以上の根拠から、「南無阿弥陀仏」の「南無」とは、「帰命」のことである。この「帰命」の「帰」とは「至」という意味である。「至」とは、川の水が最後に海に流れ出る様に、流れに身を任せて最終的に目的地に到達することを意味している。ある所に向かって進んでいき、最終的に目的地まで到達すること。それを「至」と言われるのです。また、この「帰」には、それを心の明かりとして当て力にする、信じるという意味。また、弥陀を信じて、身を任せるという意味がある。
※ここで帰とは、どういう意味なのであろうか?帰とは、心から従うということ。それは、自分の心を支えてくれる力があるから、そして、その事を心から信じたために、自分の身を任せる事ができた状態を言います。しかも、弥陀の本願とは、必ず浄土へ生まれさせるという本願、その本願力を信じうちまかせたら、浄土へ浄土へと流され始めます。浄土へ流されるとは、心が浄らかになっていく、また、自分でないものに変わっていくということである。私たちにとって、自分でないものに変わっていく、それがたとえ、浄らかな仏という存在であっても、不安な事だと思います。そういう意味で、弥陀のお力を心から信じた人でなければ、弥陀に帰することはできないと思います。
次に、私たちを浄土へと導く力は、どのように私たちのところに届くのかと言えば、弥陀の呼び声という形で届き、善知識の説法という形で届きます。そして、それは、私たちの心を明らかにして下されることによって、自分の誤りを正してくれます。次に「命」とは、弥陀の浄土へ往生させる働き、それは、浄土から弥陀が私たちを招き、引き入れようとする働きです。では、その働きは、どのように私たちに働くのかと言えば、善知識が教えを説くことによって、浄土へ通じる道ができ、浄土へ浄土へと流れていく流れができあがる。その流れこそ、弥陀が浄土へと招き寄せる力であり、私たちの想像をこえた力であり、その力に身を任せることによって、浄土へと往く事が出来るのである。ですから「帰命」とは、弥陀の浄土へ往生させたいという本願を果たすために、弥陀が浄土へとまねき寄せようとするお力であり、そのお力を心から信じ、うちまかせたことをいうのです。次に「発願廻向」とは、弥陀が浄土に往生させたいという願いを起こし、私たちが浄土に往生するために必要な功徳を集められ、私たちに施すことによって浄土へ往生させようとする心である。
※ここで浄土へ往生するためには、何が必要か?それは善である。浄土には善を集め、心を浄らかにしなければ往く事はできない。だから、諸仏方は、浄土へ往生したいという者に対して、善をしなさいと勧められるのです。ところが、私たちは煩悩が強いために、善をしようとしても、煩悩のために心が崩れ、せっかく集めた善を失ってしまう。だから、そんな私たちを弥陀は、浄土に必要な善を与えることによって、浄土へ往生させようと誓われたのです。だから、私たちは、弥陀の集められた善を受け取る一つで浄土へ往生することができるのです。その善を受け取って、浄土へ浄土へと近付いていく身になったことを、帰命と言います。そこで、善を受け取ったらどうなるか?勿論、その善は自分のものになる。善を受けたら、穢れが少なくなる。心から浄らかになっていきます。
次に「即是其行」とは、すなわち選択本願である。選択本願とは、阿弥陀仏の十八願であり、そこには、至心信楽になった人が、浄土へ往生したいという願いを起こし、念仏を続けていったならば、必ず浄土へ往生させてみせる、と誓われている。つまり、弥陀の浄土へ往生させたいという願いこそ、その行であり、その行に心から南無する事によって、浄土へ往生することができるのです。
「必得往生」とは、浄土へ往生し、もう三悪道に戻ることのない不退転の位へと到達できる身となったことを言われています。つまり、浄土往生できる身ということです。これを「経」には「即得」と教えられ、「釈」には「必定」と言われています。ここで、即得の「即」とは、今まで弥陀の本願力をさえぎっていた無明の闇を破られ、弥陀の本願力を聞見し、邪見を正見へと変えていく事ができる身となった、時間の極まりを、即と言います。
※無明の闇が破られると、どうなるのか?無明の闇が破れると明るくなる。明るくなるとは、仏の光明に照らされて、間違いを間違いだと認められる様になる。間違いを間違いだと認められたら、その間違いを正し、正しい考え方へと変えていく事が出来る。どんなに、間違った考え方を抱えていたとしても、その間違いを正すことができれば、やがて正しい考え方へと変わり、仏になる事ができる。このような身になったことが初地。間違いを間違いだと認め、自己を反省し、正していける。それが無明の闇が破れたということ。
「必ず定まる」の「必ず」とは、審、つまびらかに定まるということ。つまびらかとは、細かい所までハッキリとあいまいな事がないこと。つまり、微塵の疑いもなく、浄土へ往生できると知らされることを言います。では、なぜそのように疑いなく信じられるのかと言えば、”然”、しからしむ。しからしむとは、そのようになっていく。自分の力ではなく、阿弥陀仏のお力によって、浄土へ往生していくから、自分の力なら、自分の気持ちが続かず、やめてしまえば、そこで止まってしまう。でも、阿弥陀仏の力によって、浄土へ往生していくなら、自分が止めようとしても止まらない、1日1日と浄土へ近付いてしまう。では、どのようにして浄土へ往生していくのかと言えば、”分極”わかちきわむる。ここでわかつとは、切り離すこと。私たちが迷いの世界へと戻ってしまう、その気持ちを断ち切り、もう穢土へと戻れなくすること。私たちは、どんなに浄土へ往生したいと思っても、我の力によって穢土へと自然に戻ってしまう。その目に見えない力を、阿弥陀仏は断ち切って下される、それが分極。この弥陀のお力によって、私たちは浄土へ往生しようという気持ちが起こる。もう戻ることができないから、進むしかない、それが金剛心。それが私の身に起きたことを、必定というのです。