教行信証解説【4】

教行信証 解説

4.p300-304

(真宗聖典p300)
一乗の極唱、終帰、悉く楽邦を指す。万行の円修は最勝独り果号に推る。良に以るに因より願を建て、志を秉りて行を窮め、塵点劫を歴て済衆の仁を懐き、芥子の地も捨身の処に非ざることなし。悲智六度、摂化して以て遺すことなし。内外の両財、求むるに随ひて必ず応ず。機興り、縁熟し、行満ち、功成り、一時に円かに三身を証し、万徳総て四字に彰る、と。

※一乗の極唱…一乗教の至極の説法

※一乗…仏の教えは絶対平等であり、それによって、すべての人が成仏できると説く説法。教法を悟りの彼岸に運ぶ乗り物にたとえた語。法華経を中心に置く天台宗で特に強調。一乗教。

※一乗…一乗とは、仏教、とりわけ大乗仏教で、仏となることの出来る唯一の教えのこと。一仏乗、仏乗とも言う。「一」は唯一無二、「乗」は衆生を乗せて仏果に運ぶ教法の意。

※一般的には、「法華経」が一乗の教えと言われるので、「法華一乗」と言われる。

法華経の素晴らしい教えによって悟りを求めた人は、そこに説かれている素晴らしい聖者になる事はできないと、ことごとく知らされ、悪人でも救うと誓われた弥陀の本願を最後には求めている。それは、私たちがどれだけ永い間、修行に励んだとしても、弥陀のつくられた名号の功徳には遠く及ばないからだ。よくよく考えてみたら、阿弥陀仏は法蔵菩薩の時に「苦しむすべての人を助けてあげたい」と本願を建て、「この本願を果たすまでは、たとえどんなに苦しみを受けようとも最後まで耐え忍び、努力を諦めることはしない」という志を立て、修行に励み、気の遠くなるような長い間、功徳を集め、それによって、どんな人をも救う事の出来る大慈悲心を完成され、それを与えるために、私たち一人一人に対してずっと昔から心をかけ続け、何とか救おうとされている。このような阿弥陀仏のみ心によって、私たちは一人残らず救われることができるのです。

※内外の両財…布施をする財宝を内財と外財に分けたもの。内財とは自らの心身を言い、外財とは物質的な財宝を言う。

阿弥陀仏のこのようなお気持ちを聞いて、あなた自身が本当に助けてもらいたいと思ったなら、あなたの持っている肉体も財産も、この仏法にかけて求めなさい。弥陀も命をかけておられるのだから、あなたも命をかけなければ阿弥陀仏のお気持ちは分からない。そうやって求めたならば、求めただけのものは必ず得られます。このような気持ちで求めたならば、やがて縁が熟し、阿弥陀仏の行が私の中で満たされ、私に仏の功徳が身に付き、あなた自身が阿弥陀仏となることができるのです。

※三身…大乗仏教における、仏の三種類の身のあり方(法身・応身・化身)で、仏身観の一種である。

法身…宇宙の真理、真如そのもの、仏性
報身…仏性の持つ属性、働き。あるいは、修行して成仏する姿
応身…この世において悟り、人々の前に現れる仏

※この文章を読んで思った事ですが、阿弥陀仏が命をかけて私たちを救おうとされている。そのみ心を知るには、求めている私たちも、また命をかけなければ分からないのだな、ということです。命をかけるとは、単にその時の感情で「よしやるぞ!」と思うだけでなく、人生という時間をかけて、仏教に時間をかけていく必要があるということです。求める者には、必ず応じてくれる。私自身が仏教に対して、どれだけの思いで臨んでいるか。それがそのまま、未来の結果となってやってくるのだと思います。

(真宗聖典p300)
況や我が弥陀は名を以て物を接したまふ。是を以て、耳に聞き、口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知んぬ、少善根に非ず、これ多功徳なり、と。
 現在、生死から離れる事が出来ない者は、智慧がないために、何が正しい事か何が間違っている事か分からず、間違ったことを正しい事だと思い込んで、それをやり続け、自分の間違いに気付くことなく、六道を輪廻し続け、苦しみ続けている。今、善知識に会う事が出来て、その方から弥陀の本願力による説法を聞く事が出来た。その善知識の教えを心から信じ、聴聞によって穢れを取って頂き、それによって、往生できることを願い求めなさい。願うことなら、仏様、私に慈悲をかけて頂き、決して見捨てることなく浄土まで守って下さい。
(真宗聖典p288)
問うて曰く、阿弥陀仏を称念し、礼観して、現世にいかなる功徳利益か有る。答へ曰く、若し阿弥陀仏を称すること一声するに、即ち能く八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念以下も亦是の如し。
 私の信じている阿弥陀仏は名(みな)の働きによって、私たちを助けて下される。このお力は、聴聞によって耳から入り、説法という形となって外に現れてくる。説法といっても、形が決まっているものではなく、知らされた真実を周りの人にも知って頂きたいという気持ち、それが形に現れたものが説法である。そうやって説法し、仏法を伝えていく事によって、私たちの心の殻を破る仏の徳が、私の心の中に入り込んで、それが仏種となって私の中にある邪見を破り、仏の悟りを開いて下されるのです。このことを通して、ハッキリと知らされました。この弥陀のお力は、わずかな力ではない。私たちの苦しみを取り除き、運命を変えていく、大きな功徳があるものなのです。

(真宗聖典p300)
正念の中に、凡そ人の臨終は識神主無く、善悪の業種、発現せざること無し。或は悪念を起し、或は邪見を起し、或は繋恋を生じ、或は猖狂を発す。悪相一に非ず、皆、顛倒と名く。前に仏を誦するに因りて、罪滅し、障除こり、浄業内に薫じ、慈光外に摂して、苦を脱れ楽を得ること、一刹那の間なり。下の文に生を勧む、その利、此れにあり、と。

 たとえ、阿弥陀仏に救われ念仏をしている人であっても、臨終には自分の心をコントロールする理性が無くなってしまうために、その人の心に抱えている業に応じて、善悪様々な姿が外に現れてくる。悪業を抱えている人は、様々な悪い感情が吹き上がったり、また、まわりのものを歪めて見て、悪く思ったりする人もいる。

※繋恋…愛着の情

また、この世との別れのために様々な執着が吹き上がり、その苦しみのために発狂したように暴れ、のたうち回る人までいる。このような苦しみの姿は、一つではない。これ皆、無常の分からない顛倒の心から起きるものである。この様に悪業によって苦しんでいる人であっても、弥陀に救われ説法していた人は、心の中に無漏の種子が薫習されているために、自分の客観的な姿が照らされ、知らされ、煩悩が吹き上がっても、煩悩即菩提が起きて一瞬の間に苦しみが取り除かれ、心が楽になる。これが弥陀に救われることによって、得られる幸せである。だから、下の文に弥陀に救われることを薦めておられるのである。

(真宗聖典p291)
又云く、「門々不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんが為なり。利剣は、即ちこれ弥陀の号なり。一声称念するに罪みな除こる。微塵の故業、智に随ひて滅す。覚へざるに真如の門に転入す。娑婆長劫の難を免るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり。種々の思量巧方便を以て、選びて弥陀弘誓の門を得しめたまへり」と。{以上抄要}
 また、仏教の教えは、その教えごとに同じではなく、八万四千もの膨大な教えがある。しかし、その教えの目的は、無知の闇を破り、真実を知らせることによって、自分の思想の間違いに気付かせ正していく。それによって、苦しみを生み出す負の連鎖を断ち切り、苦しみを取り除いていく。つまり、思想的な間違いを正す事によって苦しみを取り除く、それが仏教の目的です。ところが、頭でどんなに分かっていたとしても、自分の間違いを正す事はなかなか出来ない。それは、業力が邪魔をして、間違いを受け入れる事が出来ないからである。弥陀のお力は鋭い剣のようなもので、説法によって弥陀のお力が届くと、業力を断ち切り、真実を知らせて、間違った思考を正してくれる。過去から引きずってきた無数の悪業も、説法や聴聞によって智慧を頂き、真実が知らされることによって滅してしまう。この身になった人は、弥陀のお力によって真実が見えるので、罪を滅していく事が出来る。だから、教えを導く善知識がいなくても、煩悩を滅し仏のさとりを開くことができるのである。しかし、この身になるまでには、善知識・釈迦の永い間のお導きがあって、やっとなることが出来るのである。善知識が様々な教えを説き、心を育て、導いてくれることによって、弥陀の救いにあずかることができたのである。
(真宗聖典p300)
慈雲法師の云く、天竺寺の遵式(元照観経義疏)「唯、安養の浄業は捷直に修すべし。若し四衆ありて、速に無明を破し、永く五逆・十悪・重軽等の罪を滅することを得んと欲はば、当に此の法を修すべし。大小の戒体、また復清浄なることを得、念仏三昧を得、菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲はば、当にこの法を学すべし。臨終に諸々の怖畏を離れ、身心安快にして、衆聖前に現じ、授手接引せらるることを得、初めて塵労を離れて即ち不退に至り、長劫を歴ずして、即ち無生を得んと欲はば、当にこの法を学すべし等〉と。古賢の法語、よく従ふことなからんや。以上五門、綱要を略標す。自余は尽さず、委しく釈文にあり。『開元の蔵録』を案ずるに、この『経』、凡そ両訳あり。前本はすでに亡じぬ。今本はすなはちキョウ良耶舎の訳なり。『僧伝』に云く、キョウ良耶舎は、此に時称といふ。宋の元嘉の初め、京邑に建せり。文帝の時なり。

 慈雲法師は次のように教えられている。「ただ弥陀が勧められる浄土へ往生するための浄らかな行いは、教えを深く聞き、自分の間違いをこまめに正し、求めていきなさい。もし、仏法を求める出家や在家の人がいて、その人が速やかに自分を正当化し、自分の間違いを認めようとしない愚痴の闇を破り、正しい教えによって自分の間違った考えを正す事によって、永遠に五逆や十悪、そして、重い罪や軽い罪などを滅しようと願うのなら、男も女も関係なく、まさに、この教えを実践しなさい。また、自分の心にある真理に合わない不純な考えを取り除き、清らかな心になり、また弥陀のお力によって説法できるようになり、六度万行を実践し、仏になりたい、と思うのなら、まさにこの教えを学びなさい。

※四衆…出家者の集団と在家者の集団をそれぞれ男女で区分したものである。出家者は、比丘・比丘尼。在家者は、優婆塞(男)・優婆夷(女)。

死を目の前にして、吹き上がる様々な不安や怖れを離れ、身も心も安らかに快しく、阿弥陀仏に迎えに来て頂き、私の手を引き、浄土へと導いて頂く身となり、今まで長い間、生死生死を繰り返して、もがいても離れる事が出来なかった煩悩から初めて離れ、もう三悪道へと堕ちることのない身になり、そして、智慧がないために同じ失敗をして流転輪廻を繰り返し苦しみ続けることなく、阿弥陀仏から頂く智慧によって、迷いを破り、無生法忍の悟りを開きたいと思うのなら、この教えを学びなさい。」この様に勧められる、いにしえの賢者の真実の言葉にどうして従わないのか。以上、五つの教えの大網を簡単に説明させて頂きました。これ以外の事は、ここで述べなくても、詳しく釈文の中に教えられているので、詳しい事を知りたければそこを読んで下さい。「開元の蔵録」には、この経には、大体、二つの解釈されたものがある。しかし、前の一つは残念ながら失われてしまい、現在残っていません。現在残っているものは?良耶舎(きょうりょうしゃ)の訳である。「僧伝」にはこの?良耶舎のことを「時称」と言われている。宋の元嘉の初め、文帝の時代に京邑という都にいた人である。

※この文章を読んで疑問に思うことは、”この教え”と言われているものは何を指すのか、ということです。この教えは邪見を破り、菩提心を起こさせ、この世に菩薩を誕生させ、臨終の苦しみを取り除いてくれる。すごい働きのある教えであることは分かったが、その内容については、残念ながら分かりませんでした。

(真宗聖典p301)
慈雲[遵式なり]讃じて云く、了義中の了義なり。円頓中の円頓なり、と。{以上}

 慈雲はこの経をほめたたえ、次のように言われました。この教えは、お釈迦様が様々な教えを説かれた中で、最もお釈迦様のみ心が説かれているお経であり、苦しみを取り除き、悟りを開く教えは色々あるが、その中でも最も早く仏の悟りまで開くことのできる教えである。

(真宗聖典p301)
大智[元照律師なり]唱へて云く、「円頓一乗は純一にして雑はることなし、と。{以上}
 元照律師が繰り返し称えるように言われていた事は、すみやかに仏になれるたった一つの教えは、不純な考えが全くなく、まさに真実そのものである。
(真宗聖典p301)
律宗の乃ち是れ劫を積みて薫修し、其の万徳を攬りて総て四字に彰す。是の故に、之を称するに益を獲ること浅きに非ず、と。{以上}

 律宗の戒度(元照の弟子)は次のように言われています。仏様の名前は、単なる名前ではなく、その仏様の持っておられる徳をあらわす。ですから、仏様はその名前にあるような徳を身に付けるために、長い間、功徳を積み、その身に薫習し、その名前にあるような徳を持たれた仏様になられたのです。阿弥陀仏もまた、阿弥陀という名前の通り、無限の智慧と命を持たれた仏様であることが、阿弥陀仏の四字の名前からも分かります。そこで、仏を念ずると、その仏の徳が身に宿り、薫習されていくので、弥陀のお力によって説法し、念仏をする人は大変な功徳があるのです。

(真宗聖典p301)
律宗の用欽[元照の弟子なり]の云く、「今もし我が心口を以て一仏の嘉号を称念すれば、則ち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざること無し」と。{以上}

 律宗の用欽(元照の弟子)は次のように教えられています。今、もし私の心に阿弥陀仏が宿り、そのお力が説法という形で外に現れ、仏法を伝えていったならば、私のような凡夫の身が、やがて仏になるまで、無量の功徳がまるで炭に火がつくように、私の心に宿り、火が炭を焼き尽くし、火そのものとなるまで炭を燃やしていくように、私の心に宿った弥陀の大慈悲は私の心を燃やし、仏まで導いて下されるのです。

(真宗聖典p301)
又云く、一切諸仏、微塵劫を歴て、実相を了悟して一切を得ず。故に無相の大願を発し、無修の妙行を住し、無得の菩提を証し、非荘厳の国土に住し、無神通の神通を現ず。故に舌相を大千にあまねく無説の説を示す。故にこの経を勧信せしむ。豈、心に思ひ、口に議るべけんや。私に謂く、諸仏の不思議の功徳、更に弥陀の二報荘厳、持名の行法に収むべし。彼の諸仏の中に、亦須らく弥陀を収むべし、と。{以上}

 この世にまします、すべての仏様は気の遠くなるような長い間、修行することによって、この世の真実を悟った。それは丁度、水鏡に月を映すように、月は水に映ってはいるが、月そのものがその水の中にある訳ではない。丁度、そのように、仏の悟りも、仏の澄み切った心は世界をありのままに映すが、だからと言って何かが自分のものになった訳ではない。このようなものが仏の悟りであるから、仏様はその心に、この世のありのままの姿を映す事によって、この世界で真理が分からないために苦しみ続けている人々の苦しみが分かり、その苦しみを取り除いてやりたいと慈悲の心が起きる。そして、人々の苦しみを取り除いていく活動は、まるで川の水が上流から下流へと流れていくように、力みがなく自然に行動している。自分の中で「こうならなければならない」というとらわれがないから、無理をして自分を傷付けたり、相手を傷付けたりすることなく、現実を正しく受け入れ、今できる事、相手のためにしてあげられることをコツコツと続けていかれる。そして、その活動の結果、様々な智慧が知らされ徳が身についても、それは自分の物だと誇る気持ちもない。そして、その仏様の活動によってそこに浄らかな世界が出来ていったとしても、これは自分の努力によって生み出されたものだと思うことなく、この世界に対して執着することもない。ただ阿弥陀仏のみ心のまま活動し、弥陀のお力を借りて仏法を伝えていくだけなのである。このように、この世の真実が知らされ、そこから様々な心が起き、活動していくままが、弥陀のお力によって動かされているのであり、それがそのまま、苦しんでいる人を救う無限の活力となるのです。つまり、諸仏が真実を知らされ、それによって動かずにおれない姿こそ、弥陀の働きそのものなのです。

※二報荘厳……正報(仏身)と依報(仏国土)の荘厳

※持名の行法…名号をたもつ行業、称名

このような理由で、私はこの経を勧めるのです。この弥陀の働きは、真理を知らされた人にしか分からないことだから、どうして私のようなものが想像したり言葉で説明したりすることができようか。私にして言わせてもらえば(以下分かりません)

(真宗聖典p302)
三論の祖師、嘉祥の云く(観経義疏)、「問ふ。〈念仏三昧は何に因りてか、よく是の如き多罪を滅することを得るや〉と。解して云く、〈仏に無量の功徳まします。仏の無量の功徳を念ずるが故に、無量の罪を滅することを得しむ〉」と。{以上}

 三論の祖師嘉祥は、次のように言われている。お尋ねします。「念仏三昧は、どうして、それほど沢山の罪を滅することが出来るのでしょうか?」私が理解している事でお答えしますと、「仏には無量の功徳(徳を与える働き)がある。仏を念ずるというのは、仏の無量の功徳を念ずることであり、それによって無量の功徳を頂くので、多くの罪を滅することができるのである」

※なぜ仏を念ずることにそれ程の功徳があるのか?ここで言う念とは、心が仏の世界と通じ、そこから様々な智慧を頂き、その智慧が心を通り、口から説法という形となって現れる。その際、仏の智慧が私の心を通り、心の穢れを取り除いてくれる。あくまでも、念仏とは、苦しんでいる人を目の前にし、その苦しみを取り除いてあげたい、という気持ちから起きるものである。念とは、心で想像することではなく、心が受信器となって、仏からのお力を受けること。受け取ったお力は、心の中で映像となり、それが口から説法という形となって現れる。この心の中に浮かぶ映像が念である。

(真宗聖典p302l5)
法相の祖師、法位の云く(大経義疏)「諸仏は皆、徳を名に施す。名を称するは即ち徳を称するなり。
徳よく罪を滅し、福を生ず。名も亦是の如し。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること、決定して疑なし。称名往生、これ何の惑か有らん」と。{以上}

 法相の祖師である法位は、次のように言われている。諸仏方の名前は、それぞれ、その仏様の持っておられる徳をあらわしている。だから、その仏様の名前を挙げてほめたたえている人がいたら、それはその仏様の徳に触れたからだ。徳には、その徳に触れた人の罪を滅し、幸せをもたらす働きがある。このことは、仏様の名前であっても同じ事が言える。もし、仏様のお名前に力があることを信じたならば、その仏名の功徳によって、善が生じ、悪を滅することができる。このように、仏名を称えて功徳を積み往生する事は、最も早く往生できる道なのだから、どうしてそれをためらう事があるだろうか?

※仏様のお名前を口に出すだけで功徳がある、昔の人はこのような考えを信じてきた。それは、まず「お経というのは大変功徳があり、訳が分からなくても、その言葉を口に出して称えるだけで功徳がある」と信じられてきたからであり、それがやがて、「お経を読まなくても、お経の名前を聞いたり、読むだけでも大変な功徳がある」と信じられるようになった。だから、このように仏様の名前を口に出すだけで、功徳を積み往生できると思われたのだと思います。しかし、私はこの考えはおかしいと考えています。なぜなら、仏教で説かれる真理は離言真如、どんな言葉をもってしても表す事ができない真理を何とか私たちに伝えようと言葉をもって伝えられたものが、今日お経となって残っている教えです。ですから、真理を月、お経をその月を指す指にたとえたならば、どんなに指を見ていても、その指の示す方向を見なければ月は分かりません。同じようにお経をいくら読んでも、そのお経に何が説かれているか正しく理解し、そのお経が教える真理が分からなければ、そのお経をいくら読んでも意味がありません。ましてや、お経を読む事なく、そのお経の名をいくら口で称えていても、その行為には何の意味もないのです。

(真宗聖典p302l8)
禅宗の飛錫の云く(念仏三昧宝王論)「念仏三昧は善の最上なり、万行の元首なるが故に、三昧の王といふ」と。{以上}

 禅宗の飛錫は次のように教えられています。念仏三昧は最上の善であり、数多くの修行の中でそれを代表するものであるから、「三昧の王」と言われるのです。

※ここで三昧とは何かと言いますと、仏教では禅定と言われ、心を静めて、自分の姿や世界をありのままに見る事を言います。仏教では、私たちの心を水鏡にたとえられ、世界をその水鏡に映して映した影を見ているものが、私たちの心で見ている世界であると教えられています。だから、心が散り乱れていたら、世界を映す水鏡も乱れているので、世界が歪んで見えてしまいます。世界がありのままに見えてこそ、自分の苦しめている原因も正しく知る事が出来ます。だから、自分の心が散り乱れ、世界が歪んで見えている状態では、苦しみの原因を間違えてしまい、いくら解決しようとしても解決できません。仏教では、このように苦しみの原因を間違えて苦しみから抜け出す事が出来ず、果てしなく苦しみ続ける状態を流転輪廻と言われ、この流転輪廻から抜け出すことによって、苦しみを解決できると教えられています。だからこそ、苦しみの原因を正しく知るために、禅定をし、心を静めるのです。
ところが、実際に心を静めて禅定をしようとすると、心の中に様々な雑念が吹き上がり、どうしても心を静める事ができません。親鸞聖人はこれを「定水を凝らすと雖も識浪頻に動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う」と言われています。これは、「定水を凝らす」と言うのは、心を静めて禅定をしようとすると、「識浪頻に動き」この識浪とは、この中から吹き上がる様々な雑念のことで、「あれがしたい、これがしたい」という欲望になって現れたり、「あれが気になる、これが気になる」と心を散り乱れさせ、心が中々静まりません。なぜ、この様に心が散り乱れるのか?それは、私自身の経験から言いますと、心が静まると、自分にとって都合の悪い現実が見えるからだと思います。では、その都合の悪い現実とは何か?
それは一つには、自分の間違いや出来ていない所です。私たちは、人と比べて「これが出来ている、あれが出来ている」と出来ているところを自分の自信として生きています。この自信を仏教では慢と言われ、この慢によって自分の自信を保っているために、自分の間違いや出来ない所が知らされると、自分の自信が壊され落ち込んでしまうのです。だから、私たちは、自分の間違いをなかなか認める事ができず、心が静まると自分のありのままの姿が見えてしまうので、心を散り乱れさせ、本当の自分を見えないようにしてしまうのです。
次にもう一つは、自分が必ず死んでいかなければならないという事です。人間、生まれてきたからには、必ず死んでいかなければならないことは誰でも知っている事だし、分かっている事だと思います。でも、明日は死なないと思っているでしょう。いつかは死んでいかなければならないことは頭では分かっているが、それが明日とは思えない。当然、明日になったら、その次の日である明日は死ぬとは思えないですよね。そうやって、今日から見て明日は死なない、その次の日は死なないと、明日、明日と死を先送りしていく間に、いつの間にか、我が身の死が霧の中に隠れてしまうのです。だから、私たちは皆、本当に自分が死ぬとは思ってはいないのです。たとえ、いつか死んでいかなければならないとしても、それはあれもして、これもして、いろんな事をして、それからやってくると思っているのです。私たちは目の前の事で心が一杯で、その先の事を考えてはいません。でも、心が静かになると、心の中にかかっている霧が消えて、その先にある死が見えてしまうのです。つまり、人生とは、結局、死に向かって一日一日と進んでいくだけだと分かってしまうのです。だから、心を散り乱れさせて、自分の死を見えなくさせてしまうのです。
この様な理由で、私たちは、どんなに心を静めようとしてもできないのです。だから、月を水に映すように、世界を自分の心に映して、ありのままの現実を知ろうとしてもできないのです。仏教では、心を静めて、世界をありのままに知るためには、安心感が必要だと教えられています。この安心感とは、仏教の教えに従って、整理をして、持ち物を限定し、その物を大事にして、自分の心を支えてくれる人に囲まれていく事によって、段々と増えていきます。しかし、実際に安心感を得ようとすると、なかなか思うように得る事は出来ず、当然、その先にある心を静める事もできません。そんな私たちに対して教えられているのが、念仏三昧です。この念仏三昧とは、念仏という方法によって自分の現実を受け入れていく事を言います。これは、自分の心を静めることなく自分の現実を知る事が出来るので、自己の現実を受け入れることによって、同時に、自分の心を静める事が出来ます。では、念仏とはどういう方法なのかと言いますと、自分の身近な人と向き合って、その人の苦しみを取り除いてあげる事です。人間は本気で人と向き合い、その人の苦しみを解決してあげることによって、相手の様々な振る舞いを通して、自分の姿が知らされます。初めは「これは自分ではない、自分にはこんな醜い所はない」と否定しようとします。相手と向き合う事によって、段々と「これも自分の姿なんだなぁ」と知らされていきます。情けは人のためならず。相手の苦しみを取り除いてあげる事は、そのまま、自分の苦しみを取り除いていく事になるのです。これが念仏三昧です。なぜ念仏三昧と言われるのかと言えば、仏を念ずるとは、仏の心を念ずることであり、仏の心とは、観無量寿経の中に「仏心とは大慈悲これなり」と教えられているように、大慈悲の心の事です。この仏の心を我が身に起こして、大慈悲の心で、苦しんでいる人に向かう事が、そのまま仏を念ずる事であり、これが念仏三昧なのです。

(真宗聖典p302)
『往生要集』に云く、『双巻経』(大経・下)の三輩の業、浅深ありと雖も、然も通じて皆〈一向専念無量寿仏〉と云えり。三つに四十八願の中に、念仏門に於いて別して一つの願を発して云く、〈乃至十念若不生者不取正覚〉と。四つに『観経』には〈極重の悪人、他の方便なし。唯、弥陀を称して極楽に生ずることを得〉」とのたまへり、と。{以上}

(1)往生要集の中に次のように教えられています。
「大無量寿経」の中で、浄土へ往生しようと願う人に、上輩・中輩・下輩と三種類の人が教えられている。その三種類の人が往生するために行う善には優劣があるが、共通して、皆「一向専念無量寿仏」が教えられている。

※ここで一向専念無量寿仏とは、どういう心の状態になったことを言うのだろうか?無量寿仏とは、永遠の命を持たれた仏、そして、私たちに永遠の命を与えて下さる仏です。ここで言う永遠の命とは、私たちの肉体の事ではなく、肉体に宿る魂を永遠の命にして下されるという事です。私たちの魂は、始まりのない初めから存在し、終わりのない未来へと流れ続けていく存在です。しかし、私たちは、過去無量劫から、この魂を客観的に見る目がなかったために、私たちは自分に魂があることに気付かず、肉体を自分だと思って我を生み出し、それに執着しているのです。つまり、この肉体に宿る魂が闇に覆われているために、自分にそんな魂がある事に気付かないのです。無量寿仏は、そんな私たちの魂に光を与えることによって、この身に宿る魂の存在を明らかにしてくれるのです。これを仏教では無生法忍と言います。また、無量寿仏は永遠の命を持たれた仏であるので、その無量寿仏のお力に触れていくと、我が身の無常が知らされていきます。人間は必ず死ぬ。しかも、それは遠い先の事ではない。無量寿の命から比べたならば、人間の百年の一生なんてあっという間です。仏法を聞いて無量寿仏の働きに触れていくと、段々と命の儚さが知らされていきます。それは、いつ死ぬかもしれないという命ではなく、人生百年と言ってもあっという間に過ぎ去っていく現実です。私自身考えてみますと、「一週間なんてあっという間に過ぎ去っていくなぁ」と感じます。そうやって、一週間、二週間と過ぎ去っていく間に一ヶ月が過ぎ、気が付くと、もう一年、二年と過ぎている。光陰矢の如しと言われますが、まことに時間とは光の矢の如く瞬く間に過ぎ去っていくものだと感じます。結局、人間とはそうやって死へと向かっているものだと、ひしひしと感じます。そんな風に考えると苦しいので、欲を起こして誤魔化して見ないようにしていますが、欲が冷めると、また死に向かって進んでいるという現実が知らされる。ほとんどの人は、そんな事を考えることなく、ただ何となく生きている。しかし無量寿仏の働きに触れていくと、我が身の死を考えずにはおれなくなる。やがて、どんなに誤魔化そうとしても、心にこびりついて離れなくなる。考えずにはおれなくなる。そうなった時が、一向専念無量寿仏になった時です。無量寿仏に一つに向くとは、我が身の死と向き合うという事です。そして、無量寿仏の事を専ら念ずるとは、我が身の死が頭にこびりついて離れなくなる事です。同時に心の中で「死にたくない」と叫んでいる心があることに気付きます。それこそ、我が身に宿る魂です。肉体は必ず死んでいく事を受け入れても、心の底で「絶対に死にたくない!」と叫んでいる心があります。無量寿仏とは、この死にたくないと叫んでいる闇に覆われた魂に光を与え、命を与えて下さるのです。これこそ無量寿仏の救いであり、その救いが始まった時が、一向専念無量寿仏の救いであり、一向専念無量寿仏になった時なのです。

三つに阿弥陀仏が四十八の本願を建てられた中で、念仏門の教えでは、その中の十八願を特別な願として挙げられ、その十八願の中に「乃至十念若不生者不取正覚」(念仏を続けていく者を、もし浄土に生まれさせることが出来なければ、この弥陀は仏の悟りを開きません)と教えられています。
四つに「観無量寿経」には、「罪が重く、自分の心がどうにもならない悪人には、浄土に往生するための様々の方便はあっても、実践が出来ない。だから、弥陀を称すること以外に極楽に往生する道はない」と教えられています。

※ここで「乃至十念若不生者不取正覚」というのは、この「乃至十念」とは、十七願の諸仏が説法という形で説いてくれる称名をひたすら聞いていく事を言います。ですから、口でどんなに「南無阿弥陀仏」と言っていても、私の前に真実を説いてくれる善知識が現れなければ、浄土へ往生する事はできません。次に観経の教えでは、「智者、復、教えて合掌叉手し、南無阿弥陀仏と称せしむ、仏名を称するが故に、五十億劫の生死の罪を除く」と教えられています。これは、善知識が私のために教えを説かれて、その教えを聞いた人が心から感動し、手を合わせて「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏のお力に対し、心から頭が下がります)と喜びの声をあげた。この様に、善知識の説法によって「南無阿弥陀仏」と仏名を称している人は、五十億劫の罪が除かれた人なのである。つまり、念仏の教えと言っても、それは善知識から教えを聞く事であり、その教えを聞いていく事によって往生する事が出来るのです。

(真宗聖典p302)
又云く、『心地観経』の六種の功徳に依るべし。
一つには無上大功徳田、
二つには無上大恩徳、
三つには無足・二足及び多足衆生の中の尊なり。
四つには極めて値遇し難きこと優曇華の如し。
五つには独り三千大千界に出でたまふ。
六つには世・出世間の功徳円満して一切義つの依なり。
此の如き等の六種の功徳を具して、常に能く一切衆生を利益したまふなり、と。{以上}

 「心地観経」の中に六つの功徳が教えられている。
・一つは、無上大功徳田
(そこに施すことによって、仏道を進む事が出来るという、無上の功徳が得られるもの)。
・二つには、無上大恩徳(無上のご恩があるもの)。
・三つには、足のないもの、二つの足で歩くもの、そして、たくさんの足を持っている生き物の中で尊ばれる存在である。
・四つには、優曇華のように滅多に会えないものである。
・五つには、世の中に迷った人達しかいない中で、一人、迷いから覚めて悟りを開いたものである。
・六つには、仏法・世法、両方の功徳を完全に得て、それを元にして、すべての教えが説かれている。

このような六種類の功徳を持って、常にすべての生きとし生けるものに幸せを与えていくのである。

※この六種類の功徳とは、阿弥陀仏のもっておられる功徳の事だと思います。

(真宗聖典p303)
此の六種の功徳に依りて信和尚(源信)の云く、
「一つには念ずべし、一たび南無仏を称すれば、皆已に佛道を成ず、故に我、無上功徳田を帰命し礼したてまつる。
二つには念ずべし、慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子の如し。故に我、極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。
三つには念ずべし、十方の諸大士、弥陀尊を恭敬したてまつるが故に、我、無上両足尊を帰命し礼したてまつる。
四つには念ずべし、一たび仏名を聞くことを得ること、優曇華よりも過ぎたり。故に我、極難値遇者を帰命し礼したてまつる。
五つには念ずべし、一百倶胝界には二尊並んで出でたまはず。故に我、希有大法王を帰命し礼したてまつる。
六つには念ずべし、仏法衆徳海は三世同じく一体なり。故に我、円融万徳尊を帰命し礼したてまつる」と。{以上}

 この六つの功徳を元にして、往生要集を書かれた源信僧都は、次のように教えられています。
一つには、念じなさい。無明が破れ、一たび阿弥陀仏が知らされ、その阿弥陀仏に対し心から帰依をしたならば、阿弥陀仏のお力で利他を実践する菩薩となれますよ。この故に、私は無上功徳田である阿弥陀仏に対し、心から帰依し、頭を下げずにはおれません。
二つには、念じなさい。阿弥陀仏は、慈悲の眼によって、私たちをまるで自分の第一子のように平等に見て下される。この故に、慈悲の心で私たちの心を育てて下されるお母さんの存在のような阿弥陀仏に対し、心から帰依し、頭を下げずにはおれません。
三つには、念じなさい。大宇宙の諸の菩薩方は、尊い阿弥陀仏のことを恭しく敬っておられる。この故に、私はすべての生きとし生ける者の中で、最も尊い存在である阿弥陀仏に対し、心から帰依し、頭を下げずにはおれません。
四つには、念じなさい。無明を破り、阿弥陀仏の呼び声を聞く事は、千年に一度咲くという白蓮華が花咲く事よりも中々無い事である。この故に、私は極難値遇者(あうことが極めて難し、会い難き者)である阿弥陀仏に対し、心から帰依し、頭を下げずにはおれません。
五つには、念じなさい。この世にある数え切れない程の世界の中で、阿弥陀仏以上に尊い方はおられません。この故に、私はこの世に二つとない素晴らしい法の王様である阿弥陀仏に対し、心から帰依し、頭を下げずにはおれません。
六つには、念じなさい。仏法に教えられている海のような、諸々の徳は、過去・現在・未来の三世を通して変わらず普遍的なものである。この故に、私は円融万徳尊(すべての徳を身につけ、そして、その徳にとらわれる事もない程、自然に身に備わった)の阿弥陀仏に対し、心から帰依し、頭を下げずにはおれません。

※この部分は今一つ、何を意味しているか分かりませんでした。阿弥陀仏は、このような素晴らしい徳を持たれた方ということが書いてあるだけで、具体的にその根拠にあたる法が説かれていなかったので、この文章が何を言いたいのか、よく分かりませんでした。

(真宗聖典p303)
又云く、「波利質多樹の華、一日衣に薫ずるに、瞻蔔華・波師迦華、千歳薫ずと雖も及ぶこと能はざる所なり」と。{以上}

※波利質多樹…波利質多は梵語パリジャータ(palijata)の音写。香遍樹と漢訳する。トウ利天にあるという香木の名。
※瞻蔔(せんぷく)…Champakaの音写。樹の名。黄色の芳香ある花を咲かせる高大な樹の一種。くちなしに似ているという。香気が遠くまで薫り、金翅鳥が来て、これに止まるという。
※波師迦…雨季に咲く香りの非常に良い花

パリジャータの樹の花の香りが一日の間に衣につく香りは、たとえ香りが強いというチャンパカの花やハシカの花が千年の間香りをつけたとしても、遠く及ばない。

※ここで、花の香りとは、自分に身に付く徳の事を言われています。ですから、阿弥陀仏のお力で一日で身に付く徳は、私たちが千年かけたとしても遠く及ばない程の徳である、ということを言われているのだと思います。

(真宗聖典p303)
又云く、「一斤の石汁、よく千斤の銅を変じて金となす。雪山に草あり、名づけて忍辱とす。牛もし食すれば、即ち醍醐を得。尸利沙、昴星を見れば、則ち菓実を出すが如し」と。{以上}

※石汁…神秘的な仙薬
※尸利沙…合昏樹のこと

一斤の石汁は、その力によって千斤の銅を金へと変える力がある。雪山に忍辱という草が生えている。その草を牛が食べたならば、そこから醍醐を生み出す。シリシャという樹は、スバルを見ると実をつけるようなものである。

※阿弥陀仏のお力について教えられたものだと思います。なぜこのようにたとえたのか、よく分かりません。

(真宗聖典p303)
(一)『選択本願念仏集』[源空集]に云く、「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。
(二)又云く、「夫れ速やかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行の中に、しばらく諸の雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業の中に、なほ助業を傍らにして、選んで正定を専らにすべし。正定の業とは、即ちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生ずることを得。仏の本願によるが故に」と。{以上}

(一)選択本願念仏集には、次のように教えられています。南無阿弥陀仏、念仏こそ、往生の業である。
(二)それ、速やかに迷いの世界を離れたいと思うのなら、聖道門・浄土門と二つのすぐれた教えがある中で、しばらく聖道門をさしおきて、選んで浄土門に入りなさい。そして、浄土門の教えに入ろうと思うのなら、その教えの中に正行と雑行の二つの行がある中で、しばらく諸の雑行を投げ捨てて、選んで正行に帰しなさい。この正行を行いたいと思うのなら、正業・助業とある中で、助業を傍らにして選んで正業を専らにしなさい。この「正定の業」とは、阿弥陀仏の名を称することである。名を称することによって、必ず浄土に生まれる事が出来る。それは、弥陀の本願にそのように教えられているからである。

※教行信証に選択本願念仏集の引用はこの一ヶ所だけである。個人的に法然上人の教えは私として納得できない教えであり、ここに書いてあることを実践することによって浄土に往生できるとは思えません。

(真宗聖典p304)
明らかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。故に不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、皆、同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。是を以て『論の註』に曰く、「彼の安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生する所に非ざることなし。同一に念仏して別の道なきが故に」と。{以上}
 明らかに知らされました。私たちが弥陀の本願によって浄土へ往生する時、その為に必要な功徳は、私たちが自分の力で修行に励んで功徳を積んでいくのではない。すべて阿弥陀仏から功徳をさしむけて下されて、その功徳を頂くことによって浄土へ往生するのである。だから、これを不廻向の行(阿弥陀仏から功徳をひたすら受けていく行)と名付けるのである。だから、どんな人であって、阿弥陀仏の本願によって浄土へ往生するので、念仏していきなさい。この事を「浄土論註」には、次のように教えられている。彼の阿弥陀仏の極楽浄土は、阿弥陀仏のお力によって導かれて往生する。だから、その道程はどんな人も同じ道をたどるのである。
(真宗聖典p304)
しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きが故に、これを歓喜地と名づく。是を初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。何に況や十方群生海、この行信に帰命すれば、摂取して捨てたまはず。故に阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。是を以て龍樹大士は「即時入必定」(易行品)と曰ひ、曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)と云えり。仰いで斯を憑むべし。専ら斯を行ずべきなり。

 阿弥陀仏の本願に救われ、二種深信が立った人は、善知識の説かれる説法を受け取り、自分の間違いを正し、正見していけるので、心に喜びの心が多い。この様な身になった事を、浄土真宗では「歓喜地」と名付けるのである。本来、歓喜地とは初地のさとりを開いた時に言われるのですが、まだ初地のさとりを開いていないのに歓喜地と言われるのはなぜかと言いますと、初地になった人は真理が見えるので、たとえ欲に流されたとしても、真実を知り、自己の間違いを知り、修正していく事が出来るので、煩悩に塗れた世界に戻ることはない。それと同じように、弥陀に救われた人は、弥陀のお力によって真実を照らし知らせて頂けるので、自己の間違いを修正し、迷いの世界へ沈んでいくことを防いで下されるのです。このように私たちの迷いの心を打ち破り、真実を知らせて下されるので、この仏を「阿弥陀仏」(無限の智慧を持たれた仏)と言うのである。また、一切は自分の力でなく、阿弥陀仏のお力によって浄土へ往生するので、「他力」と言うのである。この様な理由から、初地になった時に言われる龍樹菩薩の「即時入必定」という言葉も、また、曇鸞大師の「入正定聚之数」の言葉も、親鸞は、まだ初地になるまでの弥陀に救われた時に、そのように言うのです。このように凡夫を初地まで、必ず導いて下される弥陀の本願を仰ぎ見て信じなさい。そして、善知識の教えを信じ、聴聞を続けていきなさい。※ここで、浄土に往生するとは、初地のさとりを開くことである。弥陀の本願に救われた人は、念仏を続けていく事によって、必ず浄土へ往生できる。浄土へ往生した人を、必定の菩薩や正定聚と言われるので、本来、浄土に往生した時に言われる龍樹菩薩の「即時入必定」という言葉や曇鸞大師の「入正定聚之数」の言葉を、浄土に往生する前の弥陀の本願に救われた時に使われているのです。では、次に、なぜ阿弥陀仏に救われた人は、念仏をしていくことによって必ず浄土へ往生できるのかと言いますと、ここで念仏とは、善知識の教えを聞いていくことを言います。善知識の教えには、私たちの真実の姿を明らかにしていく力があり、まだ弥陀に救われる前は、その真実の姿を認められず、反発しています。しかし、それでも、石に水で穴をあけるように、たゆまず続けて聴聞していくと、やがて石に穴があくように、頑固で反発ばかりしていた自分の心が弥陀のお力によって、真実の自分の姿を受け入れられるようになります。この時が弥陀に救われた時であり、機の深信が立った時でもあります。この先は、下に向いていたお椀が引っくり返るように、真実の水をどんどんと受け入れて、自己の間違いを正していけるので、念仏を続けていくことによって、浄土へ往生する事が出来るのです。

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