謗るまじたとえ咎ある人なれど

謗るまじたとえ咎ある人なれど我が過ちはそれに勝れりの意味を教えて下さい。
まず、始めの“謗るまじ”とは、謗ってはならないということ。謗るとは、自分は正しい所に立って、悪いことをした人や間違ったことをした人を責めること。そして、その間違いを正すこと。また、その存在を否定することを言います。
ここで大事なことは謗ることができるのは、自分は善人だと思っているから。善人は悪人を責めてもいいと思っているから、悪いことをした人を謗るのです。でも、この歌は、そうやって悪いことをした人を見て謗る人に対して、たとえ相手が罪を犯したものであっても、謗ってはなりませんと教えられている。
では、どうしてこのように言われるのか。それはこの後、“我が過ちはそれに勝れり”とあるように、罪を犯したものよりも、自分の方が積み深いからだと教えられています。
こういう風に聞くと、罪を犯したものよりも、自分の方が罪が重いなんて、おかしいではないかと感じるでしょう。では、どうして私の方が罪が重いと言えるのでしょうか。
私たちは悪人を見たとき、「このような悪人がいるから、世の中が悪くなるのだ。だから、こんな悪人が世の中からいなくなれば、もっと世の中は良くなる。」と思います。また、罪のないものが殺されるような痛ましい事件を見ると、もっと厳しい罰を与えたならば、世の中から犯罪が無くなるのではないかと思っています。このように私たちは悪に対して容赦なく責めて、排除することは正しいことであり、それは善いことなんだと思うこと。これを仏教では浄の妄念と言います。
浄とは浄らかであるということ。この反対が醜いとか、汚いとか、悪いとかということ。私たちは醜いものや汚いもの、そして悪いものは人から嫌われ、見捨てられると思っているので、この醜さや汚さ、悪いものから離れて浄らかになりたいと思っている。だから、醜いものや汚いものを見たら、容赦なく切り捨てようとします。そして、切り捨てることによって、自分は浄らかな人間になろうとするのです。これが浄の妄念。妄念とは、迷い。真実から言ったならば、このような浄らかになろうとすれば、するほど、心は醜く汚くなるのに、そのことが分からず、醜いものや汚いものや悪いものを切り捨てたら、自分はこれらのものから離れられるという迷いを浄の妄念と言います。
このように、相手が罪を犯したからと言って、その人の存在を悪いものだと決めつけて、排除しようとする心は、真実から言ったならば、罪を犯した人よりも、他人を傷つける恐ろしい心。だから、罪を犯した人を見て、謗る人に対して、謗ってなりませんよ。あなたこそ、その罪を犯した人よりも恐ろしい心を持っているのだからと戒めているお言葉なのです。
しかし、ここで大事なことは、このお言葉は小乗仏教のお言葉。小乗仏教とは形を問題にする教え。形を問題にするとは、仏教でこれは悪だと教えられたならば、これは悪いことだから、やってはならないと必死に悪いことをやめようとすること。これが形を問題にするということ。
だから、このお言葉を聞いたならば、罪を犯した人を謗ることは、罪を犯したものよりも恐ろしい罪になるのだから、他人を謗ることをやめようと思う。そして、今まで他人を謗っていた人は、自分は気づかずに、こんな恐ろしい罪を犯していたのだと、自分の悪を反省します。
でも、このように自分は今までこんな恐ろしい罪を犯してきたのだから、やめなさいと言われると、自分がやることは悪いことばかりなんだと感じて、こんな悪い人間はいない方がいいのではないかと思ってしまいます。
つまり、小乗仏教の教えには救いがないのです。それを聞いた人が自分はなんて悪い人間だと感じて、自分を責めるばかりで、そこに心が癒されることがない。だから、聞けば、聞くほど、じゃあ、私はどうしたいいのかと追いつめられてゆく。これが小乗仏教の教えです。
これに対して大乗仏教とは、心の教え。心の教えとは、心を問題にする教え。このお言葉でいうならば、罪を犯したものやそれを謗るものをこれは悪いことだから、やめなさいと頭ごなしに言うのではなく、どうしてこの人は罪を犯すようになったのか、また、どうしてこの人は罪を犯したものを謗るようになったのか。その心が生み出されるまでの過程を問題にする教えが心を問題にするということ。心を問題にしたならば、罪を犯す人は、その人が悪い人間だから、罪を犯したのではない。その人の魂がボロボロになって、傷ついているので、それを誤魔化して見えなくさせる為に、罪を犯したのだと分かる。また、その罪を犯したものを謗るものも、その人も今まで頑張ってきたから。でも、どんなに頑張っても、その努力を認めてもらえず、魂に深い悲しみが溜まってしまい。その為に、他の人の努力を認めることができず、少しでも間違っている所があると責めずにおれなくなってしまったのです。つまり、罪を犯すのも罪を犯した人を謗るのも、共に今まで頑張ってきたことを認めてもらえなかったから、その為に魂に悲しみが溜まってしまったからなのです。
人間には感情がある。どんなに罪を犯すことや罪を犯したものを謗ることが悪だと分かっても、それでやめられる訳ではない。そんな人間のどうしようもない感情を否定せず、認めてゆく教えが大乗仏教。だから、大乗仏教は相手を悪をしているからと言って、それを頭ごなしに悪いことだからやめなさいとは言わない。それよりも、この人はどうしてそんな罪を犯さずにはおれなくなってしまったのかを見つめ、その傷ついた心を癒してゆく。そうすることによって、自然とその人は自然と罪悪から離れ、少しでも幸せになろうとして努力を始めてゆく。
この“謗るまじ”のお言葉は小乗仏教の教えを明らかにしたお言葉であって、大乗仏教の教えではない。だから、これを読んでも苦しくなるだけで癒しがない。そのことを踏まえた上で、このお言葉を理解しなければならないと思います。

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