御一代記聞書 我利我利亡者は助からぬ

 わればかりと思い、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば、仏の御慈悲をうけとり申す上は、わればかりと思うことは、あるまじく候う。触光柔軟の願候う時は、心もやわらぐべきことなり。されば、縁覚は、独覚のさとりなるが故に、仏にならざるなり。
「自分一人で仏法を求めてきたのだ」と、自分の力で悟りを開けると思っていること。それはとんでもない間違いだ。阿弥陀仏の救いを信じたならば、人は一人では生きてはゆけないと知らされて、阿弥陀仏のお慈悲を信じられるところまで、心を育てて頂いたことに感謝せずにはおれなくなる。そう知らされたならば、「ここまで悟ることができたのは、自分一人の力なんだ」とは、もう思えなくなる。“どんな極悪人も見捨てない”仏法とはこの阿弥陀仏の慈悲を聞いてゆくのだから、凍りついた心も和らぎ、温かい心になってゆくのです。だから、縁覚は信じられるのは自分しかいないと思って求めているので、仏の慈悲が分からず、仏になることもできないのです。
解説
ここで「我ばかり」という心は、自分一人で仏法を求めているのだ。ここまで求めてきたのは自分の力だとおもう心です。なぜこのように思うのかと言えば、最後に頼りになるのは自分だけだと思っているからです。このような人は、
「私だけどうして苦しまないといけないのか」
「人生とは所詮は一人だ」
「世の中、恩を受けたら、必ず返さないといけない」
「世の中お返しが大事」
「“お返しお返し”お返しを考えないといけないから、受け取れない」
「いいですから、そこまで気を遣わなくていいですから」
「迷惑かけたくない」
「あなたから助けてもらわなくても、自分で何とかします」
など、自分の事を大事に思ってくれる人なんて、この世に誰もいないのだと諦めている人でもあります。今までに何度も人を信じて裏切られたから、もう信じられるのは自分だけだと思っている。その為、貸しを作るのはいいけれど、借りを作りたくはないと思ってしまう。他人からの好意を借りを作ったとしか受け取れないのです。それは他人から見返りを期待された親切した受けていないからであり、自分も他人に何かをするときは見返りを期待しているからです。見返りを期待するとは、本当は相手の為にしてあげたくはないけど、義理だから仕方なくやっていること。そんな親切を受けたって相手は嬉しくないし、今度はお返しをどうしたらいいのかと悩まなくてはなりません。そんなことならば始めから受け取らなければいい。そう思うのも当然だと思います。そういう義理の世界の中で生きてきた人ほど、他人に頼って生きていきたくはないと思うようになるのです。
この心が我ばかりと思う独覚心です。
言い換えるならば、自分のことを本当に大事に思ってくれる人に出会って、愛情を受けたことがない人とも言えます。
このような人を善知識が大事に思い、心をこめて、教えを説きながら、心を育ててゆくことによって、人は一人では生きてはゆけないと素直に信じられるようになる。そして、「どんな極悪人も見捨てない」と誓われた阿弥陀仏の慈悲を信じられるところまで育ててくれたことに感謝せずにはおれなくなるのです。
始めは誰でも独覚心。つまり、信じられるのは自分だけと思っている。それは何度も信じては裏切られ、傷ついてきたから。まるで捨て猫のような心になっている。それを善知識が傷ついた心を癒やしながら、大事に心を育ててゆくことによって、段々と人は一人では生きてはゆけないと素直に認めることがてきるようになる。認めるからこそ、うちまかせることができるのです。
うちまかせることができないのは、信じられるのは自分だけだと独覚心になっているからです。だから、頼れるのは自分しかない思って、他人を信じようとはしない。
そんな者が阿弥陀仏の慈悲を信じられるようになるにはどれだけ時間がかかるか分からない。その間、見捨てることなく、善知識が見守って下さったからこそ、最後、阿弥陀仏の慈悲を信じて、うちまかせるようになる。そうなったら、自分は最後は一人。言い換えるならば、自分のことを大事に思ってくれる人なんていない、と思うことは有り得ない。人は支えられて生きている。仏法はこの阿弥陀仏の慈悲を聞いているのだから、凍りついた心も和らぎ、温かい心になってゆくのです。だから、縁覚は信じられるのは自分しかないと思って、求めているので仏にはなれない。それは自分の為に苦労してくれた人の気持ちが分からないから。その為に自分が苦労してまで、他人を救ってあげたいとは思えないのです。
このように私たちが最後まで仏法を求めてゆくには、どんなことがあっても見捨てることなく、私の心を支えて育てて下さる、温かい心を持った方の存在が必要不可欠なのです。

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