御一代記聞書 自分で解釈するな

聖教を拝み申すも、うかうかとおがみ申すは、その詮なし。蓮如上人は、「ただ聖教をば、くれ、くれ」と、仰せられ候う。また、「百反これをみれば、義理おのずからうる」と申す事もあれば、こころをとどむべきことなり。聖教は、句面のごとくこころうべし。その上にて、師伝・口業はあるべきなり。私にして会釈する、しかるべからざる事なり。
いくら聖教を読んでいても、訳も分からず、ただ何となく読んでいても意味がない。蓮如上人は「たた聖教は繰り返し読みなさい」と仰せられた。世のことわざにも“百遍読めば、そこに何が書いてあるか分かる”という言葉もあるので、そういうことに心がけて読んでゆきなさい。また、聖教は自分の勝手な計らいを入れず、書いてある通りに理解しなさい。そして、その教えをものさしにして、自分が師匠から受けた教えを判断しなければならないし、他人に仏法の話をするときもしなければならない。聖教にどんなことが書いてあるかよく分からないのに、自分勝手に仏法とはこんな教えだと思って、自分は仏教を分かったつもりになっていることは、とんでもないことである。
解説
ここには仏教とは教えが大事であるということが教えられています。仏法とはまず教えを理解しなければ、善知識が何を教えられているのかも分からないし、自分がどこに進んでゆけばいいのかも分からない。また、世の中には多くの仏教の先生と言われる人たちがいますが、その人たちのほとんどがろくに聖教も読まずに、自分の師匠からこのように教えてもらったのだと自分の師匠の教えをものさしにして、さも仏教とはこんな教えなんだと分かったつもりで話している人たちばかりである。だから、どんなに自信満々に話しているからと言って、その人の話が正しい訳ではなく、自分自身がこの人の言っていることは仏教に合っているかどうか照らし合わせて判断しなければならない。仏教とは教えがあって、その教えを明らかにする為に善知識は多くの言葉を使って話をされています。だから、その方が本当の善知識ならば、その人の教えを聞いてゆくことによって、例えば、無常とは何か、因果応報とは何か、罪悪とは何かなど、段々と仏教に説かれている真理が分かってきます。
人間とは自分の都合で教えを曲げてゆくもの。だから、仏教の先生だからと言って、その言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、まずは自分自身が聖教を読み。そこに書いてあることを、その言葉の通り理解してゆくことが大事なことなのです。

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