我執10

この欲に流れている人は欲に流れている間に時が瞬く間に流れ、歳を取ってゆくという現実が見えないから、いつまでも欲に流れていることができる。欲に流れたまま、死んでゆかなければならないとしたら、欲に流れていることなんて、とてもできない。

だから、二河白道の信とは、本当の意味では、無常観が深まり、欲に流れているまま、死んでゆかなければならないという現実が見せつけられないと起きては来ない。それまでは善知識が手を引っ張り、足を引っ張りながら、教えを聞かせてゆかなければならない。そうすることによって段々と無常観が深まり、現実と向き合うようになるのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました