御一代記聞書 陰にでも言ってもらいたい

  順誓、申されしと云々 「常には、わが前にてはいわずして、かげに後言いうとて、腹立することなり。われは、さように存ぜず候う。わが前にて申しにくくは、かげにてなりとも、わがうしろ事を申されよ。聞きて心中をなおすべき」よし、申され候う。(126)
あるとき、順誓に対して、こう仰有った。
「世の中では、『文句があるなら、面と向かって言えばいいのに、陰でコソコソと悪口を言うなんて酷い。』と言っているが、私はそういう風には思わない。面と向かって言いにくいことがあったならば、私のいない所でもいいから、私の悪口を言いなさい。そうすれば、まわりまわって、私の耳に入る。そうすることで、「あ~、こう思っていたのか」と反省することができるのだ。」
(解説)
このように聞くと蓮如上人は素晴らしい。陰で悪口を言われても腹を立てずに自分の間違いを正そうとされているなんて。こう思われると思います。
では、蓮如上人は、自分の悪口を気持ち良く聞ける方であったのかと言えば、そうではなかったと思います。もし、蓮如上人が自分の間違いを素直に聞ける方であったならば、まわりの人は面と向かって気付いたことを伝えていたと思います。でも、蓮如上人がこう仰有っているということは、誰も面と向かって、間違いを教えてあげることはできなかったのだと思います。何故なら、腹を立てるから。自分にとって都合の悪いことを言われると、怒ることはしなかったとしても、イライラする。そうなると、心の中で思っていても口に出すことはできない。でも、自分にとって都合の悪いことを言われて腹を立てない人なんていません。それは蓮如上人だって同じです。それでも普通の人だったら、目上の人とか、立場が上の人とか叱ってくれる人がいる。でも、蓮如上人は善知識。誰も叱ってくれる人はいなかった。だからこそ、蓮如上人は陰でも言ってもらいたいと言われたのだと思います。そうでなければ有頂天になってしまう。有頂天とは調子に乗ること。調子に乗ると、手でやらなければならないことを足でやる。礼儀に欠けたことをしてしまう。大切にしなければならないことを馬鹿にする。そして、知らず知らずのうちに人を傷つけてしまう。最後にはまわりの人から見放されて独りぼっちになってゆく。
蓮如上人も有頂天の恐ろしさを知っていた。だから、直して欲しい。面と向かって言えないならば、陰でも言って欲しい、と思われたのだと思います。
それは仏法が大事だから、仏法によって集まってきた人たちがこれからも気持ち良く求めてゆくために、トップである自分が有頂天になってはいけない。そう思われたのだと思います。トップが有頂天になったら、その下の人たちは地獄。色々不満を溜めながら、我慢しながら、耐えてゆかなければならない。「仏法を求めている人は、私の弟子ではない。私の力で集まってきた人ではない。みな阿弥陀仏のお力によって集まってきた人たちばかり。その人たちを預からせて頂いているのが私。だから、その人たちを悲しませるようなことはしてはならない。」
そう思っておられたのではないかと思います。だから、悪口を言われることは苦しいことであり、腹が立つことではあるが、ただ仏恩の深重なることを念じて人倫の嘲りを恥じずで、忍んでゆかれたのだと思います。
誰だって、自分の間違いを言われたら、耳に痛いことを言われたら、嫌なものです。それが当たっていればいる程、落ち込んでしまうものです。それでも言って欲しい。自分の間違いを多々してゆきたい。このように思われて仰有っただと思います。

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