御一代記聞書 身を捨てて求めよ

蓮如上人仰せられ候、「信決定の人を見て、『あの如くならでは』と思えばなるぞ。」と仰せられ候。「あの如くになりてこそ」と思い捨つること、浅ましき事なり。仏法は身を捨てて望み求むる心より信を得ることなり。」(194)
(意味)
蓮如上人がある時、このように仰った。「善知識の言動を見て、「あのようになりたい」と思って、求める人は信(善知識と同じ心)を得ることができる。「あの人は救われた人だから、このようなことができるのだ」と自分には真似はできないと諦めている人は、浅ましい人である。仏法とは今まで自分のプライドや価値観やこういう風に生きてきたという自負を捨てて、教えに従い、望み求める心から信が得られるものなのです。
(解説)
善知識とはなぜこのように行動できるのか。私たちから見ると善知識の言動は、自分にはとても真似ができない。雲の上のような存在に見えるものです。
では、そういうとても私たちには真似ができない素晴らしい道を進まれる善知識は、始めから素晴らしい生き方ができていたか、と言えば、そうではない。
善知識と言っても、始めは私たちと余り変わらない存在だった。嫌なことがあったら、逃げ出すし、苦しいことには弱音を吐く。辛いことを少しでも避けて楽に生きたいと思っている人だった。素晴らしい人を見ては自分にはとてもできないと落ち込んだり、努力をしなさいと言われると自分ほど頑張っている人はないと自惚れるもの。こんなものが善知識の出発点。だけど、善知識と私たちとは何が違ったのか。それは努力が違う。善知識はコツコツと努力を続けた。できないことにぶつかって、投げだしそうになっても、実際に逃げ出すことがあったとしても、それでも、やっぱり諦めることはできないと、現実と向き合った。そうやって、コツコツと何年も何十年も努力を続けていった。善知識の今の素晴らしい生き方はその努力の結晶。それを見て、ああ、この人は善知識だから、こんなことができるのだと思う人は、善知識が今までどんな道を進んできたか知らない人。善知識と言っても始めは私たちと同じ。でも、誰よりも泣いて、誰よりも苦しんで、誰よりも後悔して、一歩一歩前に進んできただけ。善知識とは私たちの到底真似のできない道を進んできた訳ではない。私たちでも進んでゆける道を進んできただけ。でも、それをどんなに現実が苦しくても、逃げ出すことができず、諦めることもできず、泣いて泣いて進んできただけ。それを善知識だから進んできたと言う人は、まるで何も善知識が苦しむことなく、この人は特別な存在だから、できたのだと思っている人。このような人は自分が苦しくなるとすぐに投げ出す。こんな道、誰も進むことはできないと愚痴を吐く。自分の人生でありながら、責任を取ろうとは思ってない人。だから、蓮如上人は浅ましき事なりと言われている。つまり、あなた何を寝とぼけている。人生に楽な道など存在しない。楽な道を進んでいる人などいない。それを善知識だから進めたのだと思っている人は、自分の人生に苦しいことがあると、こんなに苦しむのはおかしいと思ってしまう。何か自分が悪いことをしたから、苦しんでいるのだと決めつけて、自分を責めたり、他人を責めたりする。でも、違う。人生とは苦しむもの、悩むもの。それが当たり前。そうやって悩んで悩んで、生きてゆくから人生なんです。悩むことのない人生は、現実と向き合うことのない人生。そんな人の人生には何もない。何も得るものない。何も喜びもない。何も幸せもない。善知識はただ自分の人生を諦めなかっただけ。自分の納得できる生き方を追求しただけ。納得できる生き方をしたいと思ったら、人生悩まずにはおれないのです。なぜなら、人生は思い通りにはならないから。苦しみや悩みの波が次から次へとやってくるから。それが人生。でも、善知識はそんな人生をまっすぐに生きてきた。まっすぐに生きるとは、失敗するということ。多くの人は失敗を怖れる余り、現実と向き合うことから逃げる。自分が傷つかないように、保身に走る。でも、そんな保身に走っても、そこには満足がない。ただ時間が流れてゆくだけ。善知識は誰よりもそんな時間の過ごし方は無駄だと思っている。だから、失敗してもまっすぐに生きる。まっすぐに生きたら失敗する。しかも、全力で失敗したら、深く傷つく。そして、泣く。でも、泣いたら、また、前に進む。前に進むとまた失敗する。失敗したら、また泣く。そうやって泣いて泣いて進んでゆくのが人生。でも、善知識はまっすぐに生きることを諦めない。なぜなら、自分の人生から逃げることができないから。善知識と私たちの違いはそれだけ。私たちは逃げることができる。でも、善知識は逃げることができない。逃げることができない分だけ、傷つくし、失敗もする。そして、失敗したら泣いてしまう。それでも、善知識は信心があるから逃げることができない。落ち込んでも、もうダメだと逃げ出したくなっても、信心があるから逃げることができない。だから、無理矢理にでも、前に進む。後ろに向きながら、前に進まずにはおれない。なぜなら、押し出されるから。それが信心の働き。その人生は泣いて泣いて進む道。でも、仏法があるから、その涙が喜びとなる。仏法がなければ、善知識の人生は苦しみの人生。誰よりも苦しみ悩む人生となる。でも、仏法があるから、そんな苦しみ悩みの人生も喜び一杯幸せ一杯で生きてゆくことができる。だから、善知識はちっとも不幸ではない。人生は悩むから成長する。苦しむから相手の悲しみが分かるようになる。人生経験を積んだ分だけ、懐が大きくなる。それはすべて努力の結晶。だから、そんな善知識を見て、あの人は特別な人だと思う人は、善知識の今だけを見て、過去を見ていない人。過去を知ったならば、「ああ、この人は本当に努力をしてきたのだな」と分かる。分かるからこそ、自分も同じように努力したいと思う。善知識とは誰もが進める道を進んできた人。特別な能力がある人だけが進める道を進んできたのではない。誰もが進める道を誰よりも逃げることができず、泣きながら進んできた人。そういう人の生き方に触れたならば、自分も同じように努力したいと必ず思う。なぜなら、自分も頑張ったら、善知識のようになれると思うから。思うから、「あの人のようになりたい」と思えるのです。だから、蓮如上人は善知識を見て、あの人になりたいと思う人は、善知識と同じ心になれる人だと言われているのです。

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