智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かふらぬものはなし 真実明に帰命せよ
智慧とは、自分の姿を客観的に見せる力。私たちは、自分に暗いので、相手が悪いことをすると、自分にも相手と同じ心があるのに、身体ではしていないから、自分にはそんな悪はないんだと思って否定する。
しかし、相手を否定した分だけ、今度は自分にも同じ心があるので、いつも誰かが私のことを否定してくるように感じる。だから、正義や権力の力で相手を押さえつけ、自分の中にある不安を取り除こうとする・しかし、そうやって力で相手を力で押さえつければ、押さえつけるほど、それが世界を通して跳ね返り、世界が自分の間違いを否定してくるように感じる。だから、自分の中にある正義に固執して、いつも自分が正しい人間であることを示そうとする。しかし、正義に固執し、悪を否定した分だけ、自分は実はそんな悪を抱えていることが見えるので、何か欲を起こして、心を見えなくさせないと不安になる。しかし、欲に流れれば流れるほど、自分で自分を責めてしまい、ますます欲に流れるようになる。こうやって、堕落してゆき、堕落した自分を否定せずにはおれなくなる。
みんな自分が世界に対してやっていることが返ってきているだけなのだが、それが分からないから、世界から返ってきた自分の姿に対して、さらに否定で返してしまう為に、ますます苦しみの底へと堕ちてゆく。これが智慧がない姿。
こんな私たちに阿弥陀仏は光明を照らし、自分が今どんなことをしているか教えて下さる。それは私たちがどんなに自分の姿が分からず、返ってきた自分の姿に対し、さらに悪で返すような迷いに迷いを重ねていたとしても、その迷いの底にいる私たちを照らし出し、その迷いの根本とは何かを教えて下さる。
それが智慧の光明はかりなし。
それは私たちがどんなに迷いが深い。つまり、自分の姿が分からず、返ってきたものに対し」更に悪で返し、自分が何で苦しんでいたのかも分からなくなっている状態であっても、その迷いの底まで照らし出し、自分の姿を知らせて下される。
これが有量の諸相ことごとく光暁かふらぬものぞなきということ。
光暁とは、暁のような光。暁とは、真っ暗闇に少しだけ光が差し込んだ状態。だから、暗くて何も見えない。でも、見えないけど、暗いということは一番良く分かる明るさ。阿弥陀仏は私の本当の姿を映し出す光。でも、私たちは罪悪が重いので、自分の中に悪があると否定して、自分の姿を受け止めることができない。
だから、阿弥陀仏は少しずつ私の姿を照らす。だから、阿弥陀仏の智慧の光明に照らされても、自分はこんな人間なんだと知らされる訳ではない。自分のことについて何も知らないものが自分だと分かる。そこから、少しずつ悪を否定するという罪悪が減った分だけ、自分の姿を受け止められるようになる。そして、自分の姿を知らされてゆくのです。
これが智慧の光明はかりなしのご和讃です。
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