御一代記聞書 真宗の繁盛とは

一宗の繁昌と申すは、人の多くあつまり、威の大なる事にてはなく候う。一人なりとも、人の、信を取るが、一宗の繁昌に候う。しかれば、「専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず」(式文)と、あそばされおかれ候う。
浄土真宗が繁盛するということは、多くの人が集まり、威勢がいいことではない。一人でもいいので、阿弥陀仏の大悲を信じてもらえるように心を支えてゆくことが、一宗の繁盛なのである。だから、「念仏の教えが広まり、多くの人が聞き求め繁盛することは、善知識一人の力ではなく、遺弟の念力によって成し遂げられるのである。」
(解説)
一宗とは、浄土真宗のこと。蓮如上人はここで浄土真宗が繁盛するとはどういうことか、教えられています。
それは多くの人が集まり、威勢がいいことではない。つまり、たくさんの人が教えを聞くようになることが浄土真宗の繁盛ではない。
では、浄土真宗が繁盛するとはどういうことか。
それについて蓮如上人は、
“たった一人でも阿弥陀仏の大悲を信じられるようになる”それが浄土真宗の繁盛だと教えられています。
蓮如上人と言えば、全国津々浦々に教えを広めた方。今日、仏教と言えば、浄土真宗と言われるほど。たくさんの人が門徒になっているのは蓮如上人のお陰です。その蓮如上人が浄土真宗が繁盛するとは、たくさんの人が教えを聞くことではないと言っている。これは意外なお言葉です。
では、どんなことが浄土真宗が繁盛するということなのかと言えば、一人でも阿弥陀仏の大悲を信じられるようになること。これは面白いお言葉です。
なぜかと言えば、一人の方に阿弥陀仏の大悲を信じてもらう為には、その人に時間をかけなければならないからです。十把一絡げに仏法を聞いていたら、それで阿弥陀仏の大悲を信じられるようになるのではありません。阿弥陀仏の大悲を信じるとは、どんなことがあっても見捨てないという阿弥陀仏の大悲を信じること。言葉を換えれば、どんな時も、自分を見捨てることなく時間を取ってくれる。そうしなければ、とても信じることはできません。しかし、人が増えるとどうしても善知識が一人の人の為にかけることができる時間は少なくなる。だから、人が増えることよりも、一人の人にしっかりと時間をかけなさい、と教えられたお言葉なのです。
言い換えれば、たくさんの人に伝える必要はない。それよりも一人の人に時間をかけなさい。それが浄土真宗の教えを伝える僧侶の仕事なんだ、ということです。たとえば、たくさんの人がやってきて「是非、教えを聞かせて下さい」と言われたとしても、僧侶は「聞きたい人がいるからお伝えしなければ」このように考えてはならない。あくまでも、今、ご縁を結んでいる人を大事にできるかどうか。それを第一に考えて、大事にできるならば、受けたらいい。新しい人がご縁を結ぶことによって、今までの人が時間をとってもらえなくなってしまうとしたら、断らなくてならない。そうしなければ、阿弥陀仏の大悲は信じてはもらえない。どんなに阿弥陀仏はどんな極悪人も見捨てないと聞いていても、人が増えたら、ところてん式に押し出されたとしたら不安になる。仏法は説法さえしていればいいのではない。一人一人の心のケアが大事。そうしなければ「私も見捨てられないのだな」とはもう思えない。こういうことを考えると、一人の善知識が何百人の人を担当して教え導くことなんて不可能。何百人の人を目の前にして話をすることはできても、実際にその人たちを担当することはできない。だから、どこかでたとえ人が増えたとしても、「ここからは私は担当できません」と線を引かなければならない。これが善知識の仕事です。阿弥陀仏の大悲を信じてもらう為には、ただ教えを聞いていればいいという訳ではない。ちゃんと時間を取ってあげなければならない。私が担当できる人数は限られている。これだけの人しか担当できませんという限界があるのです
聞きたい人がたくさん集まってきた。でも、今までの会場では入りきらない。では、会場を大きくしましょう。そんな風に安易に考えてはならない。「私はこれだけしか大事にできません。だから、あなたを担当することはできない」と断らなくてはならない。これが他の宗教とは違う所です。他の宗教は人が集まれば集まるほどいい。それが繁盛していると言う。でも、浄土真宗はそれを繁盛とは言わない。如何に一人一人に時間をかけてあげているか。顔が見える付き合いをしているか。それが何よりも大事なのです。人がたくさん集まってきたからと言って、その人たちに平等に接しなければならない、という訳ではない。優先順位がある。仏教では今まで聞いてきた人を優先する。そして、今まで築き上げてきた人間関係を大事にする。だから、人をどこかで切らないといけない。聞きたい人が現れても、私は担当できません、と断ってゆかなければならない。そうしなければ聞いている人たちは人が増えることで、いつ見捨てられるか不安になって、阿弥陀仏の大事を信じることなんてとてもできない。阿弥陀仏の大悲を信じるのは最後まで見捨てることなく、時間を取り続けてゆく人が必要なのです。浄土真宗の目的は多くの人が集まることではなく、阿弥陀仏の大悲を信じること。その為には一生涯、その人の為に時間を取り続けてあげる人がどうしても必要なのです。だから、善知識は自分の時間を削ってまで、他人の為に時間を割いてゆく。欲を捨て、余裕を作り、人の為に与えてゆく。それでも、聞きたいという人が増えてくると限界が来る。もうこれ以上は時間はとれない、となる。それでも聞きたい人が増えてしまったらどうしたらいいか。
蓮如上人は最後に、「専修正行の繁盛は遺弟の念力より成ず」と締めくくっています。
遺弟とは善知識から直接教えを聞いている人のこと。その遺弟の念力によって念仏の教えが広まってゆくということは、つまり、善知識が直接担当できない人は遺弟が面倒を見るということです。こんなことを聞くと「そんな私は善知識のような智慧も徳もありません。だから、私が導くなんて到底無理です」と思うでしょう。しかし、蓮如上人は力はなくてもいい。大事なのは念力だと教えられています。念力とは念ずる力。相手のことを念い続けてゆく力のこと。相手を正しく導くことはできなくても、念い続けることはできる。人を救うには正しい導く智慧も必要だが、それ以上に相手の為に時間をかけてあげること。それが何よりも必要です。善知識は智慧はあるが、時間はとれない。だから、多くの人を導く為には、相手の為に具体的に時間をとってあげられる人が必要なのです。
その遺弟の念力によって、多くの人が導かれ救われてゆく。だから、善知識がすべての人を導くのが私の使命だと気負いして抱え込んでしまったら、浄土真宗が繁盛することはない。なぜなら一代限りで終わってしまうから。善知識が抱えしまうことによって、遺弟は善知識がいるから大丈夫だと他人まかせになってしまい、真剣に力をつけようとは思わない。そうやって、善知識だけが必死に頑張っていった先に、善知識がこの世から去ってゆく。そうなってしまうと誰も跡を引き継ぐものはいなくなる。膨大になった人たちを目の前にして誰が教えを説くことができるでしょうか。そんな人は誰もいません。善知識がどれだけ頑張っても、善知識一人の力で教えを遺してゆくことはできないのです。しかし、善知識が自分が担当できるのは、これだけしかいないと人数を限定すると話は違います。なぜなら他の人は遺弟が面倒見なければならないとなるから。もし自分が諦めてしまったら、この人が救われることは永遠になるのだと思うからこそ真剣になる。そうやって善知識が遺した智慧は子から孫の世代へと受け継がれてゆく。たとえ善知識がこの世を去ったとしても、善知識が教えてきたことは遺弟たちの中に残ってゆく。
時間はかかるが、ゆっくりと砂漠が緑地へと変わるように。その家庭に、その町に、その国へと浸透してゆく。これが浄土真宗が繁盛することなのです。

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