何か問題があると、みんな自分は何も変わらず相手に変わって欲しいと思う。
そして、こんなこともできていないじゃないかと相手を責める。それで責めて、相手が思い通りに動いてくれないと、なんでこんなことをされるのが嫌なのに、あなたはするのと更に責める。
まるで責めたら相手は変わる筈だとカンカンに信じている。
たとえば、部屋を汚されるのが嫌だ、綺麗にしておきなさいと相手を責める。でも、そんなに汚いのが嫌ならば、自分が片付ければいいのに、自分では片付けようとはせずに、汚したのは相手だから、相手が片付けるべきだと相手を責める。
そんなに責めたら、責められた相手は責められるのが嫌だからいなくなる。
結局、責めても孤独になるだけ。
仏教から言ったならば、嫌だと感じているのは自分だから、相手に片付けさせようとはせずに、自分が片付ける。誰が汚したかは関係ない。誰が嫌だと感じているか。
嫌だと感じているのは自分だから、自分が片付ける。そうやって片付けると不満が起きてくる。この不満が起きてくるのは、自分の心が穢れているから、その溜まっていた穢れが片付けることで出てくる。
この穢れは我慢するのではなく、誰かに話す。話して認めてもらうことで、心から消えてゆく。だから、片付けるのは、心の掃除。せっかく心から穢れが吹き上がってきたのだから、それを聞いてもらわなければ、心の掃除をした意味がない。吹き上がった穢れはこんな感情を吹き上がらせる相手が悪いと思わずに聞いてもらって楽になった方がいいですね。
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