教行信証解説【12】正信偈-最後まで

教行信証 解説

12.正信偈-最後まで

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入

道綽禅師は導く善知識がいない環境で、何百年、修行に励んでも智慧がないために悟りを開くことは出来ないことをはっきりと示され、善知識の教えを通して進む以外、道はないことを明らかにされた。

万善自力貶勤修 円満徳号勧専称

どれだけ自分の考で教えを理解して実践したとしても、導く知識がおられなければ、何も悟ることは出来ません。ただ善知識の教えを聞き求めてゆくことだけが、私たちが救われる道なのです。

・自力とは?
自力とは、自分の考えで教えを理解して実践することを言います。仏教の教えは深く、普通の人が教えを読んで理解しても、その心は分かりません。それを自惚れて「自分には理解できる」と思って、教えを勝手に解釈し、実践することを自力と言います。もちろん、教えを理解していないので、どれだけ実践しても何も悟ることが出来ず、ただ苦しむだけになってしまいます

・円満とは?
これは、自利利他円満という意味です。自利とは、自らが教えを実践し、悟りを開き、穢れから離れてゆくことです。次に利他とは、他人に対して教えを説き、教えを理解させて、その教えを実践させて悟りを開かせることを言います。この二つが出来て、初めて仏の悟りを開くことが出来ます。阿弥陀仏のお力には、教えを説かせるという力があり、その力によって、人々に教えを説くことが出来るので、説いているものは、善知識となって、自らが仏の悟りを開くことが出来るのです

三不三信誨慇懃

曇鸞大師が教えられた三不三信の教えをより懇ろに教えられた。

・三不三信の教えとは?
教行信証には次のように教えられています。

(真宗聖典p323r2)
また三種の不相応あり。一つには信心淳(淳の字、音純なり、また厚朴なり。朴の字、音卜なり。薬の名なり。諄の字、至なり。誠懇の貌なり。上の字に同じ)からず、存せるがごとし、亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに。この三句展転してあひ成ず。信心淳からざるをもつてのゆゑに決定なし、決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆゑに心淳からざるべし。これと相違せるを〈如実修行相応〉と名づく。

 また、阿弥陀仏からまだ信心を頂いていない人の心には、次の三つの特徴があります。
一つ目は、その人の仏法を求める気持ちは、苦しみを取り除く為に純粋に真理を求める気持ちではなく、他人から認めてもらいたいとか、生活の為とか、不純な心が入り雑じっています。だから、自分の都合によって、やる気になったり、気持ちが無くなったり、仏法に対する姿勢が一定ではありません。
二つ目は、「仏法を求める為に人生をかける」と心が定まることがありません。なぜなら、まだ、自分自身が最期には死んでゆかなければならないということを認められず、「人生にはもっと色々な生き方があるのではないか」「楽しみを求める生き方こそ幸せなのではないか」と思っているからです。
三つ目は、仏法に対する気持ちが続きません。苦しくなるとすぐに「楽な道はないか」と他のことを考えます。また、反対に少し心に余裕ができるとすぐに欲が逆巻き、欲を満たすことに時間を費やしてしまいます。
この三つの心は独立したものではありません。現実を正しく受け止め、「人生とは何をしても苦しみしかない。その苦しみを解決しない限り、何をしても、何を求めても、どんな経験をしても、単に苦しみを誤魔化しているだけである」ということが、体験を通して知らされていません。そのため、仏教に人生をかけようと心が定まることがありません。心が定まっていないから、都合が悪くなるとすぐにやめてしまうし、他に楽しいことがあると心を奪われ、仏教を後回しにしてしまうのです。これが信心決定していない人の心です。阿弥陀仏によって真実が知らされていない為に、このような心になるのです。

・信心とは、何だろう?
それは、現実を見たくないという煩悩を破って、阿弥陀仏が現実を見せつけることによって、私たちの心に生まれる心だと思います。私たちは、頭では誰だって、いつか死んでゆかなければならないことぐらい知っています。でも、心ではその事実を誰も認めていません。なぜ、こんなにも明らかなことを認められないのでしょうか?それは、余りにも恐ろしいことであり、心がその事実を受け止めることが出来ないからです。だから、私たちはまるで永遠に自分が生きられるかのように思って、毎日を過ごしています。いつか使うと思って物を捨てられないのも、自分が死ぬと思っていないからです。欲を満たすことが幸せだと思うのも、永遠に生きられると思っているからなのです。客観的に見たら、私たちの生き方はおかしいのに、そのおかしさに誰も気づくことなく、当たり前のように生きています。仏教を聞いて、教えを実践してゆくと、段々とそのおかしさが知らされてゆきます。「自分は永遠に生きられる訳ではないのに、まるで永遠に生きられるかのように時間を使っている。これではいけないのではないか?」そんな底知れぬ不安を仏法は与えてくれるのだと思います。
それにしても、私たちはなぜ仏法が聞けるのでしょうか?本来、私たちには仏法を聞くような心はありません。現実から目を逸らし、欲を満たすことしか考えていません。そんな私たちが仏法を聞くことなんて本当はあり得ないことだと思います。それでも仏法を求める人がいるのは、その人に何らかの力が働いているからなのだと感じます。その力は、いつもその人の心の中で煩悩と戦い続けているのだなと思うのです。仏法を伝える人は、その人の仏縁を信じて、ただ伝えてゆくのみ、それが使命なんだと感じています。

像末法滅同悲引 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

この阿弥陀仏の本願は、お釈迦様が亡くなった後でも、善知識が現れ、真実の教えを説き続けて下さるので、どんな罪深いものでも、善知識にお会いすることができたならば、その教えを聞かせて頂くことによって、浄土に往生し、仏の悟りを開くことができるのである。

善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁 開入本願大智海

善導大師ただ独り仏様の正しい御心に明らかでした。それは、善ができるものも悪しか出来ないものも関係なく、善知識から教えを聞かせて頂き、阿弥陀仏の光明によって心を支えてもらったならば、現実をありのままに受け入れることができる、そんな阿弥陀仏の本願によって生み出された智慧の海へと心の殻を破り、入ることができるのである。

光明名号の因縁とは何か?
教行信証には次のように教えられています。

(真宗聖典p305l4)
まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。
 親鸞はっきりと知らされました。もし、私の為に仏法を説いて下さる善知識がおられなかったら、私たちが浄土へと往生してゆく流れが生み出されることもありませんでした。また、私の心を支えてくれる阿弥陀仏の光明の働きがなかったら、どんなに善知識が教えを説いておられても、求め続けることは出来ませんでした。たとえ、会い難い善知識にお会いして、阿弥陀仏の光明によって心を支えて頂いたとしても、煩悩を破って信心が私の心に生まれなかったら、不安のない心の明るい境地に出ることは出来なかったでしょう。私たちが、煩悩から離れて浄土に往生する為には、善知識から教えを聞かせて頂き、現実と向き合い、それを通して知らされる真実の自分と向き合わなければなりません。ところが、どんなに善知識が教えを説いておられても、私たちが、我が強く、理想の自分にとらわれていたら、現実と向き合うことから逃げてしまいます。だからこそ、私たちが浄土まで求めてゆく為には、善知識の説かれる教えを信じる心が必要なのです。これが信心です。信心があってこそ、私たちは善知識の教えを信じて、現実と向き合うことができるのです。そして、その現実を通して、私に真実の自分を見せてくれるのが、阿弥陀仏の光明の力なのです。阿弥陀仏の光明は、すべての人に降り注いでいるので、現実と向き合えば、誰しも真実の自分が知らされてゆきます。しかし、理想の自分にすがりついている私たちは、どうしても真実の自分を見たくないので、現実から目をそらし、欲を満たすことばかりに心が奪われているのです。だから、こんな私を導いてくれる善知識が必要であり、その教えを聞いてゆく為には信心が必要なのです。
行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽

阿弥陀仏から頂く信心の働き支えられて、煩悩が逆巻く二河白道を進んでゆく者だけが、まさに、浄土に往生し、今にも崩れそうだった決意が絶対に崩れることのない金剛心へと変わるのです。これが、一念の体験です。今まで先の見えない霧の中で進んでいた不安が一気に晴れ、真実を受け入れ、進むべき道がはっきりするのです。その真実とは、自分は死んでゆかなければならないという真実です。今までは頭では死んでゆかなければならないと分かってはいても、本当に自分が死んでゆくとは思えませんでした。どこかで、「自分だけは死なずに済むのではないか」と一部の希望を抱えていました。そんな儚い夢が幻であったと知らされ、自分もやがて死んでゆかなければならないという真実。その真実を受け入れることによって、私は間違っていないとはねつけていた現実をありのままに受け入れることができ、我に縛られることなく、自分を変えることができるようになります。それは、もちろん目には見えないけれど私の心を根底から支えてくれる阿弥陀仏の大慈悲があるからであり、そのお力は不安で満ち溢れていた私の心を満たしてくれます。だから、今まで自分のことしか考えられなかった心が周りの人を考えることのできる優しい心へと変わるのです。それはとても嬉しいことです。この一念から、煩悩に縛られていた人間を捨て、菩薩として生まれ変わるのです。それは、やがて仏法の究極の悟りである無生法忍の悟りを開かせる素晴らしい体験なのです。無生法忍とは、この世界に働いている法性の働きに自分をうちまかせ、ちっぽけな自分に対する執着を捨て、大きな流れの中に自分を浸してゆく。だから、目の前で起きる様々な変化にとらわれることなく、心は常に穏やかで生きてゆくことができるし、穏やかに死を迎えてゆくことができるのです。

・慶喜とは?
慶喜は、慶もよろこぶという意味であり、喜もよろこぶという意味です。ですから、慶喜とは、身も心も飛び上がるほどよろこぶことを言います。では、何をよろこぶのでしょうか?何がそんなに嬉しいのでしょうか?それは、今まで自分の心の中に渦巻いていたどうしようもない心。私のことを見て欲しい、私のことを大事にして欲しい、愛して欲しいというどうしようもない衝動。親鸞聖人が「愛欲の広海に沈没し」と言われていた感情。人間とは、満たし切れない愛欲の心を満たそうとして、果てしなく苦しむ存在なのかも知れません。そのどうしようもない感情を満たしてくれるのが阿弥陀仏のお力であり、この心の苦しみを取り除いてくれた喜び、それがこの慶喜です。

・相応とは?
相応とは、蓋と身が一致するように教えの通りの心になることです。その心とは、三信です。三信とは、淳心、一心、相続心です。
淳心とは、純粋な心です。仏法を求めること以外この世に幸せはなく、何を求めても、何を手に入れても、本当に自分の心を喜ばせるものは何一つないことが知らされて、純粋に自分の心の苦しみを取り除く為に仏法を求める心。それが淳心です。
次の一心とは、自分の人生は仏法しかないと心が定まったことを言います。
最後の相続心とは、現実の自分と向き合う苦しみに耐えて仏法を求め続けることができる心を言います。
つまり、三信とは、今まで何の為に仏法を求めているのか、本当の意味で分かっていなかった人が、真実を知らされ、現実の自分と向き合うことが今の自分にとって最も大事なことだと受け入れ、どんな苦しみがやってきたとしても、現実と向き合うことから逃げなくなったことを言います。私は思うのですが、誰しも自分が死ぬとは思いたくありません。また、頭ではどんなに分かっていたとしても、それを心で認めることはとても出来ません。それが人間だと思います。だから、現実と向き合うと、自分が死ぬことが知らされるので、無意識のうちに、自分の心を誤魔化して考えなくさせてしまうのです。そんなものが、純粋に仏法に向かうことなど、とても恐ろしくて耐えられません。たとえ一時的に考えることができたとしても続きません。もちろん、仏法一つに心が定まることなどあり得ないことだと思います。そんな人間がもし、純粋に仏法に向かうことができたとしたら、それは、もう人間の限界を越えているとしか考えられません。その人には、何か別の力が働いている、それが阿弥陀仏の力であり、他力の信心がその人に生まれているからなのです。

・三忍とは?
善導大師は、観無量寿経の中で韋提希夫人が無生法忍を悟ったことを喜、悟、信の三忍を得たと教えられています。この三忍を説明する前に、無生法忍を悟るまでの三つの段階であるもう一つの三忍について説明させて頂きます。こちらの三忍は、無生法忍を悟るまでの三つの悟りを言います。
初めの悟りは、音響忍です。これは、私の心に真実を知らせる声なき声が聞こえる悟りを言います。欲に心が流れていても、どこからともなく声なき声が聞こえて、私の心に”そうやって欲に流れている間に人生が終わってしまうよ”と真実を知らせてくれます。また、怒りに我を忘れている時も、声なき声が聞こえて、私の心に”そうやって怒ると大事なものを失うよ”と諭してくれます。声なき声が聞こえるようになると、欲に流れてしまうこともできず、怒りで我を忘れることもできず、煩悩によって求道を踏み外すということができなくなります。だから、間違いなく浄土に往生できると安心できるようになります。
二番目は、柔順忍です。柔順忍とは、自分の心を覆っていた「自分は間違っていない」という我が崩れ、現実に対して柔軟に対応できるようになることです。この心になると、都合の悪い現実がやってきたとしても、それを反発することなく、仕方ないと受け入れることができるようになってきます。なぜなら、自分が必ず死んでゆかなければならないという事実を認められるようになってゆくからです。私たちは様々なものに対して執着の心が起きます。そして、執着の心によって、物事を思い通りにしようします。でも、そうやって執着の心が起きるのは、その大前提に「自分が執着したものは永遠に自分のものになった」と思う心があります。もし、いつか別れていかなければならないとしたら、それが分かっていて執着することはできません。なぜならば、強く執着すればするほど、別れてゆく時の苦しみは大きいからです。いつか苦しまなければならない。それが分かっていて、別れるまで執着しようと思う人はいません。だから、みんな「別れることなんてない」と思って執着しているのです。しかし、死がやってくると、すべてのものと別れてゆきます。どんな人でも、最後には死んでゆかなければなりません。これ以上に当たり前のことはありませんし、それと同時にこれ以上、分かっていないこともありません。死は、それほど私たちにとって耐え難い恐怖なのです。たとえ、一時的に考えることは出来ても、すぐに誤魔化そう心が動きます。「今は、そんなことを考えるよりも、もっと大事なことがある」と、他のことに心が奪われてきます。それほど、私たちにとって巨大な不安、それが死です。その死を受け入れ始める。それが柔順忍です。しかし、この段階では、まだ死を受け入れ始めただけで、死を乗り越えたわけではありません。だから、死について考えずにはおれなくなりますが、実際に死がやってきた時には「恐ろしいなあ、死が来て欲しくないなあ」と感情的に死にたくないと考えます。しかし、死を恐れながらも、心の底では死を乗り越える準備が着々と進んでいます。それは、ゆっくりではありますが、確実に心を変化させ、やがて死を乗り越えられる心へと成長させてゆきます。
最後の無生法忍とは、無生の法を悟るということです。人は死ぬ。すべては変化する。でも、その中で続いてゆくものがある。それは、私が生まれる前からこの世界に存在し、人々の苦しみを取り除き流れてゆく。その大いなる流れこそ、無生の法です。その流れが知らされることによって、「人間とは、なんと小さい存在なんだろう。自分とはなんと儚い存在なんだろう」と感じるようになります。「こんなちっぽけな存在である人間が負けたくないと意地を張ることも、自分の存在を認めさせようと頑張ることも、この世界の大きな流れから見たらどうでもいいことなんだろうなあ」と知らされてゆきます。そして、「このちっぽけな自分から離れて、人々の苦しみを取り除いてゆく大きな流れにうちまかせよう。生きるも死ぬもその流れ次第。私もその大いなる流れの一部となって、その流れに自分を染めてゆこう」これこそ、肉体を失っても続いてゆく、永遠の存在となるのです。これが仏という存在であり、苦しみの流転から永遠に離れた存在なのです。
そこで一念とは、この三つのどの段階なのかと言いますと、二番目の柔順忍にあたります。善導大師はこの柔順忍になると、喜、悟、信の三忍が起きると教えられています。
まず、喜忍とは、相手の幸せを自分の幸せのように心から喜ぶことができるようになることです。私たちは、自分が他人から認められると嬉しいけど、他人が認められる姿を見ることは、どうも喜べないものです。それは、私たちは「私が、私が」という気持ちを離れては、何一つ行動することが出来ないからです。どんなに心から相手の幸せを喜ぼうとしても、心の底では「私のことを認めて欲しい」という欲望が渦巻いています。親鸞聖人が「愛欲の広海に沈没して」と言われた心。その心がどんな人の心にも渦巻いています。この心が満たされない限り、本当の意味で他人の幸せを喜ぶことはできません。ところが、一念を突破すると人間には出来ない、他人の幸せを喜ぶということができるようになってきます。今まで自分が自分がと自分に執着していた自分が、その自分から解放され、他人のことを認められる、そんな人間の性から解放された喜び、それがこの喜忍です。
次の悟忍とは、どんなに自分にとって都合が悪く受け入れることが出来なかった真実でも、受け入れることができるようになってくる、そんな心になることを言います。人間にとって最も都合の悪い真実とは何か?それは、人間生まれた限りには死んでゆかなければならないということです。誰しも頭では、すべての人は死んでゆくということは分かっています。でも、その中に自分が入っているとは、もう思えないのです。たとえ、一時的に考えることはあっても、それはまだまだ先と無意識のうちに先送りにしてしまいます。そうやって、「まだまだ死なない、まだまだ死なない」と死を先送りにした結果、最後には突然、無常が襲ってくる。親鸞聖人はこの突然の無常を感じられて、九歳の出家の時に、”明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐のふかぬものかは”と歌われたのだと思います。誰だって「自分は明日は死なないだろう」と思っています。でも、そうやって「明日はまだ死なない」と思って生きていたら、どこかで「自分は明日死ぬかもしれない」と思えるようになるのでしょうか?そもそも、自分の心の準備ができてから、無常はやってくるのでしょうか?親鸞聖人はここで、「そうではないのですよ。人間とは、明日死なないと自分の心を信じていますが、その死なないと思っている心に裏切られて死んでゆかなければなりません」と自分の信じているものが如何にあてにならないのか、それをこの歌で教えて下さっているのです。その最も受け入れ難い死という真実が受け入れることができるので、他の現実も認められるようになるのです。これが悟忍です。
最後の信忍とは、私に仏力が働き、無常を認めさせ、執着を離れさせ、心を浄化させようとしている、その力は目には見えないが、確実に自分に働いている。そのことが認められ、自分の中で、信じることができるようになった心を言います。

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
源信僧都はお釈迦さまの説かれた仏教を深く理解されて、浄土に往生された人でなければ、私たちを浄土まで導くことができないことを明らかにされた。
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
では、浄土に往生するとは、どういうことでしょうか。それは、一言で言いますと、どんなに都合が悪いことが起きたとしても、「これもまた自業自得だ」と心から認められるようになることです。だから、どんなに苦しいことがあったとしても、そこから逃げることなく現実と向き合い、自分の言動を反省し、因果の道理に従った行動ができるようになってゆくのです。しかし、まだ、浄土に往生していないうちは、我が邪魔をして、都合の悪いことがやってくると、どうしても現実と向き合うことができず、欲や怒りに逃げてしまうのです。
極重悪人唯称仏

では、どうしても自業自得の真実を認めることができず、都合の悪いことが起きると現実を否定して欲や怒りで誤魔化してしまう人は、どうしたら、煩悩から離れた浄土に往生することができるのでしょうか?それには、ただ善知識から教えを聞かせて頂き、阿弥陀仏から真実の自分を知らせて頂くより他はありません。

(解説)
浄土に往生する為にはどうしたらいいのか?それには、どうしても自業自得の真実を受け入れ、他人と向き合うことによって見える自分のすがたを、受け入れていかなければなりません。ところが、私たちには、我があり、その我によって理想の自分にすがっている為に、他人のすがたを通して見える自分のすがたがどうしても自分とは思えず、「これは自分ではない」と思って、怒りの心が起きたり、欲に走って誤魔化そうとしたりしてしまうのです。そんな理想の自分にとらわれ、真実の自分を認めようとしない者を、ここでは極重悪人と言われているのです。ですから、極重悪人といても、人を殺した者でもなければ、盗みを犯した者でもありません。むしろ「自分は悪いことなんてしていない」と思っている人が、ここで言われる極重悪人なのです。なぜなら、仏教で言われる悪人とは、世の中の法律で悪いことをした人ではなく、理想の自分にとらわれて、真実の自分を認められない人だからです。その為に私たちは世界を通して自分のすがたが見える度に苦しまなければならないからです。つまり、仏教で悪人とは世の中で言う悪い人のことではなく、苦しんでいる人のことなのです。そして、どんなに苦しんでも理想の自分にしがみつき、どうしても世界に見える自分のすがたを受け止められないものを極重悪人と言われるのです。
では、こんな極重悪人である私たちがどうしたら理想の自分に対するとらわれから離れ、真実の自分を受け入れていくことができるでしょうか?そのことについて、この後に、唯称仏と教えられています。では、唯称仏とはどんな意味なのかと言いますと、これは善知識から真実の仏法を聞かせて頂くことによって、阿弥陀仏の光明を受けて、それによって真実の自分を知らせて頂くことを言います。仏法は法鏡なりと言われますように、真実の仏法には真実の自分を知らせる力があります。その力はたとえどんなに理想の自分にしがみついているものでも、その執着を段々と取り去り、真実の自分を認められるようにしてくれるのです。だから、自分の力ではどうしても真実の自分を認めることのできない者であっても、善知識から真実の仏法を聞かせて頂くことによって、真実の自分を認めることができるようになるのです。

我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

私は善知識の教えに従い、阿弥陀仏の大悲に守られながら二河白道を進んではいるものの、真実を知る智慧の目がない為に、煩悩が起きるとすぐに道を踏み外してしまう。でも、阿弥陀仏の大悲は、私が道を踏み外す度に真実を知らせて下さり、また白道へと戻して下さるのです。

(解説)
阿弥陀仏を見るとはどういうことなのでしょうか。阿弥陀仏とは光明であり、光明とは智慧の形なりと言われますように、阿弥陀仏とは、私に智慧を与えて下さる光そのものです。その阿弥陀仏の光明によって智慧を与えて頂くと、真実が知らされます。この真実とは、「私たちが見ている世界とは、自分の心を通して見ている世界であり、心に映る世界を通して、いつも自分の心が見えている」という真実です。ところが、私たちは誰しも理想の自分を持っており、「私はこんな人間でなければならないのだ」と執着しています。だから、世界を通して真実の自分が見えてくると無意識のうちに「自分はそんな人間ではない」と煩悩を起こし、真実を隠してしまうのです。これが煩悩障眼雖不見です。だから、「見えない」とは真実の自分が見えないということであり、その真実の自分を隠すものが煩悩なのです。仏法とは真実の自分と向き合うことなく、理想の自分のイメージにすがっている私に真実を知らせ、段々と理想の自分は幻想であり、これは自分ではないと認めさせ、「世界を通して見える自分こそ本当の自分なんだ」と受け入れていく教えです。ただ、私たちの我が強い間は、どれだけ阿弥陀仏の光明によって真実の自分を知らせたとしても、煩悩を起こして、真実の自分を隠し見えなくさせてしまいます。それでも、「理想の自分が自分なんだ」と心からは認めることができないので、仏法からも離れることができない。だから、本当のことが知りたいと仏法を聞こうと思うのです。

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 真宗教証興片州 選択本願弘悪世
この親鸞の直接の先生である源空上人は、深く仏教を理解されて、「今日のような煩悩に穢れた世の中では、どんなに煩悩から離れようと思って修行に励んでも、煩悩に染まり、離れることができない。だから、煩悩から離れられない私たちが浄土に往生する為には、ただ阿弥陀仏の本願しかない」ということを、この日本で教えられ、念仏の教えを広められた。
還来生死輪転家 決以疑情為所止

私たちは、幸せを求めて行ったり来たりしながらも、結局は苦しみから離れることが出来ず、同じところをぐるぐると回り続けてしまう。それは疑情一つが原因である。

(解説)
なぜ私たちは苦しみから離れることができず、同じところをぐるぐると回り続けているだけで死んでいかなければならないのか。それは、疑情一つが原因であるとここで教えられていますが、この疑情とは一体なんでしょうか。もちろん、疑いという漢字が入っているので、何かを疑っていることだということは分かるのですが、何を疑うことなのか。
疑情とは、一言で言うならば、善知識の説かれる教えを疑って信じないことです。私たちはなぜ苦しみから離れることができないのか。それは、私たちが煩悩に塗れた穢土にいるからです。この穢土の中でどんなに幸せを求めたとしても、幸せだと思って手に入れたものが、いつの間にか苦しみに変わり、結局は苦しみ続けてしまうのです。例えば、独身は寂しいと思って好きな人と一緒になったのに、結婚後はいつの間にか奥さんと一緒にいる事が一番の苦しみへと変わってしまう。それは、穢土にいると、どんなに綺麗なものも煩悩に穢れ、いつの間にか醜く汚くなってゆくからです。買った時は綺麗だった物も、自分が使っているといつの間にか汚くなる。だから、次から次へと新しい物が欲しくなる。でも、どんなに良い物を買っても、自分の世界に入ってしまうと自分の穢れによって汚く魅力がなくなってゆく。それは物だけなく人も同じです。どんなに素敵な理想的な人と結婚したとしても、幸せなのは初めのうちだけです。やがてお互いが煩悩に穢れて、何をしても喧嘩ばかりになり、こんなはずではなかったと、他の異性に目移りしてゆく。そして、不倫をしたり、離婚したりしてゆく。煩悩は世界を醜く汚く変えてゆく。だから、煩悩に塗れた世界では楽しみとは、常に新しい物を追い求めること。一つのものを長く使うよりも、次から次へと新しいものに目移りして買いたくなる。でも、どんなに欲しかったものを買ったとしても、楽しいのは初めのうちだけ。しばらくすると、気に入らない所が見えてきて、次のものが欲しくなる。これでは何を手に入れても、そこには幸せはない。新しい物を手に入れては飽きる、を果てしなく繰り返して、苦しみ続けなければならないのである。
では、どうして私たちは煩悩に塗れた穢土から離れることができないのでしょうか?それは、私たちは現実から目をそらし逃げているからです。私たちは誰しも理想の自分を持っています。例えば、私は怒らない人間とか、失敗しない人間とか、優しい人間でありたいとか。その気持ちが段々と強くなってくると、その理想に合わない現実から目をそらし、逃げるようになります。そうやって現実から逃げて不安な心を欲や怒りによって誤魔化すことによって生み出される世界が穢土です。だから、私たちが穢土から離れる為には、今まで目をそらし逃げていた現実と向き合うことが必要です。だから、善知識は現実と向き合うことを勧められるのです。ところが、今まで現実と向き合うことから逃げていた人にとって、現実と向き合うことはとても苦しいことです。どんなに善知識から教えを聞き、「現実と向き合わなくてはいけない」と分かっていても、実際に現実と向き合おうとすると苦しくなって、「もっと楽して幸せになれる方法があるのでは」と思ってしまいます。これが疑情です。つまり、疑情とは、現実と向きあうと理想の自分が崩れて苦しいので、現実から逃げて「他にもっと楽して幸せになる方法はないか」と思う心です。でも、本当にそんな幸せがあるなら、あなたは今までそうやって生きてきたのだから、すでに幸せになっているはずです。でも、あなたは今も不安を抱え、幸せを探し求めているとしたならば、あなたの今までの生き方を続けたら幸せになれないことを、あなた自身の身体で証明しているのです。だから、どんなに現実から逃げて幸せを求めたとしても、絶対に幸せになれません。幸せとは、苦しくとも現実と向きあうことによって、得られるものなのです。

速入寂静無為楽 必以信心為能入

脇道にそれることなく、煩悩から離れた浄土に往生する為には、ただ善知識を信じて教えに従って進んでゆく以外にはない。

(解説)
信心とは何か?信心とは一言でいうならば、現実と向き合い、それを通して見せられる真実の自分を受け入れていくこと以外に私たちが苦しみから離れてゆく方法はないと信じることです。しかし、どんなに仏法を聞き、現実と向きあわなくてはいけないと頭では分かっていても、実際に向きあうと苦しくなって逃げてしまうものが人間です。だから、こんな私たちが現実と向き合うためには私の心を支え、現実から目をそらさないように私を導いてくれる人が必要です。それが善知識です。だから、私たちはこの善知識の教えを信じて実践すれば、苦しみから離れることができるのです。

弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

このように、今まで紹介した高僧方は、阿弥陀仏の御心を明らかにされ、煩悩から離れることができず苦しみ続けている多くの人を救ってきた。この教えに触れた人たちよ、是非、阿弥陀仏に救われて、菩提心を起こして頂きたい。その為に、この高僧方の教えを信じて、現実から目をそらさず、向き合って頂きたい。

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