諸仏の家に罪咎がないというのは、その家が浄らかであるからです。ここで、「浄らか」というのは、そこで菩薩が実践する六度万行・四功徳処、そして、方便や般若の智慧・善慧・念仏三昧・大悲、また諸忍が、自分の都合や我執がなく清らかであって穢れが全くないので、「家が浄らかである」というのです。菩薩は、この浄らかな教えを実践することによって家とするので、罪咎が全くないというのです。
☆四功徳処…菩薩が法を説き給うに入用な利他の功徳の事で、諦(真実なること)、捨(ものを施すこと)、滅(自らの身口意の悪業悪心を滅して、名聞利益の心無く法を説きたまうこと)、慧(智慧)の四法をいう。
①諦…真実不虚の義。時代によって変わることのない物事の真理。また、仏様から見た世界のすがた。世界を自分の都合を入れることなくありのままに見ること。そして、そこからその物の本質を見抜き普遍の法則(因果関係)を発見すること
②捨…我執を捨て、自分の都合を入れることなく、ありのままに物事を見ることができること
③滅…貪欲・瞋恚などの煩悩を滅し、煩悩によって他人や自分を傷付けることがなくなったこと
④慧…唯識の真理をさとり、自他の区別なく物事を平等に見ることができる力
☆般若…実践を通して体で知らされた智慧
☆善慧…我執なく、過去の一切の物事にとらわれることなく物事を判断し、選びとる力
※つまり、菩薩とは、自分の我執にとらわれることなく、ありのままに教えを説き、その力によってどんな人も苦しみを取り除くことが出来るので、大宇宙の神々がほめたたえ敬うのです。
我執にとらわれ物事をありのままに見ることができなかった世間道を離れ、我執を離れ、智慧を身に付けて、迷いから離れていく出世間道に入ったならば、そこで阿弥陀仏を見て、その阿弥陀仏を喜び敬えば、他力によって四功徳処を得て六度万行を実践させられるので、その素晴らしい果報によって、人を慈しみ、育てる喜びが起きる。そして、諸の仏種が自分の心から、消えることがないので、その心は大いに喜ぶのである。この菩薩にとって、抱えているところの残りの苦しみは、2,3滴の水のようなものです。勿論、苦しみがほとんど無くなった訳ではないので、百千劫かかって仏のさとりを開くといえども、この菩薩にとって、その苦しみは2,3滴の水のように感じる。滅すべき苦しみは、大海の如くあっても、他力によって自然と取り除いていくので、障りとならないのである。このように自分で努力することもなく、自然と他力のお力に流されて、仏のさとりへと導かれていくので、このさとりを歓喜と言うのです。
では、お尋ねします。「初歓喜地の菩薩は、このさとりを開くと喜びが多いので、多歓喜と言います。諸の功徳を得るのでこのさとりを歓喜とするのは分かりました。今度は、このような功徳を得ることが出来る法の働きについて、教えて頂きたい」
それについて、お答えしましょう。「初地に入った菩薩は、常に阿弥陀仏や阿弥陀仏の教えを心で念ずることが出来るので、必ず仏のさとりを開くところまで進んでいけるので、希有の行いである。この故に喜びが多い。このような因縁があって、初地の菩薩は心に喜びが多いのです。ここで「阿弥陀仏を念ずる」とは、お釈迦様を初め、この世にあらわれた仏様方が、常に心で念じていた阿弥陀仏を初地の菩薩も念じることを言います。
※ここで、阿弥陀仏を念じるとは、初地に入らなければ、見ることができないものが阿弥陀仏です。ですから、煩悩を断じてない凡夫が、どんなに阿弥陀仏を想像しようとしてもできません。
常に阿弥陀仏を念ずることが出来る人は、今、目の前に阿弥陀仏がおられるようなものです。このような人は、迷いの世界の中で最も素晴らしい人であり、この人以上に優れている人はいないので、常に喜びの心が多いのです。
次に「諸仏の大法を念ず」とは、阿弥陀仏のお力を頂いて自由自在に法を説くことができることを言います。たとえば、空を自由自在に飛んでいけるように教えを説き、相手に合わせて自由自在に教えを変化させることができる。そして、人の話を聞く時は自分の計らいを入れずに聞くことができ、無量の教えの力によってすべての人々の心を知ることができる。(乃至)
「必定の諸の菩薩を念ず」というのは、もし、菩薩が仏を見ることによって、必ず仏のさとりまで、到達できる身となったならば、真如が知らされ、無生法忍をさとり、心が魔によって奪われまた我執にとらわれる穢れた心の世界に戻ることはない。大慈悲心を得て、仏の道を進んでいかれる。これを「念必定の菩薩」と言うのです。
☆大人の法…大人とは大丈夫人のことで、仏・菩薩のこと。その方が体得しておられる法を、大人の法と言います。ここでは、法と共に実践されている姿を「大人の法を成ず」と理解して、仏の道を進むこと。仏道とは何か?仏教の目的は抜苦与楽。苦しみを抜き心を楽にしてあげるのが、仏教の目的です。だから、仏とは、その人生をひたすら、人々の苦しみを抜き、幸せを与えていく事にささげている方なのです。この真理が知らされ、実践されていることを「大人の法を成ず」と言われるのです。
「希有の行を念ず」というのは、必定の菩薩は、最も素晴らしい性質を具えた人の行いを念ずるなり。それはとても嬉しいことであり、これはすべての凡夫がマネをすることが出来ないものであり、すべての声聞や縁覚が行うことの出来ないものなのです。それは、仏教で教えられる何ものにもとらわれない自由の境地、そして、すべての智慧を明らかにされる。
※つまり、希有の行とは、何ものにも束縛されることない自由な心の境地であり、また、人々の苦しみを取り除く為のすべての智慧を持ち、人々の苦しみを抜き去っていく行いを言います。
また、菩薩が仏になる為に必要な六度万行の行を念ずることができるので、具体的にどのように実践して仏へと進んでいけばいいか分かる。
以上のようなことから、「心に喜びが多くなる」と言われるのです。この故に、菩薩が初地に入ったならば、これを「歓喜」と言うのです。
それでは、また、お尋ねします。「まださとりを開いていない凡夫は、我執を断ち切っていないので、仏のように苦しみを取り除いて人々を救っていきたいという菩提心を起こしていない人もいる。また、菩提心を起こしている人もいる。それでも、まだ歓喜地を得ていない。この人は、阿弥陀仏を念ずることによって阿弥陀仏の智慧を頂き、それによって必定の菩薩と同じように希有の行を念じ実践することができるので、また歓喜の心が起きる。初地を得た菩薩の歓喜と、この人と何か違いがあるのでしょうか?」
それについてお答えしますと、「菩薩が初地を得たならば、その心は歓喜が多い。なぜなら、阿弥陀仏の持たれる無量の徳を、私は必ずやがて身につけることができるから。それは初地を得た必定の菩薩は、阿弥陀仏を念ずることによって阿弥陀仏と同じ徳を身につけ、やがて阿弥陀仏と同じ仏の身になれる。だから、初地の菩薩は、念仏によって必ず仏になることができるのです。」
※仏を念ずるとは、仏の智慧を念ずることになり、それによって、自分の中にある真理を知らない愚痴の心が破れ、智慧が身についていく。智慧は、その人の間違った行動の習慣を正し、正しい習慣へと変えていくので、その結果、仏の徳が身についていくのです。念仏とは、智慧を頂く方法であり、頂いた智慧によって、迷いの心を破り正見させていく。智慧こそ、人々を仏へと変えていく方法なのである。その智慧は、諸仏の説法を通して人々に伝わり、邪見を破り正見へと変えていく。説法を通して、間違った価値観を正し、正しい物の見方ができるようにしていく。それによって、浄土へ人々を導いていくのである。
初地の菩薩以外は、この心は全くない。この故に、初地の菩薩は多くの歓喜が起きるのである。それ以外の人は、そうではない。なぜかと言うと、初地にまだ入っていないものが、どんなに阿弥陀仏を念じたとしても、それは本当の阿弥陀仏ではないので、それによって仏の徳が身につくことはない。
それは譬えるならば、転輪聖子が転輪王の家に生まれて、転輪王となるべき素晴らしい相を持っていたとする。その転輪聖子が、自分と同じように転輪王の相を持っていた。過去の転輪王が素晴らしい功徳を身につけていたことを念じて、「私も過去の転輪王たちと同じように、転輪王の相がある。私もやがて豊かさや気品を身につけるであろう。」そう思うと、心は大いに喜ばずにはおれないでしょう。もし、自分に転輪王の相がなかったならば、このような喜びは起きないようなものである。
必定の菩薩が、阿弥陀仏やその阿弥陀仏の持たれている素晴らしいお徳を念じたならば、「私も阿弥陀仏の持たれている徳が身についてきている。だから、やがて私も仏になれるであろう」このように、仏に一日一日と近付く自分を見て、大いに喜ばずにはおれない。初地に入ってないものは、阿弥陀仏を念じたとしても、それによって、智慧が身についたり、煩悩から離れたりすることはない。「定心」とは、常に仏法を物差しとして考え、他の考えを入れて、物事を考えることがないことを言います。