教行信証解説【7】正信偈 十二光

教行信証 解説

7.正信偈 十二光

普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照 

阿弥陀仏はすべての人を救うためにどのようなお力を持たれた仏になられたのか?その働きを十二に分けて教えられたのが十二光です。この十二光とは、無量光、無辺光、無碍光、無対光、光炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光の十二のお力の事です。それぞれどのような働きがあるか、親鸞聖人の書かれたご和讃を通して説明していきます。

①無量光
「智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ」

 ここで、無量とは何が無量なのかと言いますと、“智慧の光明はかりなし”と言われていますように、智慧の光明が無量であるということです。つまり、阿弥陀仏は無量の智慧を持たれた仏様なので、無量光と言われるのです。では、次に智慧にはどのような働きがあるのか、それについてご和讃には真実明と言われています。真実明とは、智慧の光明の働きによって、私たちの自分に暗い愚痴の闇を照らし、ありのままの姿を明らかにしてくれることを言います。私たちは自分の姿が分からないために、間違いを間違いだと気付かず、そのために同じ間違いを繰り返し、苦しみ続けています。阿弥陀仏はそんな私たちにありのままの姿を知らせ、自分の間違いに気付かせる事によって苦しみを取り除こうとされているのです。次に“有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし”とは、阿弥陀仏は無量の智慧を持っておられるので、私たちがどんな人間であったとしても、ありのままの姿を明らかにして下されるということです。ただし、私たちは自惚れ強く、理想の自分に執着しているので、いきなり自分の本当の姿が知らされると自分の理想とかけ離れており、とても受け入れる事ができないので、阿弥陀仏は私たちに受け取り易いように、まずは暁の光から順番に私たちの本当の姿を知らせてくれるのです。この事について、以前おもしろい話を聞いたので紹介させて頂きます。
『昔ある所に神様とそれに仕える熱心な信者がいました。ある時、いつも献身的に仕えてくれる信者に感謝した神様は、その人に対して一つだけどんな願いでも叶えてあげようと言われました。その言葉を聞いた信者は、神様のそのお気持ちに対し、大変喜びこう言われました。「私は何も欲しい物はありません。ただ、私の心を見せて頂きたいのです。」それを聞かれた神様は、「どうしてそんな事を知りたいのか?」と尋ねられると、信者は「私は今まで神様に心から仕えて参りました。それによってどれだけ私の心がきれいになったか見てみたいのです。」そう答えました。それに対し、神様は「それはちょっと」と渋られましたが、何度も信者が頼まれるので、仕方なく見せてあげる事にしました。信者はその言葉に喜び、期待を胸に膨らませて、自分の心を覗くとそこには…。信者はあまりのショックに発狂して死んでしまった。
私はこの話を読んだとき、ここに書かれている事は真実だと思いました。人間は誰しも理想の自分を持ち、それに対して執着しています。だから、現実の自分は誰も知らないし、たとえ目の前に現実の自分を見せられたとしても、それを自分のすがたとはとても認められないものです。もし、私たちが本当の自分を突然知ってしまったら、先程の信者と同じように発狂して死んでしまうと思います。だからこそ、阿弥陀仏は少しずつ本当の自分の姿を知らせてくれるのです。

②無辺光
「解脱の光輪際もなし 光触かふるものはみな 有無をはなると述べたまふ 平等覚に帰命せよ」

 無辺とは、隔たりが無いという事。「ここまでは助けるけど、これ以上は助けない」ということはない。どんな極悪人でも、どんなに穢れた人でも、どんなに反発したり疑ってきたりするような人でも受け入れていく。この人は自分を傷付けてくる人だから、疑ってくる人だから、思い通りにならない人だから、そういう理由で相手を見捨てる事はしない。自分の都合を離れて苦しんでいる人を助けていく。それが無辺光です。それでは、ご和讃の意味を解説していきましょう。
最初の解脱の光輪とは、苦しみやとらわれ、迷いを取り除いてくれる阿弥陀仏のお力の事で、それが際もなしというのは、どんな極悪人であっても差別することなく助けて下されるという事です。阿弥陀仏はすべての人を助けてあげたいと願われて仏になりました。だから、阿弥陀仏の光明には、すべての人を助けてあげたい。そんな願いがこもっているのです。そのため、阿弥陀仏の心に触れた人は、その広い心に触れ、今まで如何にちっぽけな心にとらわれていたか知らされ、自分の事しか考えていなかったことに反省せずにはおれなくなるのです。私も今までこの人は続けて聞いてくれるか、それともそうでないか、つまり、自分にとって都合が良いか、良くないか、そんな事を考えて接してきたと思います。でも、それはちっぽけな考えであり、自分の中で救われる人とそうでない人を区別していたのだと反省します。阿弥陀仏のみ心から言えば、そんな聞いてくれるかどうかということは関係ない。今、目の前にいる人は阿弥陀仏が助けようとされている人なんだと思って、仏法の香りを残していく。この人とは今日が最後だとしても、自分と会えて良かったと思って頂けるように幸せを施していく。それが阿弥陀仏のみ心に触れて揺り動かされて生きていく仏弟子のすがたなんだと思います。

③無礙光
「光雲無礙如虚空 一切の有礙にさわりなし 光澤かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ」

 無礙光とは何か?礙とは、石のように固くなった疑いの心のこと。人間には誰しも自分の考えは正しいという我を持っています。そして、自分の我を認めてくれる人には好意を抱き、反対に自分の我を否定してくる相手には敵意を抱きます。仏法は無我の教えです。だから、聞いていくと自分の我を否定されたように感じ、心を閉ざし、とげとげしい心に変わってしまいます。これが石のように固くなった疑いの心、礙りです。誰しも我を持っているので仏教を求めていくと、どうしても心に礙りが起きて、これ以上前に進めなくなります。無礙光とは、阿弥陀仏が私たちの心にできた礙りというシコリをもみほぐし、また柔らかな穏やかな心にして下される、そんな働きを無礙光と言います。それでは、ご和讃の解説に移りましょう。
光雲無礙如虚空というのは、太陽の光はたとえ途中に雲があったとしても、まるでそこに何も無かったように雲を突き抜け、その先を明るくしてくれるように、阿弥陀仏のお力もまた、どんなに礙りが起きて自分の心を隠してしまったとしても、その心を貫き自分の心を明らかにして下される。だから、「一切の有礙にさわりなし」どんなに強い礙りが起きたとしても問題ではない。「光澤かふらぬものぞなき」この光澤の澤とは、潤澤という事で、うるおいのある滑らかな様子を言います。だから、阿弥陀仏の無礙光は、礙りによってカラカラに乾き、煩悩にまみれた私たちの心にうるおいを与え、とげとげしい心をなめらかな優しい心へと変えて下されるのです。このことはとても不思議な事であり、怒りや疑いに満ちた心がまた穏やかな心に戻るとは、体験した本人でも信じられない事なので、最後に難思議を帰命せよと言われているのです。

④無対光
「清浄光明ならびなし 遇斯光の故なれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依に帰命せよ」

 無対とは相対するものが無いということで、何がならぶものがないかと言いますと、「清浄光明ならびなし」と言われていますように、阿弥陀仏の清浄にする働きは、どんなに煩悩に穢れた者であっても、その心を浄化し、浄らかな心にして下されるので、無対光と言われるのです。次に「遇斯光の故なれば」とは、遇斯光とは、無対光に遇うということで、阿弥陀仏のどんな穢れも浄化してしまう無対光の働きを受けたならば「一切の業繋ものぞこりぬ」。どんな悪業によって縛られている人でも、その業力を断ち切り浄らかな心にしてくれるのです。だから、自分の力で心を浄らかにしようとして、どうにもならない悪業の鎖に縛られている人よ。この無対光こそ、どんな悪業も断ち切って浄らかにしてくれる力のあるものだから、この力をより所にして(畢竟依)、どうか浄土までたどり着いて下さい。これが無対光です。

⑤光炎王光
「仏光照曜最第一 光炎王光となづけたり 三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ」
 光炎王光とは、阿弥陀仏の光明は自分にくらい愚痴の闇を照らし、智慧を与えて本当の自分を明らかにして下される。これが、光炎王光の光。そして、私たちの心を真っ黒に染める煩悩の炭を燃やし、心を浄化してくれるので、これを炎と言います。ですから、阿弥陀仏の光明は、自分にくらく闇に閉ざされているために、何が正しいか、何が間違っているか分からず、迷い続けている私たちに光を与え、自分の本当の姿を明らかにして下される。また、どんなに心が穢れ仏教をはねつけていても、また自分は間違っていないと、我を貫こうとしても、そんな私の穢れた我にこり固まった心を燃やして浄化し、浄らかな心にしてくれる。そういう働きがあるので、光炎王光と言われるのです。
次に、ご和讃にはどのような事が教えられているのか?と言いますと、阿弥陀仏の光明はどんな仏様の光明よりも明るく輝く力が強いので、阿弥陀仏のことを光炎王仏と言われるのです。この光炎王光の働きによって、智慧の目が無いために自分のすがたが分からず、地獄や餓鬼、畜生の境界に堕ちて苦しんでいる人たちに智慧の光を与え、それによって、真っ黒な煩悩を燃やし浄化させて下される。供養される事に相応しいお徳を持たれた阿弥陀仏に対し、心から頭を下げずにはおれません。
⑥清浄光
「道光明朗超絶せり 清浄光仏と申すなり ひとたび光照かふるもの 業垢を除き解脱を得」
清浄とは何か?まず清とは、清らかな水は澄んでいて透明であるように、心に濁りや偏見という色が着いていない状態。私たちは誰しも偏見という色眼鏡をつけて世界を見ている。例えば、青色の眼鏡をつけたら世界は青色に見えるし、黄色の眼鏡をつけたら世界は黄色に見える。また、赤色の眼鏡をつけると世界は赤色に見える。世界が赤色に見えたとしても、本当に赤色をしている訳ではなく、赤色の眼鏡をつけているだけで実際はそうではない。私たちも同じように自分の思い込みで世界を見ているので、例えば、相手が自分の事を馬鹿にしているように思えても、それは、自分がそう思っているだけで実際の所は分からない。清らかというのは、自分の思い込みの色眼鏡をはずして世界がありのままに見える事を言います。次に浄とは、穢れが無い状態を言います。穢れとは、好きとか嫌いとか、そういうものにとらわれる事を言います。この穢れが強い人ほど、好きなものや嫌いなものに対してとらわれる気持ちが強くなり、好きなものに対して「もっと、もっと」と求め貪ります。それと反対に、嫌いなものに対しては嫌悪感を懐き、嫌いなものに近付くことが苦しくて苦しくて耐えられなくなります。これが穢れです。この気持が無くなり、好きなものを貪る事がなく、嫌いなものに対しても苦しむことが無くなった状態を浄と言います。これが清浄です。清浄光とは、物事のありのままのすがたを見せる事によって、思い込みをしている事に気付かせ、また、自分が好きだと思って求めているものがそれ程価値があるものではない事を知らせ、貪る事をやめさせたり、また、嫌いなものに対しては、それによって思い通りにならない事があったとしても、それは自分にとってそれほど大きな問題ではない事を知らせて、苦しみを取り除いたりしてくれるのです。
それでは、ご和讃の解説に移りましょう。道光とは、道を明るく照らす光の事で、道とは仏になるための道、心を浄化していく道の事です。私たちは、真実を知る智慧がないので、自分を客観的に見ることが出来ず、そのために、自分を苦しませるものを幸せだと勘違いして求めています。丁度、暗闇の中では自分の姿が見えないので、おかしなことをしていてもそれがおかしいと気付かないように、愚痴の闇に閉ざされている私たちは、何が正しいことか何が間違っていることか、それが分からないのに、その事にも気付かず、自分がやっている事が正しい事なんだと思って、苦しみ続けています。そんな私たちに阿弥陀仏は光を与え、仏になる道、心を浄化していく道を明らかにして下さいます。これが道光です。この道光の働きによって自分のすがたが明らかになり、また、先を見通す智慧が無いためにちっぽけな事で一喜一憂していた心に智慧を与え、晴れ晴れとした明るい心にしてくれるのです。お釈迦様は「法句経」の中に「真実を知らずに百年生きるよりも、真実を知って一日生きる方がずっと素晴らしい」と教えられていますが、確かに真実を知らない人の一生は、喉が渇いている時に塩水を飲むようなもので、求めても求めても心が満たされることなく、果てしなく苦しみ続けているのです。こんな私たちに真実を見る目を与え、苦しみ迷いの世界である穢土から抜け出させてくれる、これが超絶であり、その働きが道光(清浄光)にはあるのです。だから、清浄光の働きによって、智慧の目を頂き、自分のすがたが知らされた人は、間違いを間違いだと気付き、反省して正していく事ができるので、「苦しみから抜け出そうとしてもがくことによって、余計に苦しむ」という苦しみの連鎖から抜け出す事が出来るのです。
⑦歓喜光
「慈光はるかにこふらしめ 光のいたる所には 法喜を得とぞ述べたまふ 大安慰を帰命せよ」
仏法を伝えていく過程に於いて、苦しい事は色々あります。特に、心をかけ、相手の事を大事に思い接してきた相手から攻撃されたり、疑われたり、批判されたり、非難されたりする事は、とても苦しく「こんなに頑張ってきたのに、どうしてこんな目に会わなければならないのだろうか」と返って相手に対して怒りの心が起きてきます。怒りとは不思議ですね。時間やお金・心をかけてきた人ほど、その相手が思い通りにならない時、怒りの心が吹き上がってきます。そんな時、「こんなに苦しいのなら、もう心をかけるのはやめた!もうあんな人なんて知らない」そんな恐ろしい心さえも起きてきます。そんな時、私の心に語りかけて下さるのが歓喜光です。この歓喜光の働きによって、目の前にいる怒りを起こしている相手はかつての自分の姿であり、その時、私のためにこんなに心がズタズタに引き裂かれながら、それでも見捨てず、私のご縁を守って下された方があった。その方の温かい慈悲の心が時空を超えて私の心に届くのです。これが「慈光はるかにこふらしめ」です。この“はるか”とははるかかなたという事です。親になって初めて知る親心と言われますが、私たちは親に対して色々と迷惑をかけて大きくなりましたが、そんな迷惑をかけた事など全然知らずに、一人で大きくなったように思っています。だから、親が子供のためにどんなに苦労したとしても、子供はその親の御恩など全く感じないのです。でも、一人で大きくなったように思っている子供でも、自分が親となり子供を持つと、子供が自分に色々と迷惑をかけてくる事を通して、自分を育ててくれた親の苦労が知らされます。「あ~、自分も親に対してこんなにも迷惑をかけてきたんだなぁ。それでも、うちの親はよくも私を見捨てずに育ててくれたものだ。自分は気付いてはいなかったけれど、こんなにも親から大事にされてきたのだなぁ」そう思うと、今、憎たらしいと思っていた子供も、何だかかわいく思えて、「そうだな、私も親に迷惑をかけた分、今度は子供に対して愛情を注いでいこう」。これが恩を知らされるという事です。私たちは、今、苦労している事が、今、目の前にいる相手に伝わらないと、何か報われない苦労をしているような思いになりますが、それは時空を超えて必ず相手に伝わる時が来るのです。それと同じように、気付いてはいませんが、私のために苦労して下された人がたくさんいます。でも、私たちは、そんな人達がいた事も知らずに、自分は一人で生きてきたのだと自惚れ、自分の事を大事に思ってくれている人なんていないのだと思っています。だから、ちょっと他人のために苦労するだけでも何か損した気持ちになり、思い通りにならない相手に対して怒りの心が起きるのです。でも、阿弥陀仏に救われた人は、そのようにして怒りが起きると、阿弥陀仏のお力によって因果の道理が知らされます。それによって、自分が今受けている結果はかつて自分がやってきた種蒔きの結果であり、今、目の前で私を苦しめている相手こそかつての自分のすがたであったと知らされるのです。それが知らされると、今まで吹き上がってきた怒りは消え、「私もきっと同じことをしていたのだなぁ。その時は、自分の事しか考えていなかったけど、相手はきっと今の私と同じように怒りを起こし、苦しんでいたに違いない。こんなに苦しかったはずなのに、私の事を見捨てず助けてくれた。だからこそ、今の私がいるのだなぁ」そう思うと、何か自分も目の前の人のために頑張りたいし、大事にしてあげたい。自分も仏様から大事にしてもらったように、この人にも、自分は大事な存在である事を分かってもらいたい。今すぐには、私のこの気持は伝わらなかったとしても、時空を超えて必ずあの人にも届く日が来る。これが歓喜光の働きです。仏法を伝えていく苦労がそのまま御恩が知らされるご縁となり、それがまた、自分を奮い立たせる原動力となるのです。このように、私たちの怒りや苦しみを喜びへと転じ変えていく力が阿弥陀仏にあるので、阿弥陀仏の事をまた、大安慰と言われるのです
⑧智慧光
「無明の闇を破する故 智慧光仏と名けたり 一切諸仏三乗衆 共に嘆誉したまえり」
 なぜ阿弥陀仏の光明には、穢れを抜き去り、苦しみを喜びに変える力があるのか?それは、阿弥陀仏の光明には、真実の自分に暗い無明の闇を破り、本当の自分を明らかにしてくれるからです。私たちは、始まりのない初めから本当の自分を知らず、知らない事さえも気付かず、自分の中で作り上げた仮の自分を自分だと思って生きています。この仮の自分の事を仏教で我と言われ、私たちは、この我を肯定してくれるものに対して執着し、もっともっとと貪り求め、また、反対に我を否定してくるものに対しては苦しみを感じます。だから、阿弥陀仏は智慧光の働きによって真実の自分を知らせ、我に対するとらわれを破ってくれるのです。ところが、阿弥陀仏がどんなに本当の自分を知らせようとしても、私たちは無明に覆われ、本当の自分を知らず、我が本当の自分だと思っているので、いくら阿弥陀仏が「我は本当の自分ではない」と知らせようとしても、私たちは我の殻の中に閉じ籠り、真実を受け入れようとはしません。そんな私たちに阿弥陀仏だけでなく、大宇宙の諸仏も菩薩も縁覚も声聞も一団となって知らせようとして下されている事が、この智慧光なのです。
⑨不断光
「光明照らして絶えざれば 不断光仏と名けたり 聞光力の故なれば 心不断にて往生す」
光は影を生み出し、影を恐れる私たちは闇へと逃げる。私たちの心が闇に閉ざされているのは光を恐れているから。その闇に閉ざされた心を開き、真実という影を明らかにして下されるのが阿弥陀仏のお力。真実とは、私たちにとって都合の悪いもの。その中で最も認めたくない私たちの真実。それは我が身の死であり、私たちは死を否定しながら生きている。どんなに頭では一度は死んでいかなければならないと分かっていても、心ではその真実を受け入れることができず、いつも逃げている。誰だって死にたくない。でも、死にたくないと死から逃げている限り、自分の人生からも逃げているのだと思います。死を受け入れてこそ、人生は有限であると分かる。人生が有限であると分かってこそ、限られた命の中で何をするかが問題になる。死を受け入れてない人の人生は、無限に生きておれると思っているのと同じ。だから、どれだけ欲に流れて時間を食い潰していても、その欲の恐ろしさには全く気付かない。こうやって、私たちは自分の人生を振り返ることなく、欲に流され、無限に続くと思っていた人生がある日突然終わる。そして、今まで積み上げてきたものが幻であったと知らされ、自分が握りしめていたものが、砂をつかむように崩れ去っていく。これが、光を恐れ闇に逃げる人達の一生。阿弥陀仏は、そんな闇に逃げている人達に真実を知らせ、真実を受け入れさせようとしているのです。でも、真実が知らされれば知らされるほど、余計に真実を否定し闇に逃げていくのが私たちの本性。普通ならどんな人であっても、真実と向き合う事から逃げてしまい、闇の中へ隠れてしまいます。しかし、どんなに闇の中へ隠れたとしても、阿弥陀仏によって打ち込まれた真実の杭は、私の心に「必ず死がやってくるのだよ」とささやき、闇に隠れ続ける事はできない事を知らせてくれるのです。人間は必ず死ぬ。だからこそ、仏法を聞かなければならないのです。なぜなら、仏法の中に死の問題の解決が教えられているからです。この心の中に響くささやきによって、私達はどんなに真実から逃げていたとしても、また仏法を聞かなければならないと、仏法に向かっていくのです。これが不断光であり、この働きによって、真実と向き合う事から逃げているばかりいる私たちが聴聞を続けていけるのであり、それによって浄土に往生する事ができるのです。
⑩難思光
「仏光測量なき故に 難思光仏と名けたり 諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ」
 阿弥陀仏がどのように私たちを浄土まで導いて下されるのか、それを凡智しか持たない私たちが想像する事はとてもできない。それは、仏法を説かれる善知識であっても分からない事なのです。よく質問される事なのですが「分かっていたなら、どうしてもっと早く教えてくれなかったのですか?」と聞かれる事があります。それに対して私はいつも「それは阿弥陀仏のなされる事なので、私にも分かりません」と答えています。聞かれる人から見たら、私の口で語っている事なので、話している内容も私が頭で考えて話しているのだと思っていますが、実際はそうではなく、私はただ口を貸しているだけで、実際に考えて導いて下さっているのは阿弥陀仏なのです。だから、私自身、今日の話はどんな話になるか想像もつきませんし、私自身が自分の説法を聞いて導かれているように感じます。善知識とは不完全な存在です。その不完全な存在である善知識が私たちを導くのなら、本当に浄土に往生できるのだろうかと疑いも起きますが、実際に導いておられるのは阿弥陀仏なのですから、どんな人であっても必ず往生する事が出来るのです。勿論、それは聴聞を続けていく事によってですが…。
⑪無称光
「神光の離相を説かざれば 無称光仏と名けたり 因光成仏の光をば 諸仏の嘆ずる所なり」
「では、阿弥陀仏とはどのような仏様なのですか?」と聞かれる事があります。聞かれる人にとっては導いて下さる阿弥陀仏の事をもっとよく知ってハッキリ掴む事によって自分の心を安心させたいという気持ちなのでしょうが、私自身、阿弥陀仏とはどんな方かと聞かれても、ただ「それは光のような存在です」という事しか答えられません。これが神光の離相です。神光とは、阿弥陀仏の光明の事。それは離相、離相とは形にあらわす事が出来ない。つまり、どんな言葉をもってしてもあらわす事ができないものが阿弥陀仏の光明です。では、私が語っている説法とは何かと言いますと、阿弥陀仏の光明を光とするならば、説法とは、その光によって生み出される影です。光があるからこそ、私たちは世界をハッキリと見ることが出来ます。もし、この世が闇に閉ざされてしまったのなら、私たちは目の前にある物すら見ることが出来ず、ぶつかってしまうでしょう。同じように、私たちの心は愚痴の闇に閉ざされているために、自分自身を客観的に見ることが出来ず、自分の間違いに気付かないのです。その心の闇を破り私たちに真実を見せてくれる光こそ、阿弥陀仏そのものであり、説法とは、その光によって明らかになった真実を伝えているのです。阿弥陀仏が光なら、真実とはその光によって生み出される影。光は一つでも、その光によって生み出される影は千変万化。一人一人の性格が違うように、一人一人の真実も異なり、それによって説かれる説法も異なるのです。だから、すべての説法を生み出す元である光が阿弥陀仏であり、その阿弥陀仏を説明しようとどんな言葉を使ったとしても、ただそれは光であるとしか説明できないので、これを無称光と言われるのです。この阿弥陀仏の光は真実を明らかにして、迷いを破って自分の間違った考えを正してくれるので、段々と仏へと心が変化していきます。
では、どうしたら私たちは阿弥陀仏のお力を受けて真実を知らされる事が出来るのかと言いますと、私たちは無明の闇に覆われているために、直接阿弥陀仏の光を見ることが出来ませんが、“因光成仏の光をば 諸仏の嘆ずる所なり”と言われていますように、善知識の説法を聞く事によって阿弥陀仏の光を受け、真実を知っていく事が出来るのです。
⑫超日月光
「光明月日に勝過して 超日月光と名けたり 釈迦は嘆じてなお尽きず 無等等を帰命せよ」
無等等…並ぶものがないほどすぐれている仏という意味 ここで、日と月とは何をたとえられているのかと言いますと、智慧と慈悲のことです。薬師如来の脇士を日光菩薩と月光菩薩と言いますが、それぞれ、日光は智慧を、月光は慈悲をあらわしています。教行信証(真宗聖典p465r5)にも“日の正道を示すが如し、月の浄論を転ずるが如し”と言われているように、日の光は、闇を破り私たちに正しき道を明らかにしてくれるので、智慧をあらわし、また、月の光は、昼間の太陽の光や熱によって焼き付いた身体を優しく癒し熱を冷ましてくれるように、怒りや恨み呪いによってカラカラに乾き炎が吹き上がっている心を冷やし、潤いを与え、穢れを浄化してくれるので、慈悲をあらわしているのです。
そこで、超日月光とは、太陽の光、月の光を超える光ということで、この太陽の光とは智慧を、また、月の光とは慈悲を意味しているので、その智慧や慈悲を超える光とは、人間の智慧や慈悲を超えた仏の智慧や慈悲の事。それを阿弥陀仏は善知識に与えてくれるのです。この力によって、釈迦始め善知識方は、どんな人も導くことができるのです。阿弥陀仏はすべての人を浄土へ導きたいと思っておられますが、私たちは無明に覆われ、阿弥陀仏を見ることができません。だからこそ、私たちを救うために阿弥陀仏は善知識を派遣され、その人に仏の智慧と慈悲を与え、導けるようにしているのです。

以上が十二光です。この十二光とは、阿弥陀仏がすべての人を救ってあげたいと誓いを建てられ、その願いを果たすために生み出された力であり、その光が大宇宙を照らしているので、すべての人は救われることができるのです。

タイトルとURLをコピーしました