切り株を焼き尽くして下されるからである。

(28)大きな風邪のようなものである。苦しんでいる人を救うために穢れた世界に戻って仏法を伝える時に、その穢れが邪魔になって仏法を伝える事が出来ないということがないからである。

このような様々なお力によって、自分は生きている意味があるか、それともないかというような価値に縛られ価値のあるものを求めてそれを手に入れることによって自分の価値にしようとする考え方から離れ、それによって自分が上とか下とか、勝ったとか負けたとか、認められたか認められなかったかとか、思い通りになったとかならなかったとか、そんな事で一喜一憂して苦しむ世界から抜け出させてくれるのです。また、何が正しいか何が間違っているか、ということにとらわれ、自分が間違っていても自分の間違いを認められず、反省できないので、どこどこまでも同じ苦しみを生み出す行いを繰り返し苦しみ続ける世界にいる私たちに物事を広い視野に立って見ることができる智慧を与え、正邪にとらわれも苦しむだけであることを知らせてくれる。そして、阿弥陀仏の御心を一心に受ける身にとなり、それによって、苦しんでいる人たちの苦しみを取り除きたい。それが私の使命であり、自分の喜びであるという阿弥陀仏の御心がその人の心に吹き上がり、そのみ心のままに流され動かされる身となる。そして、苦しんでいる人たちを浄土まで往生させるために様々な方便を説けるようにして下されるのである。阿弥陀仏のお力があるから私たちは浄土に往くことができるのである。その素晴らしい阿弥陀仏のお力に心から頭を下げ、その救いに預かるべきである。

(真宗聖典p318l2)
凡そ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機は則ち一切善悪大小凡愚なり。往生は則ち難思議往生なり。仏土は則ち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

 阿弥陀仏の本願には、阿弥陀仏自身の願いが説かれた真実と、その真実の世界に到達するために阿弥陀仏が私たちの心に合わせて説かれた方便とがある。そして、それぞれに行と信とがある。その真実の行について教えられている阿弥陀仏の本願は諸仏称名の願であり、真実の信が説かれている願は至心信楽の願である。この二つの願こそ選択本願の行と信である。その本願の相手はすべての人。往生は難思議往生。そして、その説く浄土は誓願不可思議一実真如海であり、「大無量寿経」の宗致、他力真宗の正意である。

※知識的な文章で特に意味はありません

(真宗聖典p318l8)
是を以て、知恩報徳の為に、宗師(曇鸞)の釈を披きたるに、言はく、
「夫れ菩薩は仏に帰するは、孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静己れに非ず、出没必ず由あるが如し。
恩を知りて徳を報ず、理宜しく先ず啓すべし。又、所願軽からず。
若し如来、威神を加へたまはずは、まさに何を以てか達せんとする。神力を加へたまわんことを乞う。このゆゑに仰いで告ぐ」、と。{以上}
しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈を閲して、仏恩の深遠なることを信知して、「正信念仏偈」を作りて曰く。

 以上の事から、自分が今まで受けてきた恩が知らされ、布教を通して自分が今このようになるためにどれだけ阿弥陀仏にご苦労をかけたか、しかも、そのご苦労を嫌とも思わず、にっこりと微笑まれして下された。そのご苦労があって、今私はこの様な身になる事が出来ました。私が受けてきたご恩を思うと、私も誰かの幸せのために苦労がしたい、そして、浄土まで導いてあげたいと思うのです。この私の気持ちを曇鸞大師の浄土論註のお言葉を挙げて述べさせて頂きます。
それ菩薩が仏を敬い仏のみ心のままに生きていこうとする気持ちをたとえるなら、孝行な子供が両親のご恩を感じて、その両親が喜んでくれるように動くように、また、忠義な家臣がその主君のご恩を感じ、自分の命にかえて主君にお仕えしていくように、自分勝手に振る舞うことなく命を懸けて仏にお仕えしていく。それは、自分が受けしご恩が知らされたからこそ、そのご恩に報いようと動き出す。だから、まず、私たちは阿弥陀仏からどんなご恩を受けているのか、それを明らかにしなければならない。阿弥陀仏がすべての人を浄土へ連れて行きたいと願われた事は決して軽い気持ちで願われたものではない。もし、阿弥陀仏が私たちを何とかして助けてやりたいと念じ続けておられなかったならば、どうして今日助かる人が現れるだろうか。ぜひこの本を読んでいる人にも阿弥陀仏の御恩が知らされることによってそのお力に動かされる事を期待して、受けし御恩を述べさせて頂きます。然れば、この親鸞、遠く時空を超えてお釈迦様が大事にしてきたものを私もまた命に代えて伝えていきたいと思いました。そして、お釈迦様のみ心をこの親鸞まで正しく伝えて下された七高僧方のご苦労を挙げ、これらの方々を揺り動かされた阿弥陀仏の御恩が如何に深く、如何に昔から私たちのことを想って下されたのか、親鸞ハッキリと知らされたので、その事を皆さんにも分かってもらいたいと思って、「正信念仏偈」を書かせて頂きます。

○正信偈

・帰命無量寿如来
永遠の命を持たれた阿弥陀仏のお徳に触れ、永遠の命を持った使命を親鸞知らされました。この使命に比べたならば、この世のありとあらゆる大事だと言われている夢や願いや宝も、ほんのちっぽけな取るに足りないようなものであったと感じます。あぁ、私の命は儚い。人生百年生きたとしてもあっという間だ。私が死んだら、この真理を伝える人はいなくなってしまう。何としてもこの夢を引き継いでくれる人に遺さなければならない、伝えなければならない。それが、阿弥陀仏の望む事であり、私の使命でもある。そして、この親鸞まで阿弥陀仏の御心を伝えてくれた方々が思っておられたことなのだ。

・南無不可思議光
あぁ、親鸞自惚れていた。自分に他人を救う力があると思っていた。自分が苦しんでいる人を導いているのだと思っていた。でも、阿弥陀仏のお力によって、それが如何に自惚れであり、そんな力は親鸞にはないことが知らされました。自分が導いているのだと思うからこそ、思い通りにならない時は「こんなにしてやっているのに」と刃のような心が起きて相手を傷付けていく。阿弥陀仏は智慧の光明によって親鸞の愚かな姿を映し出し見せて下される。あぁ、こんな愚かな弱い親鸞でさえ救われたのだから、どんな人も救われるし、見捨ててはいけない。すべての人は、阿弥陀仏のお力によって導かれているし、この親鸞もまた導いて頂いている人の中の一人なのだ。親鸞には何の力もない。何が正しい事か何が間違っている事か分からない。ただ、阿弥陀仏のお力によって流され、運ばれている一人であり、皆さんもそうなのです。そんな素晴らしいお力を持たれた阿弥陀仏に対し、心から頭が下がります。

・法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
なぜ親鸞今このような身に救われたのかと言いますと、阿弥陀仏がまだ仏のさとりを開かれる前、法蔵菩薩と言われていた時、世自在王仏のみもとで次のように誓われた事から始まったのです。その時の事が歎仏偈の中に次のように教えられています。
法蔵菩薩は世自在王仏の説法を聞き、世自在王仏のなされようとしている崇高な願い、そしてその願いを果たすためにどんな道を進んでこられたかという事を知って、「何と素晴らしい夢を持っておられる方なのだろう。この方の夢に比べたならば、私が今まで考えてきたことは余りにもちっぽけでお粗末であった。だから、私は今まで派閥をつくってその中で自分が一番になって、まわりの人たちを自分の思い通りにしようとしてきたのだと思う。しかし、この方と出会っても、それが如何に小さなことにとらわれて、どうでもいいことを問題にしてきたかが分かりました。私は恥ずかしいです。これからはこの方の夢を自分の夢とし私も生きていきたい」と無上菩提心を起こされ、国を捨て王を捨て、何の権力もお金も自分の力としない、常に裸の自分で人と向き合っていく一人の沙門となりました。そして、今の自分の気持ちや決意を世自在王仏に対して言われました。
「世自在王仏よ。あなたのお顔はいつもキラキラと輝いています。それは、この世で最も素晴らしい夢を持って、その願いを果たすために生きておられるからであると思います。その夢に比べたならば、太陽や月の光も、また宝石の輝きでさえもその光を失い、ただの炭のようになってしまうでしょう。また、あなたの柔和なお顔は、あなたがこの夢を叶えるためにどんな道を進んできたかという事を物語っています。それは、あなたが大宇宙のすべての人を救いたいと常に念じてきたからであり、その心の叫びは、今や大宇宙すべてに届かない所はありません。このようなお力を持たれるまで、どれだけ六度万行に励まれたか。それが今、柔和なお顔になって現れているのだと思います。世自在王仏様、あなたがこのような力を持たれるまで、様々な辱めを忍び、努力を続けることができたのは、きっとそれだけ一乗の世界に入った人だけが見ることができる諸仏の法海をより深く、より正しく理解され、その底の底まで知られたからだと思います。それによって得られた智慧によって、欲や怒りや愚痴などの煩悩から完全に離れられたのだと思います。世自在王仏様、あなたがこの素晴らしい智慧を体得されるまで、どれほど自分の心と向き合い、恐怖の炎の中に獅子の如く勇気を奮い起こして飛び込まれたのか。それを思うと頭が下がります。願うことなら、私もあなたのような仏になりたいです。そして、苦しんでいる人を導いて、苦しみのない世界まで出させてやりたいのです。そのために六度万行を続けていきます。
私は誓います。私が仏になったならば、不安に怯えているすべての人に心からの安心を与えるために努力を続けていきます。たとえ、そのために百千億万の仏の徳を身に付けなければならないとしても、私はその道をコツコツと地道に進んでいきます。それによって、智慧がなく闇に覆われているすべての世界に光を与えてあげたいのです。私が仏になったならば、私の心を受け継ぐ人たちは、皆どんな人を見捨てず受け入れる広い心を与えてあげたい。そして、自分の苦しみを抜くことばかり考えるのではなく、他人の苦しみを抜くために喜んで苦しみに耐えていける、そんな人になっていくように導きたいと思うのです。そして、どんな人を迎え入れようとも常に調和を計り、その中で争いが起きて誰かを見捨てるようなことは無くしたいのです。このようにして、私はすべての苦しみ悩む人を助けてあげたいのです。そのために、苦しむ人たちを助けるために大宇宙に飛び込んでいった善知識たちの心を浄土に生まれさせ、どんな苦しみがやってきても、その苦しみを他人のせいにせず、すべては自分を向上させていくご縁を受け入れ、自己を成長させていく喜びを感じさせてあげましょう。そして、その人の心を常に穏やかで静かな心にさせてあげましょう。この誓いは私の心からの願いです。そして、必ずこの願いを果たし遂げてみせましょう。そのためには、私はどんな苦労もいといません。どうか大宇宙の諸仏方よ。私が今からやることを見守って下さい。この願いを果たすために、たとえこの身が様々な非難や攻撃、疑いや不満をぶつけられるだけの一生だとしても、私の歩みは決してやめません。非難や攻撃は覚悟の上、それらを自分の心の痛みとして、受け入れ一緒に苦しんでいきましょう。そして、どれだけ苦しむことになろうとも、私は決して後悔しません。なぜなら、私が進もうとする道はそういう道だからです。
このように、法蔵菩薩は世自在王仏の前で誓われすべての人を救うために努力を始められたのです。しかし、これは法蔵菩薩だけの誓いではありません。阿弥陀仏に救われた人たちは皆、法蔵菩薩と同じ気持ちになり、同じ覚悟になっていくのです。私も経験しましたが、助けようと思う相手から疑いや非難の刃をぶつけられる事ほど苦しい事はありません。私はあなたを助けようと思っているのに、なぜこんな目に合わなければならないのか?私が何をした?そんな苦しい時、私はいつも、このお言葉が思い出されます。そして、私を助けるためにご苦労して下されました菩薩方もまた、私が今味わっている苦しみを味わい進んで行かれたのだ、そう思うと、時空を超えて菩薩方のお気持ちが知らされ、自分も負けてはおれないと励まされるのです。

・覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
これは先程、法蔵菩薩が世自在王仏に対して、自分の決意を述べられた後、
「私の願いは、今話をした通りです。世自在王仏よ、私はすべての人の苦しみを取り除くために自ら智慧を身に付け、仏になりたいという心を起こしました。願うことなら、その願いを果たすための教えを私に説いて下さい。私はあなたから教えて頂いた通りに実践して、素晴らしい徳に満ちている浄らかな世界をつくっていきたいと思います。そして、どうか智慧がないために迷い苦しんでいる人たちの苦しみを抜き去り幸せにしてあげられるような身になりたいのです」
その願いに対して世自在王仏は、
「あなたはそんなに素晴らしい気持ちを起こし、能力に満ち溢れているのだから、別に私に聞かなくても、法蔵、そなたが何を修行したらいいか考え、それを実践して浄土を建立したらいいのではないか?」
それを法蔵菩薩は、
「そんなことはとんでもない。私にはあなたのような素晴らしい智慧も経験もありません。だから、私はあなたの智慧を頂きたいのです。どうか、すべての人を助けるために諸仏方がどのように修行し浄土を建立されたのか、私に教えて頂きたいのです。そして、教えて頂いた通りに修行し、私の願いを満たしたいと思うのです。」
その言葉を聞き世自在王仏は、法蔵菩薩がやろうとしていることは、今の法蔵の力ではとてもできないような崇高な目的であることを知り、そして、その願いを満たすためならどれだけ時間がかかり、どれだけ苦労しても果たし遂げるのだという覚悟が決まっているのだということを感じ、法蔵菩薩が成し遂げようとしている事が如何に困難な事であるか、次のように諭されました。
「法蔵よ。そなたが今からやろうとしている事を譬えるならば、大海の水をひしゃくによって一人ですくい取って、それを何億回と繰り返して、その底にある宝物を手に入れるようなものである。大変な事ではあるけど、真心を尽くし、努力を続けていったならば、どんな願いであっても必ず果たし遂げることができるであろう」
そう言われると世自在王仏は法蔵菩薩のために広く二百十億の諸仏のつくられた世界の人たちの良い所と悪い所、そして、その国土の素晴らしい所とお粗末なところを区別して法蔵菩薩の心の願いに応じて説かれていった。そして、法蔵菩薩は世自在王仏の話を聞き、それぞれの諸仏の世界を見られ、どんな極悪人でも救われる大変素晴らしい無上の本願を建てられたのです。そこで、諸仏の浄土と阿弥陀仏の浄土の違いはどこにあるかとういことを明らかにして、阿弥陀仏が如何に無上の本願を建てられたのかを示したいと思います。
諸仏の浄土とは何かと言いますと、教行信証証巻には次のように教えられています。

(真宗聖典p402r1)
曰く、彼の浄土は、これ彼の清浄の衆生の受用するところなるが故に、名づけて器とす。浄食に不浄の器を用ゐれば、器不浄なるを以ての故に、食また不浄なり。
不浄の食に浄器を用ゐれば、食不浄なるが故に、器また不浄なるが如し。

 仏様の浄土はその浄土にふさわしい浄らかな人たちがいる世界なので、この浄土を器にたとえるのです。もし、浄らかな食べ物を入れるのに汚い器を使ったのなら、そこに入れた食べ物も汚れてしまう。反対に、汚れてしまった食べ物をきれいな器に入れたとしたら、食べ物の汚れが器に移り、器も汚れてしまう。

つまり、諸仏の浄土というのは、すでにその浄土に相応しい浄らかな人たちが住んでいる世界なので、その世界に相応しくない穢れた人が浄土に入ってしまうと、その穢れによって穢してしまう。それは丁度、人間の欲が美しい自然を破壊していったように、どんなに浄らかな世界をつくったとしても、そこにいる人たちの心が汚くなれば、その世界もまた汚くなってしまうのです。だから、諸仏方は自らの世界に入る人を選び、修行し、心を浄化して、その世界に相応しい浄らかな人間になった人を浄土に入れるのです。だって、せっかく頑張って苦労して浄らかにしたのに、それが他人のために汚されたとしたら嫌でしょ。だから、自分たちの浄土を穢す人はお断りだし、入りたいのなら、まず自らの心を浄らかにしてから入りなさい。これは当然でしょ。これが諸仏の浄土です。ポイントは、自分のためなら頑張れる。他人と付き合うとしても、その人によって足を引っ張られるなら、付き合いたくない。だから、私も頑張るから、あなたも頑張って下さい。そして、お互いにこの浄らかな世界を守っていきましょう。これが諸仏の浄土であり、諸仏の浄土にいる人たちの心なのです。
それに対して、阿弥陀仏は私の浄土にいる人たちには、こんな気持ちになって欲しくないと望まれました。そして、阿弥陀仏は自分の浄土には、浄らかな世界を望む人たちではなく、浄らかにしていくことを自らの喜びとする人たちで満ち溢れさせたいと思われたのです。他人のために苦労し、功徳を積み、それを惜し気もなく相手に与えていく。勿論、相手に与えたら自分の功徳はなくなってしまう。また、もう一度頑張って功徳を積まなければいけない。普通に考えたら、「また苦労して功徳を積んでいかなければならないの?」と思う所ですが、その苦労を自らの喜びとして、進んでいく。阿弥陀仏の浄土とは、浄らかになった世界だけが浄土ではなく、浄らかにしていく道程もまた浄土なのです。そんな他人の苦しみを取り除いていく苦労を自らの喜びとする。そんな人たちに変えていきたい。それが阿弥陀仏の浄土にいる人たちなのです。私が思うに、阿弥陀仏の浄土はどこにあるか?それはまさにこの世界そのものが阿弥陀仏の浄土ではないかと思うのです。これを聞くと、「こんな苦しい世界が浄土であるはずがない。浄土とはこことは違うもっと素晴らしい世界のはずだ」と思うかもしれません。でも、幸せや苦しみを感じるのは、この心です。この心が幸せならば、それはどこであっても幸せな世界でありますし、反対に、この心が苦しんでいたら、そこがどんなに豊かな世界であったとしても苦しみの世界に映るのだろうと思います。心を浄化していく喜びが知らされた人にとって、この世界はまさに幸せに満ち溢れた浄土になります。だって、苦しんでいる人は満ち溢れていますし、やる事は一杯ある。それが楽しみならば、これ以上に幸せな事はないでしょ。このような気持ちになれないのは、早く楽になりたいと思っているからです。今の苦労が苦しみだから、苦労のない世界に出たいと思うのであって、その苦労自体が喜びになってしまったならば、この世界はそっくりそのまま幸せな世界に変わってしまいます。私たちは誰しも苦労したくないと思っています。たとえ、今苦労したとしても、それはやがて苦労しなくて済む身となりたいからであり、楽がしたいと思うからこそ頑張るのです。これと同じように浄土を求めるのも浄土へ往って楽になるためであり、楽になりたいからこそ今浄らかになるように頑張っているのです。でも、阿弥陀仏はそんな私たちの心を変えて、浄らかにしようとすること自体を喜びにしようと願われたのです。たとえ自分がきれいにしたこの世界を誰かによって、また汚されたとしても、私はまたきれいにしていこう。なぜなら、きれいにしていくことが、私の幸せであり、それによって苦しみが抜ける人がいるならば、そんな嬉しい事はありません。そんな心へと変えて下されるのが、阿弥陀仏の本願なのです。私は阿弥陀仏の浄土と諸仏の浄土との違いは、諸仏の浄土は浄らかな世界であるのに対し、阿弥陀仏の浄土とは浄らかにしていく世界であると思うのです。だから、阿弥陀仏の浄土を海にたとえられるのです。海は川から流れるどんな水も嫌がらず受け入れ、同じ塩味という一味に変えてしまいます。それと同じように、阿弥陀仏の浄土もまた、どんな極悪人でも受け入れ、浄らかな心を持った菩薩へと変えてしまう。そんな海のような功徳の収まった世界なのです。海のような浄らかな功徳の収まった世界だからこそ、どんな穢れた人間がやってきても、極楽がそれによって穢れてしまうことがないのです。これを正信偈では無上殊勝の願、希有の大弘誓と言われているのです。

・五劫思惟之摂受
法蔵菩薩はその後、どうしたらどんな極悪人でも救うことができるのだろうか、また、すべての人をどうしたら浄土へ往生させることができるのだろうかを考えられました。そして、その願いを満たすために自分は何をしたらいいのか、五劫(一劫は四億八千二百万年)もの間考えられ、そして、法蔵菩薩は二百十億の諸仏方が浄土を作るために行った修行をすべて成し遂げられ、その願いを果たすための力を持たれたのです。そしていよいよ自分がどのようにしてすべての人を助けようと思うのか、それを世自在王仏の前で告白されたのが有名な阿弥陀仏の四十八願なのです。

・重誓名声聞十方
重誓とは、法蔵菩薩が四十八の誓いを建てられた後、改めて要するに自分はどのような願いを立てられたのか、その願いを果たすためにどのような力を身に付けようとされるのか、そして、その力を今からどのようにして身に付けていくか、という事を重ねて誓われたものです。その中で、なぜ親鸞聖人が名声聞十方の言葉を挙げられたのか、それは分かりませんが、推測するに、阿弥陀仏はすべての人を浄土へ連れて行きたいと願っておられる。その願いは大宇宙すべてに届いており、その願いの声が届いた人は、まだ聞こえていない人に届けて欲しい、そうしなければ、すべての人に阿弥陀仏の願いが届かないし、すべての人が救われることにはならない。すべての人が救われる。そのためにはどんな人でも見捨てず、阿弥陀仏がこの人も助けようとされているのだからという気持ちで見守っていかなければならない。阿弥陀仏の願いをみんなの力で叶えていこう。そんな願いを込めて親鸞聖人は名声聞十方の言葉を書かれているのではないかと思いました。

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