教行信証解説【14】信巻

教行信証 解説

14.信巻

信巻 [五・総結]

(真宗聖典p333)
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

もし、私たちが菩提心を起こし、二河白道を進むことができたとしたら、それはひとえに阿弥陀仏のすべての人を浄土に往生させたいという願いが善知識を動かし、あなたを導いたからである。まず、善知識が菩提心を起こさずして、他の人が菩提心を起こすことはない。いつか阿弥陀仏に助けて頂くだろうと弥陀任せにするのではなく、阿弥陀仏から信心を頂いた人がまず動かなければ、誰も救われることはないのである。

信巻 [六・三心一心問答]

(真宗聖典p333)
問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに論主(天親)「一心」といふや。
答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主、三を合して一とせるか。

お尋ねします。阿弥陀仏の十八願に、阿弥陀仏は至心・信楽・欲生の心にしてみせる、と誓われていますが、どうして天親菩薩はこの三つの心を一心に収めて教えられたのですか?
この問いにお答えします。それは、私たちのような智慧がなく誤解しやすいものでもハッキリと理解してもらう為である。阿弥陀仏は本願で三つの心にして見せると誓われていると聞くと、この三つの心は別々のものだと誤解する人が出てくるので、これは、実は三つの心ではなく、一つの心が形を変えただけである。つまり、仏の心(至心)を受け取り(信楽)、そして、自分に仏と同じ願いが起きた(欲生我国)。これが至心、信楽、欲生我国であり、この三つに貫いているものが仏心の一心である。だから、浄土に往生できるかどうかは、阿弥陀仏の至心を受け取ったかどうかである。だから、天親菩薩は三つの心を一心に収めて教えられたのです。

(真宗聖典p334)
あきらかに知んぬ、「至心」は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。「信楽」は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。「欲生」は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主(天親)、建めに「一心」といへるなりと、知るべし。

ハッキリと知らされたことがあるので、今、ここに明らかにします。「至心」とは、真実を明らかに見せることによって、段々と虚仮を破り正直な心に変えてゆく力がある心である。だから、この至心は、真実そのものの心であり、私に真実を見せてくれる力がある。次に「信楽」とは、言い換えると阿弥陀仏の至心を受け取り、自分の心を至心の心で満たしてゆく心である。それは、今までの自分の価値観を変えてゆき、欲を満たすことしか考えていなかった私の心を人々を浄土まで導くことが自分にとって大事なことに思えるように段々と変えてゆく。また、真理がハッキリするところまで追究し、それによって知らされたことをご縁のある人に真心をこめてお伝えしてゆく心である。そして、阿弥陀仏の願いを自分の願いとして大事に思い、その願いをかなえる為に人生を捧げることが自分の喜びであり、人生の目標と変わる心である。そして、仏様と同じように苦しんでいる人を見て、ともに苦しみ、その苦しみが取り除かれ、喜んでいたとしたら、そのことを心から喜んであげることができる。そんな仏の心が自分に宿ったことを心から喜ぶことができる心である。だから、自分の理想の閉じこもる殻をぶち破って、私を仏の心へと変えてくれるのである。「欲生」は、もうこれ以上現実から逃げて苦しみたくないと願いを起こして、現実と向き合い、それによって知らされる真実の自分を受け入れてゆく心である。阿弥陀仏のお力によって苦しみから離れたいという思いから、現実と向き合うことによって、真実が知らされてゆき、やがて、自分が苦しんでも相手の苦しみを取り除いてあげたいという菩提心が起きて、仏になるところまで進んでゆく心である。また、欲を満たすこと以外考えていなかった私が、人々の苦しみを取り除いてあげたいという大慈悲心へと生まれ変わっていく心である。だから、理想の自分にしがみつく執着を断ち切り、私の心を仏へと変えていくのである。ですから、この三つの心の漢字の意味を通して考えてみますと、この三つの心は共に他人の目ばかり気にして格好つけようとする私の心を自業自得を認められる心に変えてゆき、また、自分にとって都合の悪いことでも、現実を歪めて自分にとって都合のいいように無意識に解釈しようとする心をどんなに都合の悪いことでも、本当は自分は何を思っているか知らせて、格好つけようとする気持ちを捨てさせて、正直な心に変えていくのである。このことを通してハッキリ知らされたことがある。それは、阿弥陀仏の光明によって知らされた真実を殻に閉じこもって否定するのではなく、これも自分なんだと受け入れることができるようになったことを信楽と言うのであり、この信楽になったことを天親菩薩は一心と言われているのである。これが真実の信心を頂いたということである。これが浄土論の始めに「一心」と言われている御心であることを知って頂きたい。

(解説)
※阿弥陀仏の光明はすべての人に降り注いでいる。だから、どんな人も現実を通して真実の自分のすがたが見えているのである。しかし、誰しも自分とはこういう人間でなければならないのだという理想の自分にすがっている為、どうしても現実を通して知らされる真実の自分を本当の自分はこれなんだと認めることができないのである。善知識はそんな理想の自分にすがっている私たちに現実と向きあわせ、それによって見せつけられる真実の自分を何とかして受け入れさせようとするのである。これは大変時間のかかることであり、始めは真実の自分を受け入れようとすると、理想の自分が否定されるので、どうしても認めることができず、はねつけてしまう。でも、そんな私たちも善知識の粘り強い説法によって少しずつ理想の自分が崩され、真実の自分を受け入れ始める。やがて、現実を通して見える真実の自分をこれも自分なんだと心から認められるようになると、現実を通して知らされる真実の自分によって、いつも自分を反省し、自分の間違いを正して行けるようになる。これが信楽になるということである。

信巻 [七・三心実義問答]
[一・問]
(真宗聖典p335)
また問ふ。字訓のごとき、論主の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。

重ねて聞きたいことがあります。天親菩薩は三つの心を一つにまとめて教えられたことはよく分かりましたが、阿弥陀仏はこんな愚かで煩悩に塗れた私たちの為にどうして三つの心にするという本願を建てられたのでしょうか?

[二・答]
(一・至心釈)一・私釈

(真宗聖典p335)
答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

このことについてお答えします。なぜ三つの心にするという本願を建てられたのかということは阿弥陀仏ご自身にお聞きしなければ分からないことですが、私なりに阿弥陀仏の深い御心を推察するに、まず、最初の至心とは、どういう意味なのかと言いますと、すべての人は、始まりのない始まりから、今日、この瞬間に至るまで、自分の都合のいいように現実をねじ曲げて見て、苦しみがやってきても、「これは自分が悪いんじゃない。あの人があんなことをしたからだ」と他人のせいにし、嫌な現実を忘れようと欲に走ってばかりいて、自業自得を認め、自分を反省して現実を変えてゆこうとする心なんて微塵もないものであり、それでいながら、心の底では報いを怖れて、表面的には善人のように振るまい、自分は今まで間違ったことなんてしていないから、悪い結果なんてやってこないんだと自分の心に嘘をつきながら、現実を見ないように生きている。だから、報いがやってきても自分の業の報いだとはもう思えず、今までやってきた自分の善を根拠にして、「私は間違ったことをしていない、だから、こんな結果を受けたのは私が悪い訳じゃない。必ず自分を苦しめている奴がいるのだ」と、他人を責め、惨めな自分を忘れようとまた欲に走り、罪悪を重ねる。そのくせ、自分の造った罪悪によってにっちもさっちも行かなくなると、今度は恥も外聞もなく泣きつき、「もう二度としませんから許して下さい」とすがりつく。どこどこまでも、往生際の悪く、嘘を重ね、報いを受け入れようとしないものが自分。
そんな苦から苦、悪から悪の連鎖で苦しみの輪から抜けだせないものを阿弥陀仏は悲しく思われ何とか助けてあげようとして、これからすべての人が救われるまでの想像できないほど長い間、私たちに真実を知らせ、真実をありのままに受け入れさせる菩薩となって接してくだされるのです。このような阿弥陀仏の目には見えない不思議な働きかけによって、自業自得だとは頭で分かっていても、抑えるそばから、「あの人だけは許せない」と次々に恨みが吹き上がってくる。そんなどうすることもできない恨みで凝り固まった氷のような礙りを煩悩即菩提で溶かし、「相手も苦しんでいるからあんなことをしたんだ。可哀想だ。何とかあの人の苦しみを取り除いてあげたい」という温かい心にして下さるのです。この阿弥陀仏の働きによって、私たちは自業自得の真実を受け入れることができるのです。つまり、至心とは、煩悩に染まり醜くなった心をこれが自分なんだと認めたくないから、表面だけ取り繕って、自分は善人なんだと思おうとしている、そんな真実から遠く離れた心である私たちを何とか助けたいと思って、私たちに真実を見せて、それによって、私たちに自分とは善人ではなく、煩悩に染まった醜い心しかないものであるということを明らかにして、何とかして自分の心を反省し、清浄にしていこうとされている阿弥陀仏の御心を至心と教えられているのです。だから、この阿弥陀仏の御心によって、私たちの真実をはねつけ、自分は善人なんだと理想の自分にしがみつく疑蓋をぶち破って真実を明らかにして下さるのです。そして、この至心こそ、南無阿弥陀仏の中身なのです。

(一・至心釈)二・大無量寿経一文

(真宗聖典p335)
ここをもつて『大経』(上)にのたまはく、「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味の法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦きことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利しき。三宝を恭敬し、師長に奉事しき。大荘厳をもつて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ」とのたまへりと。{以上}

では、阿弥陀仏の至心によって、私たちの欲を満たすことしか考えない、自分勝手な心が段々とどのように変わってゆくのかと言いますと、大無量寿経には次のように教えられています。
「心が欲望に振り回されたり、怒ったり、苦しみを他人のせいにして傷つけたいと思うことはなくなる、なぜならば、心の中で、あんなことが手に入ったらどんなに幸せだろうなあと欲望を想像することもなくなるからであり、あいつが悪いんだ、こいつが悪いんだと思うこともなくなるからである。また、自分の心が傷つくことがないから、相手を傷つけようと思うことも無くなるのである。このようになるのは、すべて自分の中にある、私はこういう人間でなければならないという自分に対する綺麗なイメージが崩れ、真実の自分を受け入れたからであり、その為、自分のイメージを守る為に、外界の様々なものに執着することがなくなるのである。たとえば、綺麗なものを手に入れたいと思うのは、そういう綺麗なものを自分のものにすることによって、自分はそんな綺麗な存在であると思いたいからである。また、おいしいものを食べたいと思ったり、高級なものを買いたいと思うのも、そういう他人の人が持っていないもの、経験していないものを自分が持ったり、経験することによって、自分を特別な価値のある人間だと思いたいからである。結局、私たちが欲を起こして、あれがしたい、これを買いたいと思うのはすべて、自分の中にある綺麗なイメージを崩さない為であり、そのイメージが崩れ、真実の自分を受け入れたならば、もう、外で何があったとしても、自分とは関係ないのだと思って、興味を起こすことはなくなるのです。では、そうやって外界のことに対して興味が無くなると、どうなるのか?今度は自分の種まきを反省し、自分の価値を下げるような振る舞いや他人を傷つけるような行いを少しずつ減らしていくように努力してゆくようになる。その際、早く結果が欲しいからといって、自分の本心を押し殺し、相手からよく見てもらう為に表面を取り繕うことなく、常に冷静に現実を見つめて、今自分にできることを、コツコツと種を蒔いてゆく。そして、今までいつも自分のことを優先して思い通りにならないことがあったら、乱暴な言葉を吐いて、相手を傷つけ、思いを通してきた自分を反省し、相手の気持ちを尊重して、喜んで相手の望みを叶えてあげられるように接し、常に相手を傷つけないように心がけ話すようになる。そして、どんなに苦しく時間がかかったとしても、嫌になって自分勝手に物事を途中で投げ出すことはなく、最後までやり通してゆく。その活動はひたすら、相手から汚くなったものを受け取り、それを掃除をして汚れを取り去り、綺麗な宝に変えてゆくことで、人々を幸せにしてゆくことである。そして、それによって人々を仏法は本当に素晴らしいなという気持ちになってもらい、善知識から教えを聞き、教えて頂いたことを真面目に実践して、徳が身についてゆくように導いてゆくのである。」

(一・至心釈)三・如来会一文

(真宗聖典p336)
『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈かの法処比丘(法蔵菩薩)、世間自在王如来(世自在王仏)および諸天・人・魔・梵・沙門・婆羅門等の前にして、広くかくのごとき大弘誓を発しき。みなすでに成就したまへり。世間に希有にしてこの願を発し、すでに実のごとく安住す。種々の功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳せり。かくのごとき菩薩の行を修習せること、時、無量無数不可思議無有等等億那由他百千劫を経る。うちにはじめていまだかつて貪瞋および痴、欲・害・恚の想を起さず、色・声・香・味・触の想を起さず、もろもろの衆生において、つねに愛敬を楽ふことなほ親属のごとし。{乃至} その性、調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情において、つねに慈忍の心を懐いて詐諂せず、また懈怠なし。善言策進して、もろもろの白法を求めしめ、あまねく群生のために勇猛にして退することなく、世間を利益せしめ、大願円満したまへり〉」と。{略出}

また、『無量寿如来会』には至心について次のように教えられています。
お釈迦様は阿難尊者に対してこう仰った。
「かの法蔵菩薩は智慧がない為に苦しむ人々を何としても助けてあげたい、たとえ自分がその為にどれだけ苦労し、時間がかかったとしてもやり遂げようという思いになって、この思いが一時的な感情ではなく、自分の心から願いであり、途中でどんなに苦しいことがあっても投げ出すことなく最後までやり遂げようと思って、自らの決意を世自在王仏や様々な人達を目の前にして告白された。そして、見事、時間はかかったが、その願いを果たすだけの力を身につけ、そして、その力が今もこの世界に働いているのである。だから、私たちはその働きによって様々な功徳が身についてゆくし、また、心が浄化され煩悩から離れていくことができるのである。こんなことは普通では考えられないが確かにこの世界に働いている力であり、それは目には見えないがこの世界を貫く真理なのです。では、私たちをどんな心にする力が働いているのかといえば、欲を貪ることが楽しいと思うことがなくなり、思い通りにならないことがあっても怒ることがなくなる、そして、誰かのせいにして他人を傷つけたいと思うことがなくなる。それは、自分の中で思い通りになった時に、これが自分なんだと我をつくって、それに執着して、崩さないようにする心がなくなるからである。その為に思い通りにならないことがあっても、それはそれで仕方がないことなんだと思って、現実を誤魔化そうと欲に走ったり、怒れば思いが通るのだと思って我を通してゆくこともなくなるのである。また、思い通りにならないことにぶつかることによって我が崩れ、心が傷つくこともないので、傷ついたのはあいつのせいだと思って、他人を傷つけていくこともないのである。また、我が崩れて真実の自分が知らされることによって、ブランド品や高級なものを身につけることや、特別な経験をしたり、地位や名誉や財産を手に入れたとしても、それで自分の価値があがる訳ではない事がよく分かるので、外界のものに対して執着の気持ちが起きることがなくなるのである。そして、本当に大事なことは、相手を通して見える自分のすがたを否定せず大事にする事だと知らされるので、自分の接する相手に対してたとえその相手がとどんなに悪い人であっても、その相手は自分なんだと思って人間として敬い大事にしようと思うのである。この真理が知らされた人にとって、世界は自分の心を映し出す鏡であると知らされるので、この因果の道理に従って行動し、この鏡にどんなに都合の悪い現実が映しだされたとしても、それを怒りによって否定することなく、これも自分のすがただと認められるようになるのである。また、今まで相手の機嫌を損ねないように、心にもない嘘をつき、相手の言いなりになって行動していた人も、相手を本当雨の意味で幸せにしてあげたいという気持ちが起きて、相手からどんなに否定され、罵られ、馬鹿にされたとしても、その苦しみを静かに忍び、コツコツと種を蒔き続け、様々な方便を駆使して相手が煩悩から離れ浄らかな心になるところまで導き、この世から苦しむものがいなくなるところまで、決して諦めることなく種を蒔き続け、そして、最後にはその願いが果たされるのである。」

(一・至心釈)四・善導散善義一文

(真宗聖典p336)
光明寺の和尚(善導)のいはく(散善義 四五五)、「この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のなかになしたまへるによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なりと。{乃至} 不善の三業をば、かならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに、至誠心と名づく」と。{抄要}

善導大師の書かれた散善義には次のように教えられています。
「善知識から教えを聞かせて頂き、智慧を与えて頂くことなく、自分の勝手な考えで教えを理解し実践したならば、それは形だけ表面を取り繕うだけで、心は何も変わらない、むしろ、心に無理をかけ頑張った分だけ、余計認めてもらいたいという気持ちが吹き上がり、まるで他人から自分の努力を認めてもらう為に頑張るようになる。だから、頑張っても自分の努力を誰も認めてくれないと腹が立つし、どうしてもまわりの人が悪く見えてしまうのである。そんな認めてもらう為の努力をどんなに繰り返して、浄土に往生したいと願っても、決して煩悩から離れることはできないのである。では、どうしたら私たちは煩悩から離れることができるのかと言えば、善知識から教えを聞かせて頂き、阿弥陀仏の智慧を頂くことによって他人の目を気にして表面だけ取り繕う気持ちはなくなり、因果の道理を信じて他人が見ているとか、見ていないとかは関係なく自分の言動に心をかけるようになる。どんなに自分のことしか考えていないものでも、聴聞を通して真実が知らされたならば、他人が見ているとか、見ていないとかは関係なく、自分の心で思ったことが、報いとなって自分に返ってくると知らされるので、自分の言動が自然と変わってくる。それは、聴聞によって真実が知らされるからである。この因果の道理が知らされて、他人が見ているとか見ていないとか関係なく、自分の心に目を向け、心で思うことを反省してゆく心を至誠心と言います。

(解説・至誠心とは、どんな心か?)
私たちは、他人の目を気にして他人が見ている時は頑張るけど、他人が見ていない時は楽に流れている。なぜこのように、私たちは他人の目を気にしてしまうのかと言えば、一言で言えば、責められたくないからである。つまり、私たちはいつも責められるかもどうかを基準として行動しているのである。だから、他人が見ている時は、責められない為に頑張り、その反動で他人が見ていない時は、責められないと思って、楽に流れてしまうのである。これでは、どんなに仏法を聞いて悪いことをやめようと思っても、他人が見ている時だけで、他人が見ていない時は、気が抜けて頑張ることはできない。そして、責められない為に悪いことをしないようにしている人は、いつも人によって罰を受けている為に、因果の道理を教えられ、悪をするとその報いによって苦しむと言われても、分からないのである。だから、どんなに因果の道理を聞かせて頂き、悪をすると苦しむと言われても、いつものように他人が見ている時にしなければ大丈夫だと無意識のうちに思ってしまい、表面的に形に現れているところだけ反省して、本当の意味で自分の心に目を向け、反省していくことはできないのである。こんな努力をしている人は、どんなに頑張ったとしても心の種まきは変わっていないので、縁が来る度に醜い心が吹き上がり、根本的には何も変わりません。しかも、それを他人に見せなければ、悪いことにはならないのだと思っているので、醜い心が吹き上がったならば、一人になって、他人前で見せないようにしていれば、自分は悪いことなんてしていないと思っているのです。確かに他人前で悪をしなければ他人から責められることはありません。しかし、自分の心で思ったことは誰が見ていなくても報いとなって自分の心を苦しめるのです。他人を責めれば、責められているように感じて苦しむし、嘘をつけば、他人が嘘をついているのではと思って、疑うようになります。自分の心で思ったことは誰が見ていなくても、自分の心に跳ね返って、自分の心を苦しませます。この心に目を向け、自分の心を苦しませる元凶は、私の心で思い続けている心なのだと自分に分かるように教えてくれるものが、善知識の説かれる説法なのです。これによって、私たちは段々と因果の道理という真実が知らされ、自分の心に目を向け、心の習慣を少しずつ変えていくようになるのです。これが至誠心になるということです。

(一・至心釈)五・結至心

(真宗聖典p337)
しかれば、大聖(釈尊)の真言、宗師(善導)の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。

以上のことを通して、ハッキリと知らされたことがある。それは、至心とは阿弥陀仏の御心であり、その御心とは私たちを菩薩へと変えてゆく阿弥陀仏の智慧と願いが大きな海のようなものであり、それはどんなものかと尋ねられたとしても、とても想像することができないので、言葉に表すことも説明することもできないのである。ただ、その阿弥陀仏の御心が阿弥陀仏に救われた善知識に流れ出し、善知識を通して多くの人の現実を変えてゆくのです。それを喩えるならば、今まで暗闇の中にいて、何も見えなかった人に光を与え、暗闇の中では見えなかったものが見えることによって、如何に今まで自分が愚かなことをとていたのだと知らされて自分の言動を正してゆくように、阿弥陀仏の御心は私たちに真実を見る智慧を与え、私たちを因果の道理に従った人間へと変えてゆくのです。

(一・至心釈)六・真実釈

(真宗聖典p337)
すでに「真実」といへり。真実といふは、『涅槃経』(聖行品)にのたまはく、「実諦は一道清浄にして二あることなきなり。真実といふはすなはちこれ如来なり。如来はすなはちこれ真実なり。真実はすなはちこれ虚空なり。虚空はすなはちこれ真実なり。真実はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ真実なり」と。{以上}

もし、想像することができない阿弥陀仏の御心を少しでも説明するならば、阿弥陀仏の御心とは、私たちにありのままの世界を見せてくれる光のようなものであり、その光に照らされた人は如何に今まで自分は不毛なことをやっていたのだと知らされて、自分のここを反省し、苦しみのない世界へと進んでゆく。その道はすべての人にとって同じ道であり、一人一人の考え方は違うので導き方は異なるが、皆最後には同じ軌道に乗って進んでゆくのである。その道こそ仏の道であり、それはそのまま自分に対するとらわれから離れていく道でもある。

(一・至心釈)七・内外明暗釈 八・北本涅槃経一文

(真宗聖典p337)
釈(散善義 四五七)に「不簡内外明闇」といへり。「内外」とは、「内」はすなはちこれ出世なり、「外」はすなはちこれ世間なり。「明闇」とは、「明」はすなはちこれ出世なり、「闇」はすなはちこれ世間なり。また「明」はすなはち智明なり、「闇」はすなはち無明なり。『涅槃経』(聖行品)にのたまはく、「闇はすなはち世間なり、明はすなはち出世なり。闇はすなはち無明なり、明はすなはち智明なり」と。{以上}

散善義の中に、阿弥陀仏の至心は智慧がない為に何が正しいか何が間違っているか分からず、欲を満たすことが幸せだと思って求め続けている人に智慧の光を与え、欲をいくら満たしても虚しいだけであることを知らせ、因果の道理を信じて現実と向き合い、今までの自分の間違った習慣を反省して、向上してゆこうと思う心に変えてゆくのである。

(二・信楽釈)一・私釈

(真宗聖典p338)
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無礙の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無礙広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

次に信楽とは、阿弥陀仏の至心を受け取り、私の心が至心になろうとして、現実と向き合い、二河白道を進んで行こうとする心であり、そこで壁にぶつかり、どうしても自分とは思えないことがあったとしても、阿弥陀仏に大慈悲に支えられて、これも自分だと受け止めることができる心である。つまり、信楽とは、阿弥陀仏の至心の働きを受けることによって、私も阿弥陀仏と同じ心になりたいという願いが起き、その心になる為に二河白道を進み始める心であり、さらに、二河白道を進んでいる途中でどうしても自分のすがたを認めることができず、これ以上先に進むことができないことがあっても、その心のしこりを阿弥陀仏の大慈悲によって融かして下さり、また、白道を進ませて下さる心である。だから、白道を進んでいく途中でどんなに都合の悪い自分が見えたとしても、それを認めたくない一心で自分の殻に閉じこもってしまうことないのである。だから、信楽というのです。つまり、智慧を与えることによって、真実を知らせ、それによって煩悩から離れさせようとする阿弥陀仏の至心の働きこそ、私たちが浄土へ往生する源である。だから、私たちは始めのない始めかずっと智慧がない為に、何が正しいか何が間違っているか分からず、間違ったことを信じて行い、苦しみ続けていた。その為に、私たちには苦しみの輪から離れたいと思うこともなければ、自分が苦しんでいることさえも気づくことがない。だから、善知識がどんなに真実の教えを説いたとしても、その教えを信じて真面目に聞いていく気持ちもなければ、苦しみから離れていくこともないのである。たとえ、善知識の教えを信じて二河白道を進もうとしたとしても、私たちには現実と向き合う業がないので、苦しみからすぐに欲に逃げては、面倒臭くなり、自分にとって都合の悪いことには腹を立てては今まで苦労して積み上げたものを焼き切ってしまうのである。結局、現実と向き合うことなく、表面を取り繕ってどんなに頑張ったとしても、それは認めてもらう為にやっているだけで、現実と向き合って真実の自分を受け入れ、苦しみを離れていこうと本当に思っている訳ではなので、そんな状態でいつか何とかなるだろうと期待しても、それで助かる日は絶対に来ないのである。なぜ善知識から教えを聞かせて頂き、実践しているのに助からないのかと言えば、それは自分には綺麗な心があるのだと自惚れているからである。本来、聴聞をしてゆくのは、自分には現実と向き合う業がないから、聴聞によって少しでも現実と向き合う業を阿頼耶識の中に入れて、段々と現実と向き合えるようにしていく為なのですが、自惚れ強い私たちは、教えを聞き現実と向き合うことが大切なんだと聞くと、自分には現実と向き合うことができるのだと思って、それを証明しようとして頑張るのです。たとえば、怒ることは悪だと聞かせて頂いたならば、本当なら自分は今まで怒ってばかりいた、ああ私は悪いことをしてきたなあ、じゃあ、これからは怒ってしまうかもしれないが、少しずつでも起こらないようにしようと思うのですが、実際は、自分は今までそんなに怒ってきたと認めたくはないので、自分は怒らない人間なんだと証明する為に必死で頑張るようになる。それで必死に頑張って怒らないように見せたとしても、それは表面を取り繕っているだけで、怒りの業は全く無くなることはない。だから、縁がやってくるとどんなに怒りたくはなくても怒ってしまうのである。しかも、自分はもう怒らない人間になったと思っているので、こんなに怒らないように頑張っていたのに怒ってしまったことが信じられず、どれだけ頑張っても自分は変わらないのだと投げやりになってしまい、何とか目の前で起きた事実を忘れようとして、また、自分は怒らない人間なんだと証明する為に頑張るのです。これは一例ですが、私たちは怒ることに限らず、どんなことでもそれが悪だと聞くと、自分はそんな悪い人間ではないのだと思って頑張ります。そうやって自分から悪い部分を切り離して善人になろうとしているのですが、その心自体が仏教が分かっていない間違った聞き方なのです。仏教とは悪を自分から排除して善人になっていく教えではなく、悪を自分の中に受け入れていく教えなのです。だから、本当はこんなことが悪ですよと聞いたならば、自分にもそういうところがあるなと認めていかなければならないのに、どうしても自分の中に悪があることが許せなくて、自分から切り離そうとしてしまうのです。でも、悪を無くしてゆくのはあなたの力ではなく阿弥陀仏のお力によって無くしてゆくのです。だから、自分にはこんな悪があるのだと聞いても、そんな悪を抱えているものが自分なんだと悪を許し、そんな悪を抱えた自分を許してあげて欲しいのです。自分の中にある悪は阿弥陀仏の大悲によって浄化して私を浄土まで連れて行って下さることを信じて、自分の中にある悪はどんなに自分を責めてもなくならないとハッキリと知らされ、阿弥陀仏にすべてをお任せして自分を変えてゆこうと信じられた心が信楽なのです。
つまり、信楽とは自分の力ではどんなに悪を無くそうとしても無くすことはできない、それは自分が悪を無くそうとする努力は自分の中にある悪をこれは自分ではないのだと排除して自分の中から無くしていこうとする努力だからである。そうやってどんなに自分はそんな悪い人間ではないと否定をしても、悪は自分の中にあるものなので、それはそのまま自分を否定することになり苦しまなければならない。だから、智慧のない私たちには悪を無くすことはできないと明らかに見て、自分はこんな悪を抱えたものなんだなと認めて、すべてを阿弥陀仏に任せて、聴聞して智慧を頂いてゆくことによって自分の中にある悪を浄化していこうとする心が信楽なのです。

(二・信楽釈)二・大無量寿経一文

(真宗聖典p339)
本願信心の願(第十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん」と。{以上}

また、信楽について、本願成就文(十八願)には次のように教えられています。
「善知識の教えに従い、現実を通して見える真実の自分と向き合おうとしても、我にしがみつき、どうしても認められないものが、善知識から教えを聞かせて頂くことによって、これもまた自分なんだと心から認められた瞬間、今まで善人にとらわれ、自分の中に悪があると認められなかった心が「悪を切り離して、善だけになることはできなかった。自分の中に善も悪もある存在が自分なんだ」と心から認めることができ、真実の自分が認められず苦しんでいた心がぐっと楽になり、善知識の教えを心から信じて素直に聞かせて頂くことができるようになるのです。」

(二・信楽釈)三・如来会一文

(真宗聖典p339)
またのたまはく(如来会・下)、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜愛楽せん」と。{以上}

善知識から教えを聞かせて頂く人が、阿弥陀仏の智慧によって真実の自分が知らされ、それによって理想の自分でなければならないと凝り固まり縛られていた心が解放され、心がぐっと楽になった瞬間、今まで自分はどうでもいいことにとらわれ、不毛なことを繰り返してきた。もう他人からどう思われるかなんてどうでもいい、今の自分は何も身についていない最低のものなんだから、一つ一つ教えてもらって実践していくしかないと素直な心になるのです。

(二・信楽釈)四・北本涅槃経三文

(真宗聖典p339)
『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはずば、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに、信心をもつてのゆゑに菩薩摩訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに菩薩
はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり」と。{以上}

『涅槃経』(師子吼品)の中に次のように教えられています。
皆さん、よく聞いて下さい。この世界には大慈悲の心が降り注いでいる。この心こそ仏の御心そのものであり、私たちを仏へと変えてゆく力なのです。しかし、皆さんは無明に覆われて、この大慈悲が見えない為に、せっかく大慈悲が降り注いでいても、私たちは仏になることができず、苦しみ続けているのです。では、どうしたら、私たちは仏になることができるのか?それは、この大慈悲を見ることができる存在がこの世に現れたならば、私たちは仏になることができるのです。この存在を菩薩(善知識)と言い、大慈悲とはいつも菩薩と共にまるで影のように一緒に動く。だから、どんな人でも菩薩から教えを聞かせて頂いたならば、最後には必ず大慈悲の心が起きるのです。だから、どんな人も必ず仏になれるのです。これは、あくまでも菩薩から教えを聞かせて頂くことによって、どんな人でも仏になれるという意味であり、菩薩がいなければ、私たちは仏になることはできない。では、なぜ菩薩になったら、どんな人でも仏まで導くことができるのかと言えば、菩薩には大慈悲の心があるからである。大慈悲とは、大喜捨の心であり、私たちの執着の心を捨てさせ、相手の幸せを心から喜ぶ心に変えてくれる力がある。だから、どんな人でも菩薩から教えを聞かせて頂けば、煩悩から離れることができ、仏の悟りを開くことができるのである。でも、菩薩がどんなに大慈悲があったとしても、六度万行の実践ができなければ、人々を仏まで導くことはできない。実は、この六度万行を実践する力も大慈悲にはあり、大慈悲を頂いた菩薩はその心に揺り動かされて、六度万行を実践することができる。だから、菩薩から教えを聞かせて頂き大慈悲を頂いた人は、自らも六度万行を実践して仏の悟りを開くことができるのです。でも、どんな人と言っても菩薩がこの人は好きだから優先する、嫌いだから話さないと差別をしたら、救われない人が出てくるのではないかと疑問を持つ人もあるかもしれないが、菩薩が頂く大慈悲はどんな人も自分にとって大事な人と思える心である。だから、大慈悲を頂いた菩薩が好き嫌いで仏法を伝えないということはない。だから、どんな人も菩薩から導いて頂いたならば、差別のない心になれるのです。以上のことからどんな人も菩薩から教えを聞かせて頂いたならば仏になることができるのです。
(真宗聖典p340)
またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「あるいは阿耨多羅三藐三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといへども、もし信心を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ」と。{以上}
また涅槃経・迦葉品に次のように教えられています。
「信心があれば仏の悟りを開くところまで求めてゆくことができる。仏の悟りを開く為の方法は色々あるが、そのすべてにおいて共通して信心が必要である。」
(真宗聖典p340)
またのたまはく(同・迦葉品)、「信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす」と。{以上抄出}
では、どうしたら私たちは今までの間違った信心を捨て、仏教の信心になることができるのか、それについて、涅槃経には次のように教えられています。
「信心と言っても、二種類ある。一つは、お経にこのように書かれているのだからとか、このように教えられたのだからと言葉だけで信じている信心。もう一つは、教えを理解して、言葉の奥にある意を理解して信じる信心とがある。どんなに私は仏教を信じたと言っても、前者のような信心では、これは信心とは言えないのである。」

(解説)
私たちは苦労を避け、楽を求めている。仏教が分かってきたら、そんな楽して結果が得られる方法なんてないということがよく分かってくるのですが、どうしても仏教を深く理解するまでは楽して結果が得られる道があるように思ってしまうのです。だから、仏教の教えを学んでも、信心さえ得たら死んだら極楽に往けると教えられていると極楽に往きたい一心で自分は信心を得たのだと思ってしまうのです。この場合、この人の信心は、お経にこのように書かれているのだからと信じているのであって、本当にこれが正しいのかどうか確かめていない。確かめていないのに、お経にこう書かれているからと言って信じられるのは、それは、その人はすでに楽して結果が得られる方法があるという信心を持っており、その信心にぴったり合うものが書かれていたから、簡単に信じることができたのです。仏教で教えられる信心とは、今まで持っていた楽して結果が得られる方法なんてない、真実は都合の悪い現実と向き合って。コツコツと絶えず種を蒔き続け、そして少しずつ結果が現れてくるものなのです。この真実を信じて、自分の業を変える為にどれだけ時間がかかっても種を蒔き続けようとするのが、仏教を信じることであり、正しい信心なのです。だから、正しい信心になる為にはどうしても、仏教の教えをただ聞いているだけでは信じられません。なぜなら、それは自分にとって都合の悪いことだからです。だから、聞いてゆけばゆくほど、善知識から教えて頂くことに疑問が出てきて、他に方法があるのではないかと思って、お聖教を読んで根拠を探そうとするのです。そして、自分にとって都合のいい教えを見つけると、「ほら、ここにこう書いてあるじゃないか、だから、あなたの言っていることは真実ではないのです。」と自分の考えを曲げようとはしないのです。このことについて、涅槃経には次にこう教えられています。
「また、仏教を信じていると言っても二種類ある。一つには、自分なりに教えを理解して、このように教えられているからと言って信じる信じ方と、もう一つは善知識を信じる信じ方がある。間違った信じ方をしている人というのは、自分なりに教えを理解して信じているだけで、どうしても善知識が悟りを開いて教えを正しく理解して教えられているとは思えないのである。

(解説)
※善知識とは、自らが仏の悟りを開いた方のことを言います。私たちはどうしてもそんな仏の悟りを開いた人はお釈迦様しかいないと思っているので、仏教とはいつもお経にどう書かれているかということを問題にして、そこに書かれていることを信じようとします。だから、善知識から教えを聞いても、どうしてもそれがどこに根拠があるのだと疑いの目で見てしまい、自分の理解した仏教と違うものは撥ね付けてしまうのです。善知識が説かれる教えは真実です。だから、そんな楽して結果が得られるようなことは教えられませんし、ある意味、誰が聞いても、それは正しいとは思うけど、あまりにも地味で、夢のないようなことに聞こえるのです。だから、どうしても、もっと楽な方法はないかと善知識の教えを信じることができないのです。

(二・信楽釈)五・華厳経三文

(真宗聖典p340)
『華厳経』(入法界品・晋訳)にのたまはく、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものは、すみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。

だから、仏教で教えられる信心とは、今まで私たちが持っていた、どこかに楽して結果が得られる方法はないかと思う気持ちを捨て、自分が現実と向き合って、苦しくともコツコツと種を蒔いていかなければ結果は得られないのだ、また、どんなに頑張っても途中で投げ出したら、また始めからやり直しなんだと信じることを信心と言います。この方法によって、自分の現実を変えてゆけると実感できた人は今まで自分は変わらないのだと諦めていた心が氷解し、自分を変えてゆけるのだと喜ぶことができるのです。この人は善知識の教えを信じて、結果がすぐに現れなくても腐らず、種を蒔き続けてゆくことができるので、この人を諸々の仏様と同じ無常道に入った人というのです。

(解説)
※チリも積もれば山となる。どんなに一つ一つの種まきは小さくても、それを一心に行い続ければ、やがて誰も真似のできない大きな結果となる。今の自分とは今までの自分の種まきによって生み出された業によって動かされているもの。だから、今の自分をすぐに変えようとしても、業力が働いてどうしても変えることはできない。だから、私たちはすぐに変えられないのなら、どれだけ頑張っても変わらないのだと思って、すぐに諦めてしまうのです。でも、仏教を信じた人は、今の自分とは今までの自分の行いが業となって生み出されたものだと信じている人です。だから、今すぐに自分を変えることなんてできないと信じている人であり、また、自分の行いを変えてゆけば、少しずつですが自分を変えてゆけると信じる人でもあるのです。このように仏教を正しく理解したならば、生き方が変わります。今まではどこかにもっと楽な方法はないかと考えて、真面目にコツコツと種を蒔くことなんてしなかった人が、コツコツ種を蒔くことの素晴らしさを知り、どれだけ時間がかかっても、地道に着実に種を蒔いてゆくようになるのです。それが信心を得るということであり、無上道に入るというのです。

(真宗聖典p340)
またのたまはく(華厳経・入法界品・唐訳)、「如来、よく永く一切衆生の疑を断たしむ。その心の所楽に随ひて、あまねくみな満足せしむ」となり。
また、華厳経には次のように教えられています。
「仏の悟りを開いた方は、どんなに因果の道理を疑い、死ななければ自分の現実を変えることなんてできないと思っているような人でも、その疑いの心を破り、因果の道理を信じて、コツコツと種を蒔くことのできる人間に変えてゆくことができる。」
(真宗聖典p341)
またのたまはく(同・賢首品・唐訳)、「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。信は垢濁の心なし。清浄にして驕慢を滅除す。恭敬の本なり。また法蔵第一の財とす。清浄の手として衆行を受く。信はよく恵施して心に悋しむことなし。信はよく歓喜して仏法に入る。信はよく智功徳を増長す。信はよくかならず如来地に到る。信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊することなし。信はよく永く煩悩の本を滅す。信はよくもつぱら仏の功徳に向かへしむ。信は境界において所着なし。諸難を遠離して無難を得しむ。信はよく衆魔の路を超出し、無上解脱道を示現せしむ。信は功徳のために種を壊らず。信はよく菩提の樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。信はよく一切仏を示現せしむ。このゆゑに行によりて次第を説く。信楽、最勝にしてはなはだ得ること難し。{乃至}もしつねに諸仏に信奉すれば、すなはちよく大供養を興集す。もしよく大供養を興集すれば、かの人、仏の不思議を信ず。もしつねに尊法に信奉すれば、すなはち仏法を聞くに厭足なし。もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ず。もしつねに清浄僧に信奉すれば、すなはち信心退転せざることを得。もし信心不退転を得れば、かの人の信力よく動くことなし。もし信力を得てよく動くことなければ、すなはち諸根浄明利を得ん。もし諸根浄明利を得れば、すなはち善知識に親近することを得。すなはち善知識に親近することを得れば、すなはちよく広大の善を修集す。もしよく広大の善を修集すれば、かの人、大因力を成就す。もし人大因力を成就すれば、すなはち殊勝決定の解を得。もし殊勝決定の解を得れば、すなはち諸仏の為に護念せらる。もし諸仏の為に護念せらるれば、すなはちよく菩提心を発起す。もしよく菩提心を発起すれば、すなはちよく仏の功徳を勤修せしむ。もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなはちよく生れて如来の家にあらん。もし生れて如来の家にあることを得れば、すなはち善をして巧方便を修行せん。もし善をして巧方便を修行すれば、すなはち信楽の心、清浄なることを得。もし信楽の心、清浄なることを得れば、すなはち増上の最勝心を得。もし増上の最勝心を得れば、すなはちつねに波羅蜜を修習せん。もしつねに波羅蜜を修習すれば、すなはちよく摩訶衍を具足せん。もしよく摩訶衍を具足すれば、すなはちよく法のごとく仏を供養せん。もしよく法のごとく仏を供養すれば、すなはちよく念仏の心、動ぜず。もしよく念仏の心、動ぜざれば、すなはちつねに無量仏を覩見せん。もしつねに無量仏を覩見すれば、すなはち如来の体、常住を見ん。もし如来の体、常住を見れば、すなはちよく法の永く不滅なることを知らん。もしよく法の永く不滅なるを知れば、弁才を得、無障礙を得ん。もし弁才無障礙を得れば、すなはちよく無辺の法を開演せん。もしよく無辺の法を開演せば、すなはちよく慈愍して衆生を度せん。もしよく衆生を慈愍し度すれば、すなはち堅固の大悲心を得ん。もし堅固の大悲心を得れば、すなはちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなはちよく有為の過を捨離せん。もしよく有為の過を捨離すれば、すなはち驕慢および放逸を離る。もし驕慢および放逸を離るれば、すなはちよく一切衆を兼利せん。もしよく一切衆を兼利すれば、すなはち生死に処して疲厭なけん」となり。{略抄}
また、華厳経には次のように教えられています。
「因果の道理に従って苦しみを離れる為にコツコツと種を蒔いて自分の業を変えてゆく為には、まず何よりも仏教の根幹である因果の道理を信じることが必要である。この信じるとはただ頭で理解して信じることではなく、自分の生き方やものの考え方が因果の道理を中心としたものに変わるということである。因果の道理を心から信じてこそ、どんなに苦しくても、どこかに楽な道があるのではないかと現実から逃げることなく、コツコツと種を蒔き、功徳を生み出してゆくことができるのである。また、今まで悪しかやってこなかった自分も、コツコツと阿頼耶識の中に善業を薫習させて自分の業を変えてゆくことができる。だから、現実と向き合うことから逃げてばかりいた私も、現実と向き合うことができ、苦しみから離れた世界に出ることができるのである。
では、因果の道理を信じるとは、どういうことなのか?それは一言でいうのなら、外の環境がどんなに変わっても、その現実を見る自分の心が変わらなければ幸せにはなれないということを知り、自分の心から生まれる思いを一つ一つ見つめ反省していくことを言います。だから、仏教で教えられる因果の道理を信じたならば、どんなにお金を手に入れたとしても、どんなに財産を手に入れたとしても、それでどんなに高価なものを買ったとしても、私の心が変わらなければ幸せにはなれないと分かります。私たちの心からの望みとは何かと言えば、苦しみから離れて幸せになりたいということです。では、その幸せとは何で決まるのかと言えば、私の心で決まるのです。もし、あなたの心から恨みや怒り、また、苦しみを他人のせいにして責めているならば、あなたはその報いで必ず苦しまなければなりません。たとえ、どんなにお金を手に入れたとしても財産を得たとしても、私たちの心から常に負の感情が起きているならば、苦しみ続けてしまうのです。反対にどんなにお金や財産がなく、貧しかったとしても、心が相手の幸せを念じる穏やかな温かい心で覆われていたならば、常にあなたの心は幸せに包まれることでしょう。私たちの幸不幸というのは、私の心で決まります。だから、そのことが本当に分かったならば、純粋に苦しみから離れる為に、自分の心から負の感情を無くしていこうと思うようになるのです。それはどんなに今まで他人からよく見られたいと思っていた人でも、また、負けたくないと他人の上に立とうとしていた人でも、損か得かということにとらわれていた人も、そうやって得られる喜びが段々と虚しいものだと感じられてきて、自分の生き方が変わってゆきます。それはどんな風に変わってゆくのかと言えば、そんな他人と比べて自分が上か下かということにとらわれるのではなく、善いものはいいと心から認められる心にする。このように私たちの信心を変えて、生き方を変えてゆくのが、阿弥陀仏のお力なのです。
では、私たちの生き方がどのように変わるのかと言えば、今まで自分が楽することしか考えておらず、その為に少しでも自分が有利なところに立ちたいと思っていた人が、相手の苦しみを取り除いてあげることしか、自分が幸せになる方法はないと知らされて、どんなに苦しくとも相手と向き合って、コツコツと種を蒔いていく。そんな生き方に変わっていくのである。こんなことを聞くと、自分が相手と向き合って、苦しみを取り除いていくことなんて、とてもできないと思う人もあるでしょう。しかし、阿弥陀仏のお力はそんな私の手を引き、どんなに自分にはできないと諦めている人でも、その人の心を動かして、相手の苦しみを取り除く為に種を蒔いてゆけるようにしてくれるのです。しかも、その際、どんなに自分が頑張っても相手が変わらず、普通ならなんでこんなに頑張らなくてはならないのだろうと嫌になるような状態でも、その私の心を支えて、相手の苦しみが取り除かれるところまで諦めず種を蒔き続けることができるのです。だからこそ、自分も変わり、相手も変わる。また、智慧も得られる。そんな本当の喜びを味わい、本当の意味で仏法の素晴らしさが分かってくるのです。このように信心は私に自利利他を実践させてくれるので、必ず仏の悟りを開くところまで進んでいくことができるのです。また、仏教の教えを理解して心に目を向けるようになると、自分が今何を望んでいるのかということがよく分かるようになります。たとえば、今まで欲に振り回されて、欲を満たすことが幸せだと思っていた人も、欲を求めるのは、心も肉体も苦しんでいるからだと知らされて、心や体の苦しみの声が聞こえるようになります。だから、仏教を聞いていくと、今まで苦しんでいなかった人も苦しむようになります。それは、今まで煩悩の為に自分が苦しんでいても、その苦しみが分からず、自覚がなかった人が仏教を聞いて、段々と本当の自分の心が分かってきたからです。このように仏教には自分が本当は何を望んでいるのか、何がしたいのか、それを明らかにしてくれる力があるのです。このように自分の生き方が変わっていくのは、仏教の教えを理解していくことによって、智慧を頂き、真実が知らされていくからです。真実が知らされたならば、今まで自分がやってきたことが如何に不毛なことであったか知らされ、段々とできなくなっていきます。欲を満たすことが喜びだと思っている人は、その欲を満たした後の苦しみを知らないからであり、他人の上に立って認めてもらおうと努力するのは、そうやって他人の上に立つことによって、如何に他人から嫌われるかを知らないからでもあります。真実が本当に知らされた人にとって今までの生き方はもう無駄な人生としか見えません。だから、どんなにあの時はあんなに楽しかったのにと思って、やったとしても、それではもう楽しむことはできないのです。だから、仏教を聞いて真実が知らされたならば、もう今までの生き方に戻ることはできないし、仏教の教えに従った生き方に段々と変わってゆきます。そして、どんなに苦しいことにぶつかったとしても、もう現実から目をそらすことはできなくなります。それは、どんなに現実から目をそらし逃げたとしても苦しいだけであることをよく知っているからです。だから、仏教の教えに従ってコツコツと種を蒔き、必ず苦しみから抜け出し、幸せになっていくことができるのです。だからこそ、信心を得た人は、この世に一人の菩薩となって、人々の苦しみを取り除いていくことができるのです。
では、信心を得た人がどのように変わっていくのか、順を追って説明致しますと、まず、仏法を信じるということは仏法僧を信じるということである。仏法僧を信じるということは、仏法を正しく聞いていく為には仏法を正しく説いて下さる善知識が必要であり、その善知識は仏力によって説法をすることができ、だから、正しい教えを説くことができるのである。どんなにこの世にお経があって、真実を説かれていたとしても、その教えを正しく理解し、私たちに説いて下さる善知識がおられなければ私たちは仏法を正しく理解することはできないのである。また、阿弥陀仏がどんなにすべての人を救うと誓われていたとしても、それはあくまでも善知識の聞いている人に限られたことであり、善知識を離れた阿弥陀仏もまた私たちにとっては存在しないのである。だから、阿弥陀仏を信じるといっても、教えを信じるといっても、また、善知識を信じるといっても同じ意味である。なぜなら、私たちは教えを聞かなければ仏という存在を認識することはできないし、正しい教えに基づいた仏でなければ、どんなに仏を信じても意味がないからである。
たとえば、ある人が私は阿弥陀仏を深く信じていると言ったとしましょう。その方は間違いなく、何らかの教えを聞いて、その教えに基づいて、阿弥陀仏の本願とはこのような方なんだと思って信じています。ですから、その方がどんなに私は阿弥陀仏を信じていると言っても、その方の信じている阿弥陀仏が正しい教えを理解した上での阿弥陀仏でなければ意味がありませんし、その教えは善知識から聞かせて頂かなければ分からないのです。ですから、今までに何らかの教えを信じてきた人が善知識から教えを聞くようになると、必ず今まで信じてきた教えと違うところが出てきて、自分が今まで信じてきたものを捨てなければならない時がやってきます。その時、どうしても自分の信じてきた教えを捨てたくないので、善知識が説かれる教えが間違っているのではないのかと思うようになります。この場合、今まで信じてきた教えは結局のところ、その方の生き方そのものに現れています。だから、その方の生き方に現れていないものはどんなに私は仏教を信じていると言っても知識だけで信じているだけで、本当には信じてはいません。教えとは必ず生き方に現れてくるものであり、その人の生き方を見れば、何を信じているのかも分かります。ですから、仏を信じるとは、善知識を通して教えを理解し、その教えを通して、私を救って下さる阿弥陀仏の存在を信じることができます。そして、阿弥陀仏が私を必ず苦しみから抜け出させて下さると信じられた人は、阿弥陀仏の救いを信じて善知識から教えを聞かせて頂こうとしてゆきます。そして、善知識が生活に困って教えが説けないことがないように、善知識の生活を支えていこうとしてゆくのです。この場合、仏法を聞き求めてゆこうとする人が善知識の生活を心配するのは、仏法を大事に思うからであり、仏法が大事であるからこそ、これからも善知識から教えを続けて聞いていく為に善知識の生活を支えてゆきたいと思うのです。このような気持ちになるのは、自分自身が仏法を聞いてゆくことを通して仏法の素晴らしさが知らされ、自分の人生にとって、仏法がなくては幸せにはなれないと知らされたからであり、その仏法は善知識から聞かせて頂かなければ絶対に分からないし、最後まで求め抜いていくことはできないと知らされたからです。このように善知識の生活を支えていくようになると、自分もまた、仏法に人生をかけるようになるので、何か苦しいことがあって壁にぶつかった時でも現実から逃げ出すことなく、現実と向き合い、その解決の道を仏法に求めるようになります。このようになった人は、二河白道を進み、煩悩から離れてゆくことができるようになります。そして、段々と人と人が結びつき、そこに和合僧が出来上がっていくのです。このように和合僧が出来上がっていくと、その和合僧が崩れないようにする為に、様々な問題を解決するようになり、このことによって智慧を学び、心が鍛えられ、心の余裕も生み出されてゆくようになるのです。この活動こそ、菩薩行であり、私の心に仏になる為の種が薫習されていくのです。始めは問題が起きる度に、どうしてこんな問題が起きるのだろうと、くよくよ悩んでいるのですが、何回も問題がやってくるうちに、問題が起きることが苦にならないようになってきて、やがて、人が幸せになる為にたとえ自分が馬鹿にされても、責められても、諦めず種を蒔いていこうと決意が固まるようになります。そして、そうなった人は目の前に大きな問題がやってきて、今まで自分が積み上げてきたものが崩れそうになったとしても、挫けることなく、その問題を乗り越えることができるのです。人間とは誰しも馬鹿にされたくないし、責められたくないものです。でも、大事なものを守る為なら、どんなに苦しいことがあっても、その苦しみを乗り越えることができます。多くの苦しみを乗り越えた人だけが、不可能と思える道でも挑戦し、その願いをかなえる為に地道な種まきを続けようと決意が固まるのです。それが仏になりたいと思うことなのです。仏になりたいと思うようになった人は、苦しんでいる人のその苦しみを抜いてあげたいと努力をするようになります。苦しみを抜く為には、その人がどんなに苦しくても現実と向き合うことが必要です。しかも、苦しんでいる人は今まで現実と向き合うことなく逃げてきたので苦しんでいたのです。だから、その人の苦しみを抜いてあげたいと思い、現実と向き合わせようとすると、相手は苦しみから、自分を疑い、責めてくるようになります。導く人はこの苦しみ耐え、相手に謝りながら、相手が現実と向き合うようにしていかなければならないのです。しかも、そうやって問題を解決すると自分は大きく成長したのだと思い、自惚れる。だから、次の苦しみがやってくると自惚れていた分だけ、大きく落ち込み、「あんなに頑張ったのに自分は全然変わっていない。だから、どんなに頑張ったとしても自分は変わらないのだ」と諦めようとする。結局は楽を求めているだけなのですが、幸せになる為にどれだけ長い間、コツコツと種を蒔いていかなければならないかということはまるで分かっていない。そんな人に付き合いながら、たとえ責められても、馬鹿にされても相手の為にコツコツと種を蒔いていく。それが仏になる為の道なのです。このような努力をする人に、仏様は様々な智慧を与え、目の前の問題を解決する方法を教えてくれるのである。それが仏智です。この仏智を頂くので、どんな現実の苦しみにぶつかっても、その苦しみを乗り越え、相手の苦しみを抜いてあげようと思えるし、その苦しみを抜いてあげることができるのです。
このように相手の苦しみを取り除くものが現れることによって、この世に一人の善知識が誕生し、また菩薩が誕生するのです。善知識が仏智を駆使して人を導くことによって、聞いている人は段々と今まで自分を苦しめていた間違った思想が正され、段々と仏法に従った生活習慣へと変わっていく。そうなると現実と向き合うことしか幸せになれないことが知らされて、現実と向き合うようになる。それはそのまま自利利他を実践し人を幸せにしてあげることになるのです。このように現実と向き合い、二河白道を進むようになった人は、自分を導いてくれる善知識に対して、これからも仏法を聞かせて頂く為に、生活を支えていこうと思うようになる。そして、同時に人生を仏法にかけようと思うのである。このような気持ちになると今まではただ自分の苦しみを取り除く為だけに聞いていた人が段々と仏法で教えられる真理とは何だろう。人を幸せに変えてゆく、この仏法とは何か?仏法が知りたいと思うようになります。なぜなら、仏法が分かれば、相手の苦しみに応じて教えを説き、苦しみを抜いてあげることができます。一つ一つの仏語の意味を深く知り、理解してゆく。こんな人はどんなことで苦しんでいるのか、考えるようになる。そして、仏法で説かれている様々な教えを理解し、それを通して、仏法とはこの世を貫く普遍的な真理そのものだと理解していくのです。その真理そのものを悟ることを仏の悟りといい、その真理を悟った人は、自由自在に仏法を説き、人々の苦しみを取り除いていくことができるようになるのです。このように人々を導く力が身に付くことによって、苦しんでいる人を実際に救っていくことができるのである。そして、自分もすべての人の苦しみを取り除いてあげられる人になりたい、その為に様々な苦しみがやってくるかもしれないが、それを乗り越えて自分の望む苦しみのない世界をこの世に生み出してゆきたいと思うようになります。このような活動を続けてゆくことによって、存在価値に縛られる心から離れていくことができるようになり、何か価値のあるものを自分のものにすることによって自分の自信にしようとする気持ちがなくなり、また、思い通りにしたいと思う気持ちも無くなってくる。このような気持ちになるからこそ、どんな人も差別することなく幸せにしてゆくことができるのです。このような境地に立った人にはどんな世界も、苦しみとは感じないのである。
(二・信楽釈)六・曇鸞・浄土論註二文

(真宗聖典p342)
『論の註』(下 一〇四)にいはく、「〈如実修行相応〉と名づく。このゆゑに論主(天親)、建めに〈我一心〉とのたまへり」と。{以上}

このように欲を満たすことしか考えていなかった私たちが仏教の教えに触れ、苦しんでいる人を助けていくことを自らの喜びとして生きる菩薩へと成長していくことを「浄土論註」には「〈如実修行相応〉(真理の働きに触れて、自らも真理に従って生きていくものになった)と言われ、これをまた、天神菩薩は浄土論の始めに〈我一心〉(私の心は一つに定まった。これからはこの心に従い生きていきたいと思います。)と言われているのです。
(真宗聖典p343)
またいはく(同・下 一五七)、「経の始めに〈如是〉と称することは、信を彰して能入とす」と。{以上}
ここに書いてあることは、単に言葉だけのことではない。実際に私たちの身の上にも起きることなのである。そして、このような身になったことを信心を得たというのです。
(三・欲生釈)一・私釈

(真宗聖典p343)
次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

次に、欲生我国の心とは何かと言いますと、阿弥陀仏の至心を受け取り、実際に私の心が二河白道を進み始めようとする心を言います。この心はどんなに阿弥陀仏が至心の心で私たちを苦しみから離れさせようと働きかけていても、実際にその力を私たちが受け取ることが出来なければ、私の心に現実と向き合い二河白道を進んでいこうと思う気持ちが起きることはない。たとえ、仏法を聞いて、頭だけ理解して現実と向き合おうとどんなに頑張ったとしても、現実と向き合う苦しみがあまりにも大きな為に結局は現実から逃げてしまう。だから、阿弥陀仏のお力でなければ現実と向き合うことはできないし、その心は聴聞によって少しずつ阿頼耶識に薫習されていかなければ、私の心に生まれてくることはないのです。
だから、私たちは今までどんなに頭ではこうしたらいいと分かっていても、自分の中に現実と向き合う業がない為に実践することができず、苦しみを欲や怒りによって誤魔化し、因果の道理の報いによって苦しみ続けてきたのである。こんな私たちを助ける為に阿弥陀仏は現実と向き合う力を私たちに与えて下さるのです。だからこそ、この力を受け取った人には現実と向き合う心が起きるのです。では、現実と向き合うとは、どういうことかと言いますと、人と向き合うということであり、人を通して見えてくる真実の自分を受け入れていくこと、それが現実と向き合うことなのです。これが欲生我国の心であり、この心になった人はどんな人でも二河白道を進んでゆくことができるのです。
(三・欲生釈)一・大無量寿経一文

(真宗聖典p343)
ここをもつて本願の欲生心成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「至心回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住すと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。{以上}

このことを大無量寿経の本願成就文の中で欲生我国について書かれている所では次のように教えられています。
「阿弥陀仏の至心の働きを受けた人は必ず現実と向き合い二河白道を進んでゆくようになる。この心は阿弥陀仏のお力によって起きた心であるから、一心になった人はどんな苦しいことがあっても現実から目をそらすことなく、向き合うことができる。だから、必ず浄土まで進んでゆくことができるのである。ただし、まだ一心になっていない人は、心に五逆と謗法の心があるので、この心が邪魔をして、現実と向き合わなければならないと分かっていても苦しみから欲や怒りによって現実を誤魔化し、せっかく起きた信心も崩れることもあるのである。だからこそ、一心になるまでは、自分の心から五逆や謗法が無くなるように心がけていかなければならない。」
(三・欲生釈)三・如来会一文

(真宗聖典p344)
またのたまはく(如来会・下)、「所有の善根回向したまへるを愛楽して無量寿国に生ぜんと願ずれば、願に随ひてみな生ぜしめ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間・誹謗正法および謗聖者を除く」と。{以上}

また、如来会では次のように教えられています。
「阿弥陀仏の至心の働きによって、阿頼耶識の中に、現実と向き合う心が薫習されていくと、今まで欲を満たすことしか考えていなかった心が浄化され、段々と現実と向き合う心が起きてくる。やがて、この心が一心になると、どんな苦しみとも向き合い、乗り越えていくことができるので、必ず仏の悟りまで求めてゆくことができるのである。ただし、一心になるまでは五逆罪や謗法罪、また、善知識に反発する心があるので、この心が邪魔をして、せっかく起きた信心が崩れてしまうことがあるのである。」
(三・欲生釈)四・曇鸞浄土論註三文

(真宗聖典p344)
『浄土論』(論註・下 一〇七)にいはく、「〈いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相とは、おのれが功徳をもつて一切衆生に回施したまひて、作願してともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり。還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向らしめたまふなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を渡せんがためにしたまへり。このゆゑに〈回向為首得成就大悲心故〉とのたまへり」と。{以上}

阿弥陀仏が私たちに至心を働きかけて下さることによって、どんなに現実と向き合うことができないものでも、阿頼耶識の中に現実と向き合う業が薫習され、段々と現実と向き合うことができるようになる。これは阿弥陀仏の往相廻向である。この他に至心を働きかけて下さることによって私たちの中に起きてくる心がある。それが還相廻向である。還相廻向とは、現実と向き合い、二河白道を進むことによって現実を誤魔化すことなく、正しく見ることによって、苦しみから離れた人が、今度は他人に向かい、その人の苦しみを抜いてあげようとすることであり、その人は現実を正しく見ることができるので、相手がどんなことで苦しんでいるか正しく分かることができる。そして、阿弥陀仏のお力によって、その人が苦しみから離れるところまで教え導くことができることを言います。この往相廻向も還相廻向も共に阿弥陀仏のすべての人を浄土へ往生させたいという願いによって起きた働きであり、私の心に実際に起きて私を動かしていく力でもあるのです。
またいはく(同・下 一三八)、「浄入願心とは、『論』(浄土論)にいはく、〈また向に観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまへるなりと知るべし〉といへりと。〈知るべし〉とは、この三種の荘厳成就はもと四十八願等の清浄の願心の荘厳したまふところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり、因なくして他の因のあるにはあらざるなりと知るべしとなり」と。{以上}
また浄土論註には次のように教えられています。
「浄入願心」とは浄土論の中に次のように教えられています。これは、阿弥陀仏がすべての人を浄土へ往生させたいという願いを起こされ、その願いを果たす為に私たちに至心を働きかけて下さる。その働きによって、私たちの心に目指すべき清らかな境地を思い浮かべることができるようになり、そして、その境地に出る為に自分が何を身に付けなければならないのか分かり、これからどんな努力をしていかなければならないか分かるようになります。だからこそ、私たちの心は一つに定まり、苦しみのない世界に向かって、迷うことなくコツコツと努力を積み重ねてゆくことができるのです。これを「浄入願心」と言います。なぜ、煩悩しか知らない私たちが浄土へと往生してゆくことができるのかと言えば、私たちに働きかけて下さる阿弥陀仏の至心の働きが浄らかであるからであり、その浄らかな至心の心によって、私たちの心にも浄らかな願いが起きてくるのです。もし、このような阿弥陀仏の至心が働きかけて下さることがなかったら、私たちの心を浄らかにしてゆくことできないことをよく知って頂きたい。
(真宗聖典p344)
また『論』(論註・下 一五二)にいはく、「〈出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく〉(浄土論)とのたまへり」と。{以上}
また、浄土論註には次のように教えられています。
出第五門とは何かと言いますと、阿弥陀仏から真実を見る智慧を頂いて、自分の見ている世界は、自分も相手も関係なくすべて自分なんだという真理が知らされて、今までこれは自分じゃないと切り離して考えていた相手の苦しみが自分の苦しみとして考えられる、そんな大慈悲心が私の心に起きると、その大慈悲心に動かされて、人々の苦しみを何とか取り除いてあげたいと、相手と向き合い、その人がなぜ苦しんでいるのか、その原因を正しく知ろうとするようになる。そして、相手の我に合わせて、自分の接し方を変え、煩悩に塗れた相手の世界に飛び込み、その中で自分も苦しみながら、阿弥陀仏から頂いた説法自在の力によって、人々の苦しみを取り除き、苦しみのない世界へと導いていくのである。これはすべて阿弥陀仏のお力によって動かされて活動していく道であり、これを出第五門と言います。
(三・欲生釈)五・善導・散善義一文

(真宗聖典p345)
光明寺の和尚(善導)のいはく(散善義 四六四)、「また回向発願して生るるものは、かならず決定真実心のなかに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。この心深く信ぜること金剛のごとくなるによつて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じ回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり」と。{以上}

善導大師の書かれた散善義の中に次のように教えられています。
「二河白道を進んで浄土に往生しようと思うのなら、善知識から真実を聞かせて頂き、それによって自分の真実の心を知りなさい。真実の心が分からなければ、なぜ自分が二河白道を進まなければならないか分からないし、たとえどんなに頑張ってもその苦労は無駄になるだけであるからです。善知識の教えを通して自分の真実の心が本当に知らされたならば、自分が苦しみから離れる為には現実と向き合う以外にはないと知らされるので、どんなに他の人が楽していい思いをしていたとしても、自分の心がぶれることないのです。しかし、まだ真実が知らされていない人は、どんなに頑張って現実と向き合おうと思っても、苦しくなってくると他にもっと楽な道があるのではないかと迷いが起きてくる。一旦、迷いが生まれると現実と向き合うことが耐えられない程、苦しくなって欲や怒りを起こして現実を誤魔化してしまうのである。」
(三・欲生釈)六・白道四五寸釈

(真宗聖典p345)
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」はすなはちこれ選択  摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。「道」の言は路に対せるなり。「道」はすな  はちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。「路」はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。「四五寸」といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。

ここまで解説をしてきて、ハッキリと知らされたことがある。それは、二河白道の譬えで白道の幅がわずか四、五寸しかないと例えられているのは、この白道とは、黒から離れ白になってゆく道であり、この黒とは智慧が無い為に自分が苦しんでいることも気づかず、また、楽しみを求め、欲を満たしてゆくままが苦しみを生み出して果てしなく苦しみの輪を回り続けていることであり、人間の発想で考え、幸せになりたいと求めているすべての行いを言います。この智慧がなく苦しみ続ける世界から離れる為に善知識から真実を聞かせて頂き、それによって智慧を得て、進むべき道がハッキリとすることによって苦しみから離れてゆくことを白道と言います。この道とは、智慧の光によって先まで見通すことができ、自分がこの道を進んでいったらどうなるのか、知って進んでゆく道を言います。そして、智慧に裏付けられた道なので、この道を進む上でどんなに苦労したとしても、その苦労はすべて報われ、必ず苦しみから離れてゆくことができるのです。それに対して、私たち人間が進んでいる道は智慧がなく目の前しか見えていない道なので、今さえ楽になれたらいいと思って、楽な方へ楽な方へと流れていくのです。たとえ、その先にもっと恐ろしい苦しみが待っていたとしても、目の前しか見えない私たちにはそのことが分からないのです。だから、苦しみと向き合うことができず、常に楽な道はないか探し回って苦しみ続けてしまうのです。この四、五寸の白道とは、私たちが今までやってきた行いが業力となって、どんなに仏法を聞いて苦しみから離れていこうと思っても、元の生き方に戻ろうとしてしまうことを、わずか四、五寸しかない簡単に道を踏み外してしまう細い道にたとえられているのです。
(三・欲生釈)七・能生清浄願心釈

(真宗聖典p345)
「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

そして、こんな細い道を私たちが進んでゆけるのが、善知識から真実を聞かせて頂くことによって、阿弥陀仏の智慧を頂いたからであり、それによって苦しみから離れる為には現実と向き合うしかないと知らされたからであり、阿弥陀仏から頂いた智慧によって見せられた真実はどんな煩悩によって誤魔化そうとしても誤魔化すことができず、真実を見せ続けていくので、必ず浄土まで進んでゆくことができるのです。
(三・欲生釈)八・善導・玄義分一文

(真宗聖典p346)
『観経義』(玄義分 二九七)に、「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。まさしく金剛心を受けて、一念に相応して後、果として涅槃を得ん者なり」といへり。{抄要}

善導大師の書かれた『玄義分』に次のように教えられている。
「善知識から教えを聞かせて頂き、頭で仏法を理解して現実と向き合い二河白道を進んでいかなければならないと分かっても、やっぱり頭の中では欲を満たすことばかり考え、また、嫌なことがあると、あの人さえいなかればこんなことにはならなかったのに、と恨みの心ばかりが出てくる。だから、時間があっても仏法を深く理解してよく真実が知りたいと思うような心は起きてこない。だからこそ、聴聞に励みなさい。そして、善知識から真実を聞かせて頂くことによって、阿弥陀仏から真実を見る智慧を頂きなさい。この阿弥陀仏から頂いた智慧はどんなに煩悩が逆巻こうとも、常に私に真実を見せ続け、それによって何をしたら、どこに向かって進んでいったら苦しみから離れられるか明らかにしてくれる。だからこそ、阿弥陀仏の智慧によって起きた菩提心は崩れることなく、二河白道を進むことができ、煩悩から離れることができるのです。この菩提心は初めはあなたの心を動かし、あなたが嫌がっても、あなたの心を引きずり、現実と向き合わせてくれる。やがて、何度も現実と向き合ううちにあなたの心も諦めて、自ら現実と向き合うようになる。これが一念であり、このような心になった人は必ず仏の悟りまで進んでゆけるのである。」
(三・欲生釈)九・善導・玄義分一文

(真宗聖典p346)
またいはく(序分義 三七四)、「真心徹到して苦の娑婆を厭ひ、楽の無為を欣ひて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなはち階ふべからず、苦悩の娑婆、輒然として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。もし親り慈尊に従ひたてまつらずは、なんぞよくこの長き歎きを勉れん」と。

また、序分義には次のように教えられている。
「阿弥陀仏から智慧を頂き、真実を見せて頂くことによって、現実と向き合い二河白道を進む以外に苦しみから離れる道はないと心から知らされなさい。そうでなければ、心に渦巻く煩悩に飲み込まれて、今までの欲に塗れた生活から離れることはできない。阿弥陀仏から頂いた智慧によって真実を見せて頂かなければ、どうして欲を満たす楽しみから離れることができるであろうか。また、この阿弥陀仏の智慧は善知識から真実を聞かせて頂かなければ頂くことができない。だから、苦しみから離れた世界に出たいと思うのなら、まず、善知識を探しなさい。この善知識から教えを聞かせて頂かなければ、私たちは苦しみの輪を回り続け、そこから永遠に抜け出すことはできないのである。」
(三・欲生釈)十・善導・善義分一文

(真宗聖典p346)
またいはく(定善義 四一九)、「金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり」と。{以上}

また、定善義には次のように教えられている。
「阿弥陀仏から頂いた智慧によって起きた菩提心がなぜ金剛のようにどんなことがあっても崩れないのかと言えば、私たちの阿頼耶識の中に煩悩に染まることのない無漏の種子が収まったからであり、この無漏の種子が収まった分だけ真実が見せつけられ、苦しみから抜け出す為にはどこに向かわなければならないのか、ハッキリと教えてくれるからである。」
(四・三心結釈)

(真宗聖典p346)
まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論 二九)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同 三三)とのたまへり。

ここまで解説をしていきながら、ハッキリと知らされたことがある。それは、至心と信楽と欲生我国の心は、その言葉は違っているが、本質的には一つのことを言われているということである。つまり、阿弥陀仏の至心によって私が真実が知らされ、(信楽)その真実によって、煩悩から離れていかなければ絶対に苦しみから離れることができないと知らされ、浄土に向かって進み始める(欲生我国)からである。だから、この三つの心は真実が知らされ、現実と向き合い二河白道を進むしかないと心が一つに定まったことであり、この知らされた真実はどんなに都合の悪いことが目の前にやってきて、煩悩が逆巻き現実を誤魔化そうとしても、常に真実を見せ続け、何をしなければならないのかハッキリと教えてくれる。だから、心がぶれることはないのである。このような心になった人を真実の信心を得た人というのです。また、真実の信心を得た人は真実が見えるので、智慧がなく愚かなことを繰り返して苦しみの輪から離れられない人に対して、真実を教えてあげて愚かな行いから離れさせようとせずにはおれなくなる。この心になったことを天親菩薩が浄土論の始めに「我一心」と言われているのです。また、阿弥陀仏に救われるというのです。
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