御一代記聞書 信を取ろうとする者がない

蓮如上人、仰せられ候う。「「聴聞、心に入れて申さん」と、思う人はあり、「信をとらんずる」と、思う人なし。されば、「極楽はたのしむ」と、聞きて、「参らん」と、願いのぞむ人は、仏にならず。弥陀をたのむ人は、仏になる」と、仰せられ候う。(123)
蓮如上人はある時、こう仰有った。
「真剣に聞こう」と思って聴聞する人はいるが、「阿弥陀仏に救われたい」と思って聴聞する人がいない。だから、「極楽は楽しいところだから」と聞いて、楽になりたい一心で「往生したい」と思って求めている人は、極楽に往生することもできないし、仏にもなることができない。もう阿弥陀仏にうちまかせるしかないと素直に善知識の教えに従うものが、往生するのであり、仏になるのだ。」
(解説)
蓮如上人はある時、こう仰有った。
「真剣に聞こう」と思う人はいるが、「阿弥陀仏に救われたい」と思って求めている人がいない。
つまり、今日の話を心に刻んで忘れないように聞こうと思って求めている人はいても、我が身の魂の問題。とても放っておくことなんてできない。何としても阿弥陀仏に救って頂かなければと思って、真剣に求めている人がいないと言われているのです。このように真剣にならないのは、どこか、自分は「どんなに求めて間に合わないのではないか」と思って諦めているからです。始めから諦めている。心の何処かで助からなくても仕方ないと思っているのです。では、どうして諦めているのかと言えば、それは自分は死なないと思っているからです。つまり、死は他人事であって、自分には関係のないこと。たとえ、自分にもやがて死はやってくるかも知れないが、それはまだまだ遠い先のことであり、後生の問題は死が近付いてから考えたらいいと思っているからです。だから、この教えに心が一つにならない。始めから諦めているので、本当に救われるどうかが問題にならないし、真剣に聞いていれば、そのうち救われるだろうと思っておれる。つまり、この人は真剣に求めている訳ではないのです。真剣に聞いて振りをしているだけ。本当に真剣に聞くということは、人間は必ず死んでゆかなければならないという真実が知らされないとできない。死を意識して人間は初めて自分の行く先が問題になる。死を意識すると言っても、不治の病にかからなければ分からないという訳ではない。むしろ、重い病にかかった人ほど、死が恐ろしくて、死を受け入れることができない。では、どうしたら死を意識できるか。それは何度も我を崩してゆくことです。私たちは我が自分だと思って執着している。そして、我が崩れないように無常を避ける。でも、どんなに無常から逃げても最後は死が待っている。死によってすべてが崩され、心が真っ暗闇に覆われる時が必ず来る。仏教とは死との競争。死が来る前に解決しておかなければならない。それが分かってくるとこの教えで本当に助かるのか。それが問題になる。もう死を無視して生きてゆくことはできなくなる。だから、真剣に聞かずにおれなくなる。仏教の教えを我が身に引き当てて聞くようになるのです。このように言ってもなかなか引き当てて聞くことができないものです。それは、我が崩される経験が少ないからです。そういう人は無常を経験してゆくしかない。思い通りにならないことに飛び込んでゆくしかない。その最たるものが人間関係。人間関係といっても身近な人。身近な人ほど、表面を取り繕って格好つけても意味がない。家族は自分の裏表を知っています。その家族と向き合うことで、本当の意味で自分が変わらなければならないと知らされる。だから、どうしても我が崩されるのです。そうやって、我が何度も崩され、無常が知らされてきたならば、「極楽は楽しい所だから、そこへゆけたらいいな」というような、そんな軽い気持ちで求めてはおれなくなる。自分の後生はどうなるか。自分の行く先はどうなるか。死が恐ろしい。何とかしたい。でも、自分がどんなに頑張っても、この腐った頭で考えたことなど、意味がない。だから、智慧を持たれた善知識の言うことに従ってゆくしかない。それは現実の問題と向き合えば、向き合うほど、知らされてゆきます。それは如何に間違った考えで、報われない苦労をしてきたと知らされるからです。こんなぼんくら頭で考えても駄目だ。もう善知識の言うとおりにやるしかないかと段々と観念してゆく。やりたくて、やってゆく訳ではあありません。そんな心、凡夫にはありません。やりたくなくて、できればやらなくて済むなら、それに越したことはないと思っているのが私たち。でも、どうやって死から逃げられない。この道しかない。この道しか救われる可能性のある教えはない。そう逃げ場がなくなって、ここしかないと諦めて頑張ってゆくのです。これが仏法を求めている人の姿であり、阿弥陀仏の救いを求める人の姿なのです。

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