御一代記聞書 無条件服従

善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさましきことなり。なにたる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ずべし。(192)
善知識の教えに対して、やる前から、自分には“できない”と諦めて、やろうともしないことは、とんでもない間違いである。たとえ自分ではとてもできないと思うようなことであっても、教えに対して、“まず、やってみよう”と実践してゆくことが大切なのだ。
(解説)
ここで、蓮如上人は、善知識の仰せに対して、自分にはできないと思うようなことであっても、始めから、自分にはできないからやらないと諦めるのではなく、まず、できると思ってやりなさいと勧めておられます。これは何故かと言えば、仏教は聞思修の教えだからです。聞思修とは、聞とは、仏法の教えを聞くこと。聴聞。仏法にどんな教えが説かれているか、よく聞いて頭で納得すること。
次に、思とは、頭で納得した仏法の教えを我が身に引き当てて、自分だったらどういうことを言われているのだろうかと考えること。例えば、整理の話を聞いたならば、整理とは“こういうことなんだ”と頭で理解して終わりではなく、自分の持ち物の中で、まだ整理できていないものはないだろうか、と考える。これが思。そして、考えたら、今度は実践に移す。これが修。ここで大事なことは、実践するのは、教えを深く理解する為。例えば、整理の話ならば、整理とは、どういうことか、教えを聞いて、頭で納得しただけでは分からない。だから、実践に移す。つまり、実際に使わない物を捨ててみる。ここで捨てるのは、整理とは何かを知る為。頭でどんなに理解しても、それで整理が分かったということではない。仏教とは離言真如。離言真如とは、仏教で説かれる真理(真如)とは、言葉を離れたもの。だから、どんなに言葉で説明しても、それだけでは、仏教で教えられる真理は分からない。その真理の中に整理も含まれる。その為に、どんなに仏法を聞いて、整理とはこういうことなんだと頭で理解しても、それだけでは整理は分からないのです。だから、実践をする。実践をするのは、整理とは何かを知る為。言われた通りにやっていれば仏教が知らされる訳ではない。言われた通りにやるのが、仏教ではない。言われた通りにやるとは、それを実践すれば、前に進むだろうと思ってやっていること。つまり、教えの通り、実践することによって、仏教という道を進んでゴールに到達できると思っている。この発想自体が間違い。この発想を持っているので、一つの話を聞いて、それを理解したら、次の話を聞いて、そうやって、次々と話を聞いてゆけば、いつかゴールに到達すると思っている。しかし、このような道が仏教ではない。では、仏法を求めるとは、どういうことか。それはジグソーパズルを完成させてゆくようなもの。ジグソーパズルの一つ一つのピースが、教えの一つ一つ。整理もその一つ。その一つを深く理解することによって、一つのピースが手に入る。だから、仏教を聞いてゆくということは、まず、ジグソーパズルのピースを手に入れること。でも、どんなにたくさんのピースを手に入れても一つ一つがバラバラだと、絵が完成することはないように、どんなに一つ一つの仏教の教えを理解しても、それだけでは仏教とは何かが分からない。だから、次にバラバラのピースをつなげてゆくという作業が始まる。つなげるとは、この教えとこの教えはどんな関係かを考えること。つなげてゆくと、段々と仏教という絵が見えてくる。それは全部のピースを集めなくても、今まで集めたピースをつなげて仏教という絵が何となく分かれば、その時、“仏教とはこういう教えなんだ”と分かる。それが悟りを開いた時。だから、勘のいい人ならば、わずかのピースだけでも、仏教とは何かが分かるし、どんなに鈍臭い人でも、ピースをすべて集めれば分かる。でも、大事なことはピースを一つも持っていなければ、絶対に仏教は分からないということ。だから、仏教をどれだけたくさん聞いても、一つのことを深く理解しなければ意味がない。その為に実践をするのです。つまり、仏教とは言われたことができなければ意味がないという教えではない。できなければできないで、何かが知らされる。その知らされたことが、言われたことができるようになることよりも大事なことなのです。でも、できる、できないということにとらわれている人は、善知識の教えに対して、“できない”と始めから諦める。つまり、できないことは、やっても意味がないと思っているのです。これは根本的に仏教が分かってない。だから、蓮如上人は大なる浅間しきことだと言われたのです。つまり、仏教とは何かが全く分かっていない。仏教とは言われたことをやる教えではない。言われたことを実践することを通して、言葉にならない真理を体得することが目的。だから、できないと思うようなことでもやってみようと思うことが大事なのです。そうやって、やってみることによって、知らされることがある。その知らされたことが大事なのです。でも、始めから、どうせやっても、できないと思って諦めていたら、どんなに実践しても、何も知らされない。だから、蓮如上人はできないと思うようなことがあっても、まず、できると思ってやりなさいと勧められたのです。つまり、私たちが教えを実践するのは、言われたことをやる為でもなければ、できるようにすることでもない。仏教で教えられる真理。それは言葉で表すことのできないものだから、その言葉に表すことのできない真理を体得する為に実践してゆくのです。

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