教行信証解説【10】正信偈-龍樹菩薩

教行信証 解説

10.正信偈-龍樹菩薩

弥陀仏本願念仏 邪見僑慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯

善知識の説法を信楽の身になる所まで聞き続けていく事は、邪見・驕慢の人たちにとっては甚だ難しい事であり、世の中で難しい事がある中でこれ以上難しい事はない。

ここで親鸞聖人は、邪見・驕慢の人は善知識の説かれる教えを心から信じ、浄土に往生する所まで教えられたことを実践していく事は、甚だ難しい事だと教えられていますが、では、邪見・驕慢とはどういうものなのでしょうか。
まず、邪見とは、世の中のすべてのものは移り変わっていく無常のものだという事が分からず、変わらないものがある(我)と思ってそれにすがり、自分のものにする事によって安心しようとする心です。そして、自分の信じているものに価値を置いて、それを自分のものにする事によって自分に自信をつけ、また、自分に力があると思って安心して生きていこうとする心です。しかし、自分に自信をつけようとする心は、無意識のうちに自分と他のものを差別して、自分に自信を持とうとして、他のものを価値が無いと馬鹿にして下に見ようとしてしまうのです。例えば、「女は子供ができると強くなる」と言われる事がありますが、それは、子供という自分にとって下に見る事ができる人ができる事によって、上に立ち、自信を持って強くなるのです。こういう女性にとって、子育ては自分が上だと感じられる所なので、お母さんが子育てに頑張れば頑張るほど、子供はお母さんから「自分は無力な存在だ」というイメージを植え付けられるので、やがてお母さんなしでは何もできない子供へと成長していきます。今日、社会に出られないニートが増えているのも、お母さんが無意識のうちに上に立つ事によって、子供の自信を奪っているからなのかもしれません。このような邪見から生み出されるものが、次の驕慢の心です。
?慢とは、まず?とは何かと言いますと、「昔の自分と比べて、今の自分はこういう事ができるようになった」、その事を自信として、「自分には価値があるのだ」と安心する心を言います。慢は次に説明しますが、他人と比べて自分が上か下かと比べる心ですが、?は昔の無力で自信の無かった自分と比べて今は、例えば筋肉が付いたとか、頑張れるようになったとか、健康になった、お金を稼げるようになったとか、そういうものを自分の力として「自分は強くなった」と安心する心です。次に慢とは、他人と比べて自分が上か下かを問題にする心です。だから、他人の上に立とうとして頑張るし、それでも勝てないと思ったら、他人を悪く見て、馬鹿にする事によって、自分の下に見ようとします。そして、自分が上に立つ事によって、他人を何でも自分の思い通りにしたいと思う心もまた慢です。勿論、当の本人は、相手を思い通りにしたいと思っている事には、これっぽっちも気付いてはいません。ただ「これは常識だからやらなければならない」と思っているだけです。「自分も常識に従って行動しているから、あなたも常識に従って行動しなさい」そうやって、相手に自分の我を通していくのです。本当は、相手に自分の我を通す事によって自分の力を確認して安心したいだけなので、相手の事を思って言っている訳ではないのですが、その人の中では、「相手が非常識だからそれを直してあげているだけなんだ」と思っているのです。だから、相手が注意されたくないと思って言われた所を直したとしても、また、他の悪い所を見つけては「こんな事もできないのね」と責めてきます。また、相手を責めるために自分も自分の信じている常識に従って行動し、自分は正しい事をしているのだから間違いないと思って、相手を責めていくのです。これが慢です。
つまり、?とは、価値のあるものを手に入れて自分に自信をつける事によって、無意識のうちに他人を馬鹿にする心であり、慢とは、他人と比べて自分が上に立つ事によって、下に見た人に対して思い通りにしたり、我を通したり、責めたりする心なのです。だから、?慢の心は自分が自信を保つために、まわりの人たちをどんどんと傷付けてしまうのです。しかも、邪見によって「そのように傷付ける事が相手のためであり、そうする事によって相手は良くなるのだ」と思ってしまうのです。思えば、学校の先生が不良に叱って直そうとする事も、仏教から見れば、先生が自分の自信を保つために生徒の悪い所を見つけては責めているだけなのかもしれません。だから、親鸞聖人は?慢の心はまわりの人たちを傷付けていくので、悪衆生(悪をつくっている人達)と言われているのです。
では、どうして邪見・?慢の心があると善知識の教えを素直に聞いていく事ができないのでしょうか?それは、仏法は本当の自分を明らかにしていく教えだからです。光ある所に影あり。何かに価値を置いて、それを自分のものにしようと理想の自分を求めれば求める程、その理想に合わない現実を醜いと感じて認められなくなります。また、何かを正しいと信じると、その正義に合わないものを悪だと決め付けて非難します。しかし、そうやって理想の自分を求めて正義を貫いたとしても、現実の自分はそんなに簡単に変わる訳ではありませんし、また、そんな事で変わるものでもありません。だから、理想の自分を求めれば求めるほど、その理想とはかけ離れた醜い自分を抱えるようになり、それが様々な縁によって見えると自分が責められているように感じたり、自分が悪いと言われているように感じたり、馬鹿にされているように感じたりするのです。だから、苦しくなって、どうしても醜い現実の部分を受け入れる事ができないのです。ところが、仏法は、聞いていく事によって、自分の都合とは関係なく、ありのままの自分の姿が見えてきます。勿論、その中には、今まで醜いと感じて目を逸らしてきた影の部分も含まれています。だから、?慢の心が強い人ほど、仏法を反発して聞く事ができないのです。私たちは自分は頭が良いとか、お金がある、権力があるなど、様々なものに価値を置いて、強くなろうとしたり、自分に自信をつけたりします。しかし、それは同時に他の人を差別して、見下す事によって得た自信なのです。現実の自分を認めるとは、今まで身に付けてきた自信を失う事です。そして、それは自信をつける前の無力で自信のない弱い人間に戻ってしまう事でもあります。人生を?慢という自信をつけるために費やしてきた人にとって、それは耐え難い苦痛であり、自分の人生を否定されたように感じるのです。だから、頭で仏法を聞いていかなければならないと分かっていても、心が反発して聞こうとしないのです。私は思うのですが、仏法という教えを聞いていく事は普通の人にとって難しいことなんだなぁと思います。だって、自分が心から信じているものを否定される事は、誰だって嫌な事ですからね。それでも続けて聞いていけるとしたら、私に人智を超えた弥陀の力が働いていなければ考えられません。だからこそ、今、仏法を聞いている方々はとても仏縁深い方なんだと感じています。「過去世、仏様から直接教えを聞かせて頂いた人でなければ、今生、教えを聞き求めていく事はできない」と言われていますが、本当にそうなんだと思わずにおれません。

印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機

インド、中国、日本に現れた龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信僧都、法然上人などの七高僧方が、皆、本当の仏教を明らかにされ、それによって弥陀の本願はどんな人でも救われる事を示して下さった。

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世

お釈迦様が楞伽山で、人々の前で、南インドに龍樹菩薩が現れるだろうと告げられた。

悉能摧破有無見

阿弥陀仏のお力によって、私たちの根本的な迷いである有無の見をことごとく破られた。

有無の見とは何か?
有無の見とは、物事を善か悪か、有るか無いか、価値があるか無いか、二つに分けて物事を区別する物の見方。この考え方によって、苦しみが生まれる。世の中を、これが正しい事であり、これは間違った事と分けるから、善悪に縛られて苦しむようになるし、正しい事をしている人は、間違った事をしている人を攻撃し、争いが起きる。私たちは自分の信じる正義のためならば、どんなに相手が傷付こうが平気だし、自分の命も差し出す。また、「正義のためだ、平和のためだ」と言って人の命を平気で奪っていく。また、有るか無いかという事で差別し、物事を見ていく。例えば、お金は無いよりもあった方が良いと思って、お金を求める。差別する心があるから、人と比べて勝った負けた、上か下かという事を問題にする。収入を人を判断する基準にするから、他人から良く見られたいと思ってお金を稼ぐ。だから、必要以上のお金を手に入れても満足できない。「もっと、もっと」とお金を求めていく。十分な程お金を手に入れても、「同期のあの人はもっと稼いでいる」と他人と比べては満足できず求める。有るか無いか、世の中そんな事で振り回されて、本当に大事な事が見えない。そんな私たちの迷いを龍樹菩薩は破られたのです。

宣説大乗無上法

大乗の教えこそ無上の教えである事を明らかに説き明かした。

大乗仏教とは何か?
お釈迦様の説かれた仏教は、釈尊死後、主に自身の苦しみの解決を目的とする小乗仏教と、お釈迦様が仏のさとりを開かれた後、人々の救済のために法を説かれていった姿(菩薩)を理想とし、人々の救済こそ仏法者の進むべき道であり、それが仏教だと信じる大乗仏教とに分かれた。龍樹菩薩は大乗仏教、小乗仏教の二つがある中で大乗仏教こそお釈迦様の本当に説きたかった教えであり、無上の道を進む教えだと明らかにされた。このように書くと、では小乗仏教はいらないのか?というように聞こえるが、決してそうではない。確かに大乗仏教は無上の教えではあるが、智慧が無い迷いの深い私たちは、どんなに大乗仏教が素晴らしい教えだと聞いても、自分がそんな素晴らしい菩薩になれるとは思えず、またなりたいとも思わない。ただ、「私たちを助けて下さる素晴らしい菩薩が現れて、その方がご苦労されるので私たちは救われるのだ」くらいにしか考えていないのです。だから、聞いている人たちの心は、人々の救済よりも、まずは我が身の苦しみの解決しか考えていないのです。そして、自分が楽になったらそれで良いし、自分が苦労したり苦しんだりしてまで他人を助けてあげようという気持ちは毛頭ありません。聞いている人たちにとって、そのような心が必要なのは、助けて下さる仏や菩薩方であって、助けて頂く私たちはそんな心にはなれないと思っています。つまり、大乗仏教と言っても、その教えを聞いている人たちの心は小乗仏教なのです。だから、龍樹菩薩は、そんな私たちに、「今は小乗仏教の心しかなくても、阿弥陀仏のお力によって、苦しんでいる人を幸せにしたいと思う仏心が必ず起きるのだ」と明らかにされました。それが次の証歓喜地生安楽です。

凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
凡夫も聖人も逆謗の者も、一念の信心に導かれて弥陀の本願海に飛び込んだならば、川から流れるどんな水も海に入れば同じ塩味となるように、本願海まで辿り着いた人は皆、心に大慈悲心が起きるのである。
まず、一味とはどういう意味なのかと言いますと、教行信証真仏土巻に次のように教えられています。
証歓喜地生安楽

阿弥陀仏のお力によって、仏身である大慈悲が心に生まれ、それによって弥陀の浄土に生まれられる身になった。

歓喜地とは何か?
私たちは誰しも他人と比べる心を持っています。他人と比べてどちらが上か、どちらが下かを問題にする心、他人に勝つと嬉しいし、他人に負けると悔しい。また、他人の上に立つ事によって自分に自信をつけたり、何かのきっかけで自信を失うと途端に自分は生きていても意味のない人間なんだと落ち込んだりもします。他人の言動に振り回されたくないと思いながら振り回されるし、そんな些細な事で振り回される自分も嫌。強い人間と思いながら、自分よりも下の人を見ては安心する。他人の幸せを見ては妬ましく思い、壊れてくれないかと心で願い、他人の苦しむ姿を見ては自分よりも下の人がいたんだと安心する。責められたくないと思っては頑張り、認められたいと思っては頑張り、何のために頑張ってきたのかも忘れて、幸せな人を見ては腹を立て、「こんなに頑張ってきたのにどうして苦しまなければならないの」と愚痴を吐く。考えている事はいつも自分、自分、自分ばかり。「どうしてこんなに苦しまなければならないの」と思ったり、楽がしたいのに苦労ばかりしていると思ったりしている。相手の事を考えたり、相手を思いやる心の余裕が無いから苦しんだり、苦労ばかりしているのだが、心が餓鬼のように渇いているその人には、そんな事はとても考える余裕がありません。この自分の事しか考えられない心、自分が上に立つ事しか考えられない、自分が楽をする事しか考えられない心、そんな心が地獄・餓鬼・畜生という世界を生み出すのです。心が世界を生み出す。自分の事しか考えない心は苦しみしか生み出しません。私たちは智慧が無いためにその事が分かりませんが、仏教を聞き、真実が知らされてくると段々と「自分勝手な心を離れ、相手を思いやるような優しい心になりたい」、そんな気持ちになります。しかし、頭でこうなりたいと思っても、過去の業は深く、なかなか自分勝手な心はなくなりません。それでも、仏法を聞き、教えを理解していくと、段々と自分の心の中で、自分も他人も区別する事無く平等に見る事ができる仏の心が育っていきます。やがて、泥々の泥の中で真っ白な白蓮華が咲くように、醜くて汚い自分勝手な心の中に、真っ白な大慈悲の心が生まれるのです。この大慈悲心は、自分勝手な醜い心を浄化していき、真っ白な浄らかな心へと変えていくのです。たとえ、どんなに煩悩が逆巻き心を穢したとしても、それによって大慈悲心までも穢される事なく、むしろ大慈悲心が心を浄化し、浄らかな心にしてくれるので、もう地獄・餓鬼・畜生に堕ちて苦しむ事はありません。今までこの三つの世界(三悪道)で苦しんでいた私たちには、これ以上嬉しい事はありません。だからこそ、この心の世界を歓喜地と言われるのです。この歓喜地になった人は、大慈悲心が心を浄化して浄らかにしてくれるので、必ず浄土(安楽国)に生まれる事ができるのです。これが証歓喜地生安楽です。

顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽

自分の心を自分の意志でコントロールし、浄らかにしていこうとする道は、陸路で目的地まであるいていくようなもので、自分の意志で歩いていかなければ前には進まないし、歩くのを止めてしまったら前に進む事はない。だから、この道は自分の気持ちが折れないように保ち続けていく事が難しく、たとえ気持ちが続いたとしても、長く苦しい道のりを進まなければならない。それに対し、阿弥陀仏のお力によって大慈悲心が起きた人は、その信心が私の心を浄化し、浄らかにしてくれるので、それはまるで船が川に流されて海へと自然に流れていくように、自分の意志とは関係なく浄土へと流されていくので、その道のりは全く苦労する事無く、楽しく幸せな道となるのである。龍樹菩薩は心を浄化させていくのに、この二つの道がある事を明らかに示された。

難行道とは?
難行道とは山にこもって修行をする事のように考えがちだが、仏教では形よりも心を問題にするので、この難行道も修行という形よりも難行道を信じている心こそ問題であり、実はそれが私たちの心でもあるのです。例えば、苦しみや困難にぶつかって自分の心が大きく動揺した時、誰かに頼る事なく自分の力で何とか心を整えて保とうとする事はありませんか?その心こそ、難行道を信じている心なのです。つまり、自分の心を自分でコントロールできると思う心、それが難行道を信じている心なのです。私たちは自分に自信があり、強い人間なんだと思う心があるので、苦しみや困難にぶつかった時、自分で何とかしようとしてしまうのです。もちろん、何でもかんでも他人任せにする事もおかしな事ですが、だからと言って、意地を張って自分一人で何とかしようとするのも間違っています。実は、自分一人で何とかしようとする心も、すべてを他人任せにする心も、共に同じ心なのです。それは、何でも一人でやろうとする人は、自分の力ではどうする事も出来ない事にぶつかると途端に自分の責任を放棄し、後の事は自分の知ったこっちゃないと無責任になります。結局、やりっ放しで誰かがその責任を取って後片付けをしなければならなくなるのです。そうやって他人に任せておきながら、自分はまるで悪いとは思ってはいません。むしろ、自分は頑張ったという所に立っているので、自分の努力を否定したくないので自分の間違いも認められませんし、最後の責任を取って問題を解決してくれた人の事を考える事もないのです。結局、この人が頑張っているのは、自分は出来る人間なんだと思いたいからであり、そこに自信を置いて、何とか証明したいからなのです。だから、一生懸命頑張っても出来ないと自分のプライドが傷付くから、出来そうも無い事があると、逃げてしまうし、自分が出来ないと認める事も無いのです。この自分の中にある「自分は出来るのだ」という自惚れの心、これを「難行道を信じている心」と言うのです。また、私たちは「自分は出来る」と思っていたいので、頑張っても出来そうも無い事、また、自信が無いものに対して初めから「これは自分とは関係ない」と思ったり、「やる必要が無い」と思ったり、「出来なくて当然なんだ」と思ってしまうのです。こう考えると、自分の力で修行して何とかさとりを開こうとする心も難行道を信じている心ですが、一方、「自分の力では煩悩はどうする事も出来ない。阿弥陀様に助けて頂くしかない」と思うのも、やっぱり難行道を信じている心なのです。つまり、私たちの心にある「自分は出来るのだ」と思って自信を持とうとする心、自分の間違いを認められず「本当は弱い人間なんだ」と認められない心こそ、難行道を信じている心なのです。この心は、本当に心を浄らかにしようとして一生懸命ぶつかっていかなければ、決して破れる事はありません。私たちは心の中では自分の事を強い人間だと思っていたいし、「自分はやれば出来る」といつまでも自惚れていたいと思っている。だから、ちょっと頑張って出来ないと、すぐに諦めて「どれだけ頑張っても出来ないんだ」と分かった気になってしまう。実は心では「本気を出せば出来る」と思っているのだが、本気を出して失敗したら自分に言い訳が出来ないので、いつも自分に言い訳するために手を抜いてしまう。考えてみたら、私たちは何かに本気になる事ってないんだなぁと思うのです。いつも出来なかった時の言い訳を残して、余力を残して、失敗しても傷付かない所に自分を置いて、何事も行動している。そして、失敗しても最後まで責任を取る事なく、「あれが悪かった、これが悪かった」と他人のせいにして、自分は悪くないと自己弁護をして、最後には「自分は間違っていなかった」という事にしてしまう。どこどこまでもズルい心が、私たちの中にある。だから、龍樹菩薩はちょっと頑張って出来なくて諦めようとしている人に対して「馬鹿者!仏道を求めるという事は、大宇宙を持ち上げる事とよりも重い事なのだ。そんな簡単に諦めてどうする」と叱っておられるのだと思います。人生は途中で投げ出してしまいたくなるような問題が、次から次へとやってきます。仏道とは、自分にやってくる問題一つ一つに向き合い、最後まで責任を取る事だと思います。今まで逃げてきた事に対して、向き合ってみて下さい。そして、それが出来るなら出来る、出来ないなら出来ないと、ハッキリさせて下さい。出来る事が出来るとハッキリしたら、本当の意味で自分の自信となるし、出来ない事が出来ないとハッキリしたら、他人に頭を下げて聞く事が出来る謙虚な心になれます。そして、その積み重ねによって、弱い心を認め、難行道を信じる心から離れていく事ができるのです。

易行道とは?
次に、易行道とは何かと言いますと、私の心に真実を見る仏の目が宿り、それによって世界がありのままに見えるようになっていく事を言います。私たちは、迷っているために、心に不安や苦しみが起きると欲や怒りなどの煩悩を起こして苦しみを誤魔化し、見えなくしてしまいます。しかし、どんなに苦しみを誤魔化し、一時的に心が楽になったとしても、それは苦しみを解決した訳ではないので、欲を満たし心が落ち着いてくると、また、不安や苦しみが見えてくるので、それを誤魔化すためにまた欲や怒りを起こす。そうやって苦しみを先送りにしながら不安が大きくなり、ますます欲に逃げてしまうのです。私たちが欲を満たす事が幸せだと感じるのは、それだけ不安を抱えているからであり、その不安を一時的に誤魔化す快感が幸せだと感じるのです。私たちが楽しもうとして欲を貪ると、それだけ心に不安がたまり、苦しみも大きくなるのです。しかし、欲によって不安や苦しみを誤魔化しているので、自分の抱えている苦しみには気付きません。世の中を見渡すと、異常な程パチンコにハマったり、競馬にハマったり、ネットゲームにハマったりしている人がいますが、それはそれだけ現実に大きな不安や苦しみを抱えているからなのです。このように、不安や苦しみが大きい程、欲や怒りを起こし、現実を誤魔化して苦しみを先送りにしてしまうのが私たちですが、阿弥陀仏のお力によって真実を見る目を頂くと、今まで欲や怒りによって現実を誤魔化していた私が、欲を起こしても怒りを起こしても真実を誤魔化す事が段々と出来なくなっていきます。つまり、心が不安な時は不安を感じ、苦しい時は苦しみを感じます。勿論、それが正常な心の状態ですが、今まで不安を欲で誤魔化してきた人にとっては、突然、不安がわいてきたようにしか感じないのです。どうして、私にこんな不安が起きてくるのだろう。今まではこんな不安を感じた事は無かったのに、突然得体の知れない不安が起きて苦しい。そこで欲によって不安を誤魔化そうとしても、誤魔化せるのは一時的な間だけ。しばらくすると、今まで感じていた不安よりも大きな不安が襲ってきます。その不安は声なき声で私に訴えてきます。その声は私に静かに「あなたは死ぬんだよ」と囁きます。そうすると、途端にどんなに欲によって心が奪われていても虚しくなって、得体の知れない不安が起きてきます。「こうやって欲に流れている間に人生が終わるのだろうなぁ。死んだら私はどうなってしまうのだろう。何が残るのだろうか?すべてが無くなってしまうのだろうか?死にたくないなぁ。でも、死んでいかなければならないなぁ。私は欲を満たすためにどれだけの時間を過ごしてしまったのだろうか?」そう考えると、如何に欲を満たすために膨大な時間を費やしてしまったのかが知らされ、今まで楽しかったはずの時間が後悔の時間へと変わります。欲を満たす時間が楽しいのは、死を忘れている間だけであり、死を意識した瞬間から欲を満たす時間は単なる時間の浪費に変わります。死を忘れて生きている私に、死が待ち構えている事を知らせてくれるのが、仏の目が宿るという事です。この仏の目が宿り始めると、不安を欲で誤魔化す事が段々と出来なくなります。どれだけ欲を起こして目を曇らせ、現実を見ないようにしても、阿弥陀仏から頂いた仏の目はいつも私に真実を知らせてくれます。つまり、そうやって欲で誤魔化しても何も変わらない事、そして、心の中に隠れている不安を私に見せて気付かせてくれます。この不安は、苦しいものであり、最初は何故このような不安が起きるか分かりませんが、何度も体験していくうちに、この不安は私の心に執着が吹き上がった後にやってくるものだと知らされます。例えば、今まで人と一緒で思うように動けなかった人が、一人になると「やったぁ、一人になった。これで好きな事が色々出来るぞ」と思います。この瞬間に心に隙ができるので、一気に心が穢れ、それが不安を生み出すのです。また、毎日仕事で忙しかった人が、明日から休みに入るとなると、心が嬉しくなって「明日から休みだ。好きな事をするぞ!」と心がワクワクします。勿論、そういう事が私にとっての楽しみなのですが、実際は、それによって私の心に隙が生まれるので、そこから執着が一気に吹き上がり、それによって私の心は穢れ、また不安が生み出されるのです。普通は不安を抱えていても欲や怒りなどの煩悩を起こす事によって誤魔化し気付きませんが、阿弥陀仏のお力によって仏の目を頂いていくと、どんなに煩悩を起こして現実を誤魔化したとしても、真実が見えてしまい、誤魔化す事が出来ないのです。そして、この不安の原因は、思い通りにしようとして、欲や怒りを起こして、心を穢したためであったと知らされると、苦しみたくないので、「心を穢さないように、心を穢さないように」と思うようになっていくのです。私たちは、心を穢すと分かったのなら、すぐに穢さないようにするだろうと思っていますが、実際は、それは自惚れであり、どんなに苦しむと分かっていても、心を穢してしまうものが私たちなのです。

(四馬の譬喩)

この事について、お釈迦様は四馬の譬喩で教えられました。四馬の譬喩とは、無常に対する感度を四通りの馬に譬えて教えられたものです。
まず、最初は鞭影を見て驚く馬。これは、馬が騎手の振り上げた鞭の影を見ただけで「痛い思いをしたくない」と思い走り出す事で、「執着を起こすと、やがて無常がやってくると苦しまなければならない」と聞いて苦しみたくないという気持ちから執着を起こさないように、心を穢さないようにする人の事です。この人は、人間としてとても賢い人ではないかと思います。教えを聞いただけで、自分に必ずやってくる苦しみが知らされ、それに対して対処をする。是非、このような人になりたいものだと感じます。
次に、鞭毛に触れて驚く馬。これは、騎手の振り下ろした鞭が、肉ではなくしっぽなどの毛に当たって、「次は肉に当たって痛い思いをする」と驚いて走り出す馬の事で、身近で無常がやってきて苦しんでいる人を見て「自分もやがて、この人と同じように苦しむ時が来るのだ」と思って、「執着の気持ちから離れたい」という思いになる人を言います。確かに、他人の失敗を通して、自分が向上出来たらどれだけ良いだろうかと思いますが、他人が苦しんでいる姿を見て、「自分もまた、この人と同じようになる日があるのだな」と感じる事はなかなか難しい事ですね。
三番目は、鞭肉に当たって驚く馬。これは、騎手の振り下ろした鞭が肉に当たって全身に痛みが走って、その痛さの余り走り出す馬の事です。これは、肉親の死や信じていたものから裏切られたり、思い通りにならない事にぶつかって、それによって苦しみ嘆きながら、その苦しみの原因は執着にあると知らされ、「もうこんな苦しみを味わいたくない」という気持ちから、「執着から離れたい」という気持ちになる人を言います。このような人は、普通の人です。
最後に、鞭骨にこたえて驚く馬。これは、何度も鞭を振り下ろされ痛い思いをしても、「これ以上痛い思いをしたくない」という気持ちが無く、自分の欲に流され過ごしているうちに、肉が破れ、血は流れ、骨にこたえて初めて走り出す馬の事です。無常によって何度も痛い思いをしながらも、欲を貪る事をやめられず、時間が出来ると欲を貪る事しか考えられない人を言います。こんなどうしようもない人でも、阿弥陀仏のお力によって仏の目を頂き、執着を起こす度毎に無常が知らされ、痛い思いをして、何度も「こんなに苦しいのなら執着を離れたい」と思っても、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、しばらくすると、また欲を貪る事しか考えられなくなる。こんなに欲を起こすと後で苦しむと頭でどんなに分かっても、欲を無我夢中で貪ってしまう。そして、案の定、後から苦しみ、馬鹿だったと反省する。それで、執着から離れようとまた思うのだが、しばらくすると、その事も忘れて、また欲を貪るようになる。こんな事を何度も繰り返すうちに開き直って、欲を貪って心が穢れても、後から苦しみが起きて、穢れが取れるから大丈夫と、執着から離れたいという気持ちまで無くなってしまう。それでも、少しずつ執着を起こす時に、後から受ける苦しみが感じられて、思い切り執着を起こす事が出来なくなる。このようにして、魂に苦しみが刻まれて、次第に執着から離れていく事が、骨にこたえるという事です。

阿弥陀仏のお力は、執着から離れたいという気持ちが全くない人でも、無常を知らせる事によって苦しみを与え、それを何度も繰り返す事によって、執着を起こしたいという気持ちを無くさせてくれるのです。だから、どんな人でも執着から離れる事が出来るし、心を浄らかにする事が出来ます。これが易行道です。
では、どうしたら阿弥陀仏のお力によって仏の目を頂く事が出来るのでしょうか?浄土真宗では、この事を信心を頂くと言いますが、この信心は念仏を続けていく事によって頂く事が出来ます。ですから、念仏とは、私たちが執着から離れ、浄土へ往生するために必要なものであり、この事を正しく知らなければ、自分の力で執着を離れる事が出来ない私たちは、どれだけ頑張っても苦しみから離れる事は出来ません。一般的には、念仏と言えば、口で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称える事だと信じられていますが、私はその事に対して疑問を感じています。何故なら、本来念仏とは「仏を念ずる」と言う事であり、「その仏とはどんな方か。どんな心を持っておられ、何をしようとされているのか」という事を知らない人が、ただ口で南無阿弥陀仏と言うだけでそれが念仏と言えるのかと思うのです。勿論、「口で南無阿弥陀仏と称える事が正しい」と言う人たちが「私たちには仏を念ずる事が出来ないからこそ、口で称えるだけで良いのだ」と言われる気持ちも分かります。しかし、私は、私たちには本当の仏とはどんな方か分からないからこそ、その仏について正しく教えて下さる善知識が必要なのだと思います。観無量寿経にも

(真宗聖典p164l5)
智者、復、教へて、合掌叉手し、南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するが故に、五十億劫の生死の罪を除く。
とあり、智者(善知識)が教えを説く事によって聞いている人の苦しみを抜き、その喜びから口に出てくるものが「南無阿弥陀仏」という念仏なのです。だからこそ、私は、念仏とは善知識の教えを聴聞し、苦しみを抜いて頂く事だと考えています。この事について、教行信証に次のように教えられています。
(真宗聖典p358l8)
又言はく、
「もし念仏する人は、当に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」と。{以上}
『安楽集』に云く、諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かさば、『大集経』に言はく、
「説法の人に於いては、医王の想をなせ、抜苦の想をなせ。所説の法をば甘露の想をなせ、醍醐の想をなせ。それ聴法の人は、増長勝解の想をなせ、愈病の想をなせ。もしよく是の如き説者・聴者は、皆、仏法を紹隆するに堪へたり。常に仏前に生ぜん」と。{乃至}
『涅槃経』によるに、仏の言はく、
「もし人、ただよく心を至して常に念仏三昧を修すれば、十方諸仏、常に是の人を見そなはすこと、現に前にましますが如し」と。

 もし念仏が出来る人がいるならば、その人はまさにほとんどの人が泥々の煩悩に穢れてしまっている中で、その煩悩に染まらず浄らかでいる事が出来る白蓮華のような人である事をしりなさい。
「安楽集」には次のように教えられている。諸々の大乗経典を通して、どのように教えを説き、どのように教えを聞いていけば良いかを尋ねると、「大集経」に次のように明らかにされている。
「説法する人はどんな苦しみをも取り除く医者の王様である仏をイメージしながら法を説きなさい。どうしたら相手の苦しみを取り除けるか考えながら法を説きなさい。そして、説いている教えによってそこに喜びと潤いの雨が降り注ぐようにイメージしなさい。また、仏法を聞く者は、分からない所があったら質問し、自分が話ができるように理解し、その理解を増やしていきなさい。また、自分の抱えている苦しみを抜いてもらいたいと思って聞きなさい。もし、このようにしたならば、説く者も聞くものも共に常に心に仏が宿り、説いている方が聞いている人にも受け継がれ、やがて聞いている人も法を説くようになり、教えが代々受け継がれるようになる」
また、「涅槃経」には「阿弥陀仏の御心を受け取った人がいて、その人が念仏三昧をしたならば、大宇宙の仏様がまるでそこにおられるようなものである」

ここでは念仏を中心的に説かれている所で、説法と聴聞の方法が説かれています。そして、そのようにすることで、仏様が目の前におられるようなものであると説かれています。勿論、仏様のお姿がそこに現れるという意味ではなく、仏法を説いている人も仏を念ずる事が出来る。つまり、念仏が出来るという事です。浄土真宗では、仏法は聴聞に極まると言われますが、まさに聴聞こそ念仏であり、説法する人にとっては仏法を説く事によって念仏をしている事になるのです。だからこそ、大無量寿経には説法について教えられている所が多くあると思います。まず、阿弥陀仏の本願では、第二十五願・説一切智の願、第二十九願・得弁才智の願、第三十願・智辯無窮の願で阿弥陀仏に救われた人を自由自在に説法できるようにしてみせると誓われていますし、また、大無量寿経には説法自在が次のように教えられております。

(真宗聖典p75r6)
仏、阿難に語りたまはく、「彼の仏国に生るる諸々の菩薩等は、講説すべき所には、常に正法を宣べ、智慧に随順して違なく失なし。

 仏は阿難に次のように話されました。「阿弥陀仏の浄土に生まれた菩薩たちは、阿弥陀仏のお力によって、その説かれる教えは常に真理に従った正しい教えを説き、間違える事も失敗する事も無い。

このように、阿弥陀仏に救われた人は、説法をできるようになります。このように説法できるのは、阿弥陀仏が説法を通して私たちに念仏をさせ、信心を頂く所まで導こうとされているからだと思います。

・憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
すべての人を浄土へ往生させてあげたい。その願いが私の願いとなったならば、その願いが私を動かし、その願いを果たすための徳や智慧を身に付けさせて、必ず仏になる所まで導いてくれる。

ここで、阿弥陀仏の本願を憶念するとはどういう事かと言いますと、阿弥陀仏の本願とは、「すべての人を浄土へ往生させてやりたい」という阿弥陀仏の願い。その願いが太陽の光の如く私たちに降り注いで、私たちに真実を知らせ、心を浄化させようとしています。ところが、真実が知らされると、自分の心の闇の部分が見え、認めたくない自分の姿が見えるので、阿弥陀仏の光をはねつけ、心の殻に閉じ籠って、理想の自分にしがみついています。このままでは、私たちはいつまでも真実の自分を知らないために何をしたら幸せになれるのか分からず、幸せになりたいと思いながら頑張れば頑張るほど、苦しみ続けてしまうのです。お釈迦様は
「汝ら過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ。」
(皆さん、過去に自分がどんな種まきをしてきたか知りたいと思うのなら、その過去の種まきの積み重ねで生み出された現在の姿を知りなさい。また、未来にどんな運命が待ち構えているか知りたければ、現在自分がどんな種まきをしているか知りなさい。)
と言われました。理想の自分にしがみつき、現実の自分を否定して、現実を見ないように心の殻に閉じ籠っている私たちにとって、現在の自分の姿も、現在の自分の種まきも見えてはいません。なぜなら、現在の自分の姿を知ってしまったら、それによって見たくない自分の過去が見えてしまうからです。私たちは誰しも多かれ少なかれ、自分の良い所は認められても、悪かった所や苦しかった所は、心の奥底に封じ込め見ないようにしています。しかし、心の中に封じ込めた苦しみや悪は、自分が認めて反省しない限り行いに影響を与え、現実の運命となって現在に苦しみや認めたくない自分の醜い姿となって現れ続けます。本当はその現実を自分の姿だと思って認め、反省し、種まきを変えていかなければならないのですが、現実の自分の姿を認めようとはせず、理想の自分にしがみつき、現実を否定し続けているだけで自分の行いを変えようとはしないので、過去と同じ種まきを現在も行い、これからも続けていくので、未来も変わらず苦しみ続けるのです。だからこそ、阿弥陀仏は真実を知らせ、苦しみの連鎖を断ち切ろうとされているのです。だけど、私たちは真実の光をはねつけ、現実の自分を見ようとしないので、阿弥陀仏は代わりに私たちに真実を知らせ、現実を受け入れさせる存在として、善知識をこの世に誕生させたのです。ですから、善知識の役割は、私たちが心の中に隠して見ないようにしている現実の自分を明らかにして、受け入れさせる事です。この事は、教行信証信巻にも次のように教えられています。

(真宗聖典p387r7)
彼の罪を造る人は、自ら虚妄顛倒の見に依止して生ず。此の十念は、善知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるに依りて生ず。

 十悪や五逆などの悪を造って苦しんでいる人は、自ら造り出した理想の自分に執着し、現実の自分を否定し、認められない所から生まれる。だから、善知識が私たちに現実の自分を認めさせ理想の自分に対する執着を離れさせるために真実をそのまま伝えても、私たちの心が受け入れる事ができずはねつけるだけなので、私たちの心に合わせて様々な方便をもって教えを説かれる。それによって、現実の自分を少しずつ受け入れる事が出来るようになって、阿弥陀仏の真実の光を常にはねつけず、受け入れるようになるのである。

ここで、阿弥陀仏の真実の光を受け入れる事が出来るようになった状態を「弥陀の本願を憶念する」身になったと言うのです。では、次に弥陀の本願を憶念すると、なぜ自然に仏になることができるのかと言いますと、私たちは世界を価値のあるものと価値のないものと差別して見て、価値の有る者を自分のものにする事によって自信をつけようとしています。例えば、お金に価値を置いている人はお金を手に入れる事によって自分の自信としていますし、子育てに価値を置いているお母さんは子供の世話をする事によって自分の自信としています。また、才能に価値を置いている人は頑張って自分の才能が認められる事によって自分の自信としています。このように、私たち誰しもそれぞれの価値観を持っており、自分が価値を置いているものを自分のものにするために必死に生きているのです。そして、そうやって自信をつければつける程、他人を見下すようになり、物事を差別して見るようになるのです。だから、私たちは「勝った、負けた」という事や、「認められた、認められない」、また、「儲かった、損した」という事にとらわれるのであり、他人の上に立って、他人を思い通りにするためだけに人生を費やしてしまうのです。しかし、客観的に見たならば、他人に勝って上に立つ事も意味が無い事であり、その事を阿弥陀仏は知らせてくれるのです。このようになると、まるで太陽や月の光、また、宝石の輝きでさえも光を失い炭のようになってしまうように、今まで価値を置いていたものの真実の姿が知らされ光を失います。そして、限りある人生の中で何をする事が本当に価値のある事なのかを考えるようになります。この世で一番価値のある事、それは自分の心を浄らかにしていく事、そして、浄らかになった心の大地に徳の種を蒔き、徳を身に付けていく事です。人間として成長する事、それはどんなにたくさんのお金を手に入れる事よりも、地位や名誉や財産を手に入れる事よりも素晴らしい事です。そして、私の心に徳の輝きが身についてくると、目の前の事にとらわれ損得勘定でしか動かなかった心が消え、他人の苦しみを取り除いてあげたい、そして、ここに苦しみのない幸せな環境を作っていきたい。そういう仏の心が私の心に生まれてくるのです。これが自然即時入必定です。

唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

ただ阿弥陀仏の口となって、ご縁のある方に常に阿弥陀仏のお力によって説法していく事が、私のようなものを諦めず助けて下さった阿弥陀仏の御恩に報いるただ一つの方法である。

善導大師のお言葉に
「自信教人信 難中転更難 大悲弘普化 真成報仏恩」
(自ら阿弥陀仏の真実の光を受けて自己の真実を認める事は難しい事だが、他人を真実を受け入れる所まで教え導く事は、この世に難しい事がある中で、これ以上に難しい事はない。何故なら、真実を受け入れるためには、大悲を知らなければならないからである。大悲とは仏のみ心。仏のみ心が分からないために果てしなく苦しみ続けてきた私たちに、仏のみ心である大悲を伝える事は、生まれながらにして目の見えない人に光や色を教えるように難しい事だが、その大悲を伝えてご縁のある人を真実を受け入れる所まで導く事は、本当に仏の御恩に報いる事になるのだ。)
というお言葉があります。このお言葉から、仏法を伝えるとは、大悲を伝える事であり、大悲を伝える事によって真実を受け入れさせていく事が出来る事が分かります。
そこで、大悲とは何か?それについて解説していきたいと思います。私たちは、何かを心の支えにしなければ生きていく事は出来ません。それは、私たちは誰しも自分の存在に対して不安を抱えているからです。私はどこからやってきたのか?そして、どこへ行くのか?私の魂を支えてくれるものがほしい。私の存在を証明してくれるものがほしい。それこそ、私たちの心から求めてやまない魂の目的なのです。ところが、私たちは自分の心を支えてくれるものを知らないために、自ら我をつくり出し、その我によって心を支えています。例えば、自分の能力を心の支えにしている人もいれば、お金を心の支えにしている人もいる。また、女性なら、自分の美しさや子育てを心の支えにしています。また、男性なら仕事上での立場、給料の額によって、自分の存在を確認し、心を安定させています。だから、「仕事が私なんだ」という気持ちが余りにも強いお父さんは、定年退職して家にいると自分の存在を感じられなくて不安になるので、家にいても会社にいるように偉そうに振る舞ったり、出勤の時間になるとスーツに着替えて外に出たり、また、パチンコやギャンブルにハマって現実を誤魔化そうとするのです。この様に、私たちは何かを心の支えにして、それを自分の自信にして生きています。ところが、私たちが心の支えにしているものは無常のものであり、どんなに大切にしていても最後には自分の元から離れてしまいます。例えば、能力を心の支えにしていた人は、突然の病気や老いによってその能力が奪われていきますし、美しさを自信としている人も、老いによってその美しさも失われます。また、仕事上の立場を自信としている人は、リストラや定年によって自分の立場を失います。私たちは何かを心の支えにしなければ生きてはいけません。無常によって心の支えを失った人は、自信を失い、心が不安定になって苦しみます。穏やかだった人が突然怒りっぽくなったり、感情の浮き沈みが大きくなったりして、ちょっとの事で落ち込みます。だからこそ、私たちが本当に求めているものは、無常によって崩れることのない心の支えであり、それが大悲と言われるものなのです。この大悲によって支えられた人は、今まで否定するしかなかった無常も受け入れられるように段々となっていきます。それは、今まで自信としてきたものが、段々と力とならなくなっていくので、感覚的には自分は弱くなったように感じられて、何となく不安になって、今まで以上に執着を起こしたり、怒ったりする事が多くなります。また、心の中にトゲが刺さった様な苦しみが続くので、この苦しみを何とかしたいともがくようになりますが、心の底では支えてもらっているために、完全に心が崩れてしまうことはありません。「大悲を得ていくと不安になる」というのはおかしな事ですが、本当に不安な人は不安を感じる事さえもありません。不安を感じるためには安心感が必要なのです。この状態でもがきながらより大悲によって支えられると、いよいよ自分の信じてきた我の執着から離れていく事が出来ます。ここまでくると、自分の中にある大悲を感じられるようになり、大悲を信じる心が生まれてきます。大悲を信じられるようになると、自分をここまで育ててくれた教えに対して「是非この教えを遺していきたい」という気持ちが起きてきます。私が今、真実の仏法を聞く事が出来たのは、過去の高僧方が人生をかけて仏法を伝えられ、また教えを遺してくれたからだ。考えてみれば今から二千六百年前にインドでお釈迦様が説かれた仏法が時空を超えて今、日本にいる私が聞けたという事は本当に不思議な事だ。そこには仏法を大事だと思っていた人たちが、お釈迦様の説かれた仏法を脈々と伝えてくれた歴史がある。私が聞かせて頂いた仏法を次の世代の人に伝えていく。それが唯能常称如来号。これが私が受けし御恩にお応えできる唯一の方法。仏法の素晴らしさが知らされた一人一人が自分の所まで仏法を伝えてくれた人たちの存在に感謝し、大事な教えを次の世代へと残していく。「誰かがやってくれるだろう」と期待するのではなく、一人一人が自覚を持って自分の出来る事をしていく。それが唯能常称如来号。一人一人の力は僅かなものかもしれない。でも、一人一人が自覚を持って、自分の出来る事で教えを遺していったら、それはやがて、すべての人を浄土へ往生させたいという弥陀の願いを叶えていく。私が弥陀の御恩に報いる方法は、次の世代へと教えを遺していくこと。そして、自分と同じ気持ちになった人が、私の夢を引き継ぎ、また次の世代へと教えを遺していけるように育てる事なんだなぁと思います。だから、親鸞聖人は教行信証の最後に

(真宗聖典p509r4)
前に生れんものは後を導き、後に生れん者は前を訪ぶらい、連続無窮にして、願わくは休止せざら使めんと欲す。無辺の生死海を尽さんが為の故なり。

 先に生まれた人は、次の世代の人々を導き育て、後から生まれた人は、過去の善知識方が遺してくれた教えを訪ね、その教えを学び自分のものにしていく。その流れが果てしなく続いて、願う事なら途中で止まらない事を望みます。それが世界中の苦しみ悩むすべての人を救う方法である。

と道綽禅師お言葉を使われて、自らの願いを教えられているのだと思います。

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