曇鸞大師の書かれた浄土論註の中に、次のように教えられています。
龍樹菩薩の書かれた「十住毘婆沙論」に、菩薩が初地のさとりを求める方法に2つあります。1つは難行道、もう一つは易行道と言われるものです。初めの難行道とは、穢れた五濁という環境や、導く善知識がおられない時に、初地を求める事が難しいということです。なぜ、初地を求めるのが難しいのか?その理由はたくさんあるが、今はそのうちのいくつかを取り出して、その意味を明らかにしたいと思います。
・1つは、仏教の心を正しく理解していない外道の者が、お経の言葉にとらわれて、形だけそっくりな善をするので、聞いている者は「何が本当の善か、何が間違った善か」が分からず、菩薩の説く正しい教えを分からなくさせてしまう。
・2つ目は、浄土を求めている人が、善知識に教えて頂かないで、自分で教えを理解しさとりを開こうと求めると、どんどんと自分にとって都合よく教えを理解し、自分は正しいと思う我の殻に閉じ籠って、「苦しんでいる人を救う」という利他の活動に対して消極的になる。
・3、善知識から教えを聞き自己を反省するという事がないので、「自分は間違っていない」という心の殻に閉じ籠り、反省できない悪人は、その罪のために、たとえ他に素晴らしい徳があったとしても、自らその徳をぶち壊し、苦しむ事になる。
・4つ目は、迷った人たちが求めている幸せとは、目先の欲を満たすような楽しみしか知らないので、煩悩から離れた心の静けさが本当の幸せであることも分からず、そこに至る種蒔きを求める気持ちにもならない。
・5つには、ただ自分の力で頑張るばかりで、善知識を求めて、教えを聞かせて頂く気持ちがない。
この様な事は、善知識の教えを信じていない者に、共通している事ではないかと思います。だから、いくら頑張っても報われないので、このような「難行道」は陸地を自分の足で歩いているように、苦労して前へ進んでいるはずなのになかなか前へと進まず苦しまなければならない。それに対して「易行道」とは、ただ善知識の教えを信じ、その教えに従っていく事によって、浄土へ往生したいという願いが起きたならば、阿弥陀仏の本願力によって、弥陀の浄らかな浄土へと往生することができる。その人は、阿弥陀仏のお力によって常に真実の姿が知らされ、また、説法を通して智慧を頂く事が出来るので、自利利他を実践し、必ず仏のさとりを開く所まで求めることが出来る正定聚の身となる。ここで、正定とは、初地のさとりを開いた人のことである。初地のさとりを開いた人は、我執を離れ、仏の徳を身に付けていけるので、正定と言われるのです。それはたとえるなら、船に乗って流されて進んでいるように、浄土へと間違いなく進んでいけるので、楽しい日々となるのである。この大無量寿経を解釈された浄土論は
※優婆提舎…教説、問答あるいは論説の意味であり、十二部経の1つとして、仏陀あるいは弟子たちが教えについて論議し、問答によって、理を明らかにしたものを指す。また、経の内容を哲学的に論究した論書を言う。たとえば世親の浄土論は「無量寿経優婆提舎」と呼ばれ、無量寿経の内容を註解している。
自分の考えで推量すると、浄土へ到達できる素晴らしい乗り物であり、風の力で進む船に乗って、浄土へと戻ることなく進んでいくようなものである。「無量寿」というのは、安楽浄土におられる仏の別の名前です。お釈迦様が王舎城や舎衛国におられる時に、そこにおられる人たちに対して、無量寿仏の持っておられるお徳を説かれた。即ち、その仏の名前には、その仏の持っておられる、お徳が教えられており、その仏の説かれる教えには、私たちにそのお徳を身に付けさせる働きを持っている。
※つまり、お釈迦様が無量寿仏の身を飾るお徳を、説法という形で説かれたということは、無量寿仏のお徳は、この無量寿仏の事が分かるお釈迦様でなければ、無量寿仏の教えを説くこともできないし、聞いている私たちも、その徳を身に付ける事が出来ない。名号とは、仏のお名前の事で、その仏の持つお徳をあらわす。名号を称えるとは、そのお徳を身につけるための説法を説くことを言う。阿弥陀仏を見る事が出来なければ、名号を称える事はできない。この阿弥陀仏を見る事が出来るのが初地である。仏の名号をもって、経の体とは、仏の事を知る智慧を持たれた方が、仏のお徳を説法という形で説かれたものが、お経であるとういことです。
後にあらわれた天親菩薩は、阿弥陀如来の持たれる大悲を身体で知らされ、その体験を経に従って、あらわされたのが願生偈です。
※大悲の教とは、私たちの心に大悲の心を起こす教え、それは、他力なので、阿弥陀仏の方から、私に働きかけて大悲の心にしていく。その体験を経に従って言葉にしたのが願生偈です。つまり、願生偈には、他力の働きが教えられている。
その教えの通りに進んでいる人は、浄土に往生できる人なのである。
※服膺…心に留めて忘れない事
また、阿弥陀仏の願いの力は決して軽くない。なぜなら、もし阿弥陀仏が他力を加えて、私たちを導かなければ、どうして浄土に往生することができようか。だから、私もそのお力を加えて頂きたいと願うのです。この故に弥陀のお力を求めて書かせて頂きます。「我一心」とは、天親菩薩が自ら、その一心に心から従い連れられ、一心に合わない所は、自分の心を誤りとして正していく。そういう意味です。では、一心とはどういう意味かと言いますと、無碍光如来を心に念じ、浄土へと生まれようと願わせる心です。一心と私の心がつながり続け、決して他の心に従うことはない。
※一心とは、私の心に働きかけ一心に染めていく心です。一心とは、常に正しいものは何かを働きかけ、自分の心を返してくれるもの。まるで、自分の隣に仏様がおられるように、自分の心を優しく導き、私に真実を見せ、智慧を与え、生死を離れさせて下さる。それが一心です。
次に「帰命尽十方無碍光如来」と言うのは、最初の「帰命」というのは、五念門の中の礼拝門の事です。後の「尽十方無碍光如来」とは、讃嘆門のことです。なぜそうなるかと言えば、「帰命とは礼拝であるからです」。それは、龍樹菩薩が阿弥陀如来をほめたたえる言葉の中に「頭を地につける程、心から敬い、礼拝する」と言われ、
稽首…頭を地につける挨拶、中国における最高の敬意を表す敬礼法で、古くから行われた。
他のところでは「私は帰命しました」と言い、また別のところでは「帰命し、礼拝した」と言われている。この浄土論の長行の中に、「五念門を修める」と言われている。この五念門の教えでは、礼拝は一番初めである。天親菩薩は既に往生を願う身になった。これは他力に従うことによって、なったものだから、どうして礼拝していないことがあろうか。だから、「帰命とは礼拝である」
帰命…サンスクリットの語源では「屈する」「心を傾ける」の意。己の身命を投げ出して仏に帰依すること、または仏の教命に帰順すること。
それに対して、礼拝は、ただうやうやしく敬うことであって、必ずしも帰命ではない。帰命には必ず礼拝の意味がある。このことから考えると、帰命は礼拝よりも重い言葉である。願生偈は、天親菩薩がご自身の心を帰命という言葉を使って言われた。この帰命という言葉には、弥陀の御心を善知識が教え、という形で伝えられ、浄土へ往生するための道をつくられている。その教えを信じ、弥陀のお力に身を任せ、浄土へ連れて行ってもらうという意味がある。
※帰命の細註
使…使者⇒善知識
教…教え
道…浄土への道
信…信心
計…弥陀の浄土へ往生させようとする計らい
召…弥陀が浄土へ連れて行こうとすること
浄土論には願生偈の言葉の意味が教えられている。そこに礼拝について、すみずみまで書かれています。その浄土論に書かれている内容を通して、願生偈の内容が明らかになるのです。
※浄土論…いかんが礼拝する。身業をもって、阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつる。かの国に生ずる意をなすが故なり。
→どのように礼拝するのかと言えば、身体で供養にふさわしいお徳をもたれた、ありのままに、あらゆるものを見る事の出来る阿弥陀如来に対し、心から頭を下げ礼拝させて頂きます。それは、阿弥陀仏のお力によって、説法を通して供養にふさわしい徳が身に付き、また、あらゆるものを都合を入れず、正しく見ることができるので、愚痴の心を破り、煩悩から離れさせ、それによって、浄らかな世界へ生まれる事ができると思えるのである。
では、どのようにして、阿弥陀仏の智慧を知り、心から礼拝することができるのかと言えば、「尽十方無碍光如来は、讃嘆門である」つまり、讃嘆門の教えを通して、阿弥陀仏の智慧を知る事ができるのである。
※阿弥陀仏を知るとは、阿弥陀仏のお徳を頂き、自分も徳が身についていく事。そして、阿弥陀仏のお力によって、世界のありのままの姿を照らし教えて頂き、自分の見ている世界が如何に偏見に満ちた歪んだ世界であるか知らされて正されていくこと。このことによって浄土へ往生することができる。では、どうしたら客観的に物事を見ることができるか?また、浄土へ往生するための徳を身に付けていくことができるのか?それが大事な問題となります。そのことについて、ここでは、それは讃嘆門の教えによって身につけることが出来るのだと教えられています。では、讃嘆門とは何か?
後の長行の中に次のように教えられています。どのように讃嘆するのかと言えば、彼の如来の名をほめたたえることによって、彼の如来の持っておられる智慧の光明のように、自分も同じように智慧を身につけ、阿弥陀仏と同じ智慧を身に付けたいと思うからである。ここで、どのように阿弥陀仏の智慧と一致させていくのかと言えば、阿弥陀仏のお力によって真理が知らされ、それが正しいと心から信じる事ができ、そして、真理に対して自分の心を正し、等しくなろうとする。それは、たとえるなら、天秤のようなものである。天秤は物の重さを量る時に、分銅の重さを替えて、等しくなるように調整していく。同じように何が正しい事か知るために、弥陀は真理を教えてくれるが、それは正確に一度に教えてくれる訳ではなく、間違いを少しずつ正していくことによって、真理と一致させていくのである。このように真理と一致していくように、自分の心を正していくことを、天親菩薩はここで「尽十方無碍光如来」と言われているのである。すなわち、無礙光如来の名前の通り、説法を通して、煩悩を貫き、私たちに真実を照らし、知らせてくれるのである。この故に知らされる事は、「この尽十方無碍光如来というお言葉は説法を通して、真実を照らし、知らせてくれることを意味しているのである」次に「願生安楽国」とは、この言葉は作願門である。天親菩薩が浄土論の始めに、帰命尽十方無碍光如来と言われているが、この帰命の内容について教えられたものである。つまり、無礙光如来の命に帰するとは、無礙光如来の浄土に往生させたいという願いに従うということであり、その無礙光如来の願いによって、浄土に往生したいという願いのない私たちに往生したいという願いが起きるのである。
そこで、一つ疑問があります。「大乗経典を解釈されたものの中に、所々「衆生とは、肉体があって生まれる事や死ぬことがある様に見えるが、その心は生死に関係なく続いていくものであり、しかも、固定不変の我がある訳でもない。」と説かれている。もし、そうだとしたら、天親菩薩は「願生」と言われたのでしょうか?」
それについてお答えします。この生まれるという意味について2つの意味があります。1つは、凡夫が思っているような、肉体の生死の事を指します。私たちは生まれるとか死ぬとか言うと、肉体の生死のことしか考えられませんが、それは亀の背中に毛が生えているように見えるのと同じで、実際は毛は無いのに毛が生えているように見える亀と同じで、私たちの生死とは、本当は肉体のことではないのに、肉体の生死にとらわれ、死ぬとか生まれるとかは、肉体のことしか考えられない事を言います。もう一つの生まれるという意味は、因縁によって生じる、ということを生まれると言います。すべてのものは因縁によって生じます。だから、肉体が死ぬと言っても、それは、和合していた因縁が離れただけである。同じように、人間の死も、それは肉体の死であって、そこに宿る命は、肉体が亡んでも、続いていく。ここで天親菩薩が浄土論の始めに言われている、生まれるという意味は、肉体のことではなく、肉体に宿る命の事を言われたものです。肉体は死ねばなくなりますが、肉体に宿る命は、肉体が死んでも、因縁が変わらなければ変わりません。だから、天親菩薩が浄土へと生まれたいと言われているのは、「肉体が浄土へ生まれたい」という意味ではなく、「肉体に宿る命が煩悩に穢れた心を離れて、浄らかな心になりたい」ということなのです。でも、心が生まれ変わりたいと言われても分からないので、ここで仮に生まれるという言葉を使われているのです。
では、お尋ねします。「先程、浄土へ生まれるとは肉体のことではなく、肉体に宿る命の事であることは分かりました。では浄土に往生するとはどういう事を言われているのでしょうか?」
それについてお答えします。浄土へ往生するために五念門を実践している人にとって、前念は後念へと移るための因になります。穢土にいる人が浄土へ生まれると、生まれる前と比べて同じとは言えないし、違っているとも言えません。これは心においても同じことが言えますが、もし、同じとするならば、因果の道理に合いません。穢土の人は煩悩によって心を穢し、苦しみの世界へと堕ちていきますが、浄土の人は智慧によって、心を浄らかにし、苦しみのない穏やかな世界にいます。だから、穢土の人と浄土の人は同じではありません。では、全く違うものかと言えば、穢土の人が五念門を実践することによって浄土へ往生したので、浄土の人も元は穢土の人であったという点では、全く違うものとも言えません。これは、穢土の人が浄土へ往生するとはどういうことかをあらわしたものです。それは、たとえ肉体は同じであっても、その心が浄土へ往生したならば、その人は肉体は穢土にありながら、穢土の人ではなく浄土の人となります。そして、全く違うのかと言えばそうではなく、浄土へ往生すると言っても、それは段々と穢土を離れ、浄土へ往生していくので、何か一念で全く違うものや心になってしまうわけではないのです。このことは「中観論」に詳しく説かれています。これで、浄土論の始めの一行の意味を通して、五念門の初めの3つ礼拝門・讃嘆門・作願門について説明させて頂きました。次に、浄土論の「我依修多羅・真実功徳相説願偈総持与仏教相応」について説明させて頂きます。ここで、最初に”私は一切経をより所にする”と書かれていますが、これは何をより所にして何を得るために、どのようにすることを言われているのかと言えば、まず「何をより所にするのか」と言えば、それは、一切経をより所にします。次に「何のためにする」のかと言えば、阿弥陀仏を礼拝し心に思い描く事によって、真実の功徳を知り、真実の功徳と合わない自分の心を正す事によって、真実の徳を身につけ、仏になるためである。
※仏になるためには、どうしたらいいのか?多くの人の浄土真宗の門徒は、阿弥陀仏を信じて、阿弥陀仏にお任せしたら、あとは勝手に死んだら浄土へと連れて行ってくれると思っている。確かに都合の良い教えだが、実際はそうではないのだなと思います。阿弥陀仏はあくまでも、私たちに真実を教えてくれる方なのです。私たちは、自分の見ている唯識の世界こそ真実だと思って生きています。しかし、実際は自分が「相手はきっとこのように思っているに違いない」と思ったからと言って、本当にそう思っているとは限りませんし、相手は全く違う事を思っているのかもしれません。でも、私たちは一度「相手はこの様に思っているに違いない」と思ってしまったら、もうそれ以外の可能性を考える事はできません。真実を知らないからです。だから、自分の見ている唯識の世界こそ真実だと思って、それを基準として行動してしまうのです。阿弥陀仏はそんな私たちに真実を知らせることによって、自分の見ている世界は自分の思い込みの世界であったと知らせ、間違いを少しずつ正していくのです。すべての苦しみは、自分にとって都合の良いように捻じ曲げられた唯識の世界を真実だと思い込み、それを物差しとして行動してしまう所から始まります。だから、どんなに頑張っても、自分の判断が間違っているので、苦しみから離れられず、余計に苦しまなければならないのです。だから、阿弥陀仏は間違った見方を、正しい見方へと正す事によって、苦しみから離れさせようと思われたのです。間違った見方は、間違った行いを生み出し、それによって苦しみます。間違った見方を正し、正しい見方へと変われば、行いが変わります。たとえば、今まで喜んで毒を食べていた人がいて、その人が自分が食べていたものが毒だと分かったならば、その毒を食べるでしょうか?どんなに「毒消しの薬があるから、この毒を飲みなさい」と言われても、飲む気にはならないものです。同じように、私たちは煩悩によって心を穢し、苦しんでいます。心を穢すとは、自分の心を傷付けるということです。心を傷付けたら、心が苦しみます。苦しいから人を恨むのです。そして、苦しみを誤魔化すために欲を起こすのです。欲を満たすのは確かに強烈な快感ですが、その喜びの大きさは、そのまま、苦しみの深さに比例します。心が苦しいからこそ、その苦しみを誤魔化せる欲が楽しみなのであって、欲を求める人は、それだけ大きな苦しみを抱えている人でもあるのです。一度、このことに気づいてしまった人は、もう欲を起こしたいとは思えなくなるし、自分の心を傷付けることもなくなっていきます。真実が知らされたならば、必ず行動が変わります。行動が変わらないのは、真実をまだ知らないからです。自分の心を傷付けても、そこには苦しみしかありません。この心の傷に気づかせて頂くのが、阿弥陀仏のお力なのです。
どのようにして、真実の功徳を知るのかと言えば、五念門を実践することによって、真実の功徳を知り、身につけることができるのである。一般的に「一切経」とは、八万四千の膨大な教えがある中で、お釈迦様が直に説かれたものを指します。つまり、「四阿含」「三蔵」などを言います。また、それ以外のお経では、お釈迦様のみ心が正しく明らかにされた大乗経典も、また、この一切経の中に入ります。ここで、天親菩薩が一切経と言われているのは、阿含経等のお釈迦様が直に説かれた教えではなく、大乗経典の教えである。次に「真実功徳相」と言うのは、功徳と言っても、二種類あります。
一つは、欲を満たしたいとか、苦しみから逃げ出したいとか、欲望や迷いの心が発端となってする功徳で、それは真理に従ってなされたものではない。私たちのする善には、必ずそのような醜い煩悩が混じるので、その善によって得られる結果も幸せになるどころか、ますます自分を苦しめていくのである。また、人から否定されないための、心のない行いとなってしまうのです。だから、このような善を、真実ではない功徳と言われるのです。
二つ目は、菩薩が苦しんでいる人を救うために説法することにより、阿弥陀仏から正しき智慧を頂き、それによって煩悩の混じらない穢れなき心で善をしたいという心が起きる。これは、阿弥陀仏のお力によって起こされた善なので、それを実践していくことによって、心の穢れが取れていく。この法は実践する事によって、苦しみを生み出すことはなく、中身のない表面的な形だけの善になってしまうこともない。だから、真実の功徳というのです。
※後生の一大事という、恐怖から逃れるために善をする。そういう人が世の中にあるが、これこそ、まさに煩悩によって起こした不純な善である。仏教では、純粋な心で善をしなさいと説かれる。それは、それを実践していく事によって苦しみが取り除かれ、心が楽になっていくから。仏教でなぜ善を勧められるのか?それは、善をすることが幸せだからである。本当の善は心に喜びがある。そして、善をすることによって、自分だけでなく、他人も幸せになっていくものである。だから、恐怖から逃げるための善は自分も苦しいし、それを見た相手も決して喜べない。人が喜んでやっているものは、自分もやってみたくなる。また、欲を起こしてやった善は、自分の我を通すために相手をだましたり、傷付けたりする。そういう不純な心から離れられないものが、人間なのかもしれない。だから、自分は善いことをやっているつもりで、知らず知らずのうちに周りの人を傷付けているのかもしれない。
どうして、善をしているつもりで悪をやって苦しむことがないのかと言えば、阿弥陀仏のお力によって智慧を頂き、真実を正しく知り、そして、どの様に実践していったらいいか、知る事が出来るからである。
※顛倒とは、さかさまということ、苦しみたくないと思いながら、苦しみへと進んでしまったり、幸せを求めながら、苦しんだりすること。それは、智慧がないために、目の前の損得にとらわれてしまうから。阿弥陀仏は智慧を与えて下されることによって、私達を顛倒から離れさせて下されるのです。
どうして、形ばかりで中身がないことにならないのかと言えば、菩薩が阿弥陀仏のお力によって説く説法には、人々の心を浄らかにしていく力があるからである。
次に「説願偈総持与仏教相応」とは、まず、漢字の意味から説明しますと、「持」とは、上手くまとめられていて大事なところが失われる事なく、「総」とは、多くの意味を少ない言葉であらわされているということ。「願」とは、浄土へ往生することを願い求めること。次に「与仏教相応」とは、箱の蓋と身がぴったりと、一致するようなものである。つまり、浄土論の初めの願生偈には、仏の説かれた教えの通りに自分もなることによって、浄土へ往生しようとする願いが、短い言葉で余す所なく、説かれています。では、どのようにして、浄土まで連れて行って下されるのかと言えば、「自分の力では、どうしても助ける事ができないような罪深い人を助けるために、弥陀はそんな人をお目当てにして、助けるために本願を建てられたのだ。」だから、悪しか出来ない者であっても、弥陀の浄土へ往生することができるのです。この弥陀のお力によって、私たちは浄土へ往生できるのであり、また、浄土からこの穢土へ戻って、苦しんでいる人を助ける事ができるのです。そこで、弥陀はどのようにして、私達を浄土へ連れていって下されるのかと言えば、ご自身の持っておられる功徳をすべての人に分け与えて、弥陀の功徳を受け取ることによって、心の穢れが取れ、浄らかな世界へ連れて行って下されるのです。