御一代記聞書 信をとれば身を捨てよ

「まことに、一人なりとも信をとるべきならば、身を捨てよ。それは、すたらぬ」と、仰せられ候う。
たった一人でも仏法を真剣に求める人がいるならば、自分の生活のことを考えずに、その人の為に時間をかけてあげなさい。それで生活に困ることはありません。
これは蓮如上人が仏法を伝えることに人生をかけている僧侶に対して仰有ったお言葉。
「たった一人でも仏法を真剣に求める人がいるならば、その人の為に時間をかけてあげなさい。それによって自分が生活してゆけるかどうか。自分が生きてゆけるかどうか。それを度外視してその人の為に人生をかけてあげなさい。そうしたならば、絶対に生活に困ることはないから。」
このように僧侶に対して教えられています。
僧侶と言っても人間だから、生きてゆく為にお金が必要。だから、どうしても、生活のことが心配で、僧侶として人生の目的をかけようとはなかなか思えない。どんなに仏法を伝えるということが素晴らしいことだと頭で分かっていても、いざ、僧侶として、人生の目的をかけてみようと思うと、「本当に生活してゆけるのかな。頂いたお布施だけで、生きてゆくことなんて、とてもできないのではないか、と怖じ気づく。それよりも無難に何処かに就職した方が安心して生きてゆける。別に僧侶にならなくても、他の仕事に就いても仏法は求めてゆける。僧侶だけが素晴らしい仕事ではないはずだ。」真面目に将来のことを考えれば考えるほど、自分の生活のことが問題になる。世の中、金じゃ無いと言っていても、やっぱり生きてゆく為にはお金が必要。それが安定して得られるかどうかも分からないのが、僧侶の道。本当に自分のようなものが進んでゆけるかどうか、不安になるのは当然のことです。そんな人に対し、蓮如上人は「あなたのことw一人でも必要としてくれる人がいるならば、その人の為に人生の目的をかけなさい。そうすれば、生活に困る事なんてありません。」と押し進めて下さっています。
こんなことを聞くと、生活に困らないと言っても最低限の生活は確保されるぐらいだろう。底辺の生活を確保して、毎日、我慢しながら生きてゆかなければならないのではないか。そんなことを想像する人もあるでしょう。
でも、本当に求めている人の為に、人生の目的をかけたならば、経済的にも恵まれないはずはありません。それは考えてもみて下さい。世の中に誰か一人でも、自分の為に人生の目的をかけてくれる人がいるでしょうか。もし、そんな人がいて、その人が貧しい思いをしながら、それでも自分の為に時間を割いてくれるとしたら、その人をそのままにしておくことができるでしょうか。もし、そんなことができる人がいるとしたら、その人は人間ではありません。どんな人であっても、「この人に貧しい思いをさせてはならない」と頑張って働くことでしょう。だから、生活に困ることなんてないのです。難しいのは僧侶として生活してゆくことではない。この人の為に人生をかけると思う心を起こすことです。この心がなかなか起きない。誰もが目が外に向いている。たとえ自分のことを必要としてくれている人がいたとしても、その人の為に時間をかけるよりも、欲を満たすことに時間を費やしてしまう。だから、この人の為に人生をかけるなんて、なかなか思えません。でも、考えてみたら、私たちは誰しも、自分のことを必要として欲しいと思うもの。だから、その為にみんな価値のあるものを求め、手に入れ、自信をつけている。そうやって、自分が価値のある人間になれば、みんなから必要とされると思っている。でも、そんなたくさんの人から必要とされたいと求めるよりも、まず目の前の一人に目を向け、その人から必要とされるように努力ことの方がずっと大切なことなのです。自分のことを必要としてくれる人がいることは幸せなことです。それがたった一人であったとしても、その人は私のことを必要としてくれる。その人を大事にしなくて、どうして他の人から大事にされることがあるでしょうか。そんなことある訳がないのです。その反対に本当に一人の人を大事にできたならば、段々と二人、三人と私のことを必要としてくれる人が現れてくる。そして、その人たちを大事にしたら、その相手から大事にされるので、段々と経済的にも豊かになる。まず、一人です。その一人にさえもちゃんと向き合うことができないならば、それよりも多くの人と向き合い、人間関係を築いてゆくことなど、とてもできません。
ここで、気をつけなければならないことは、一生懸命相手に尽くせば、“それは廃らぬ”。つまり、生活の心配はない、という訳ではありません。蓮如上人はあくまでも、自分のことを一人でも必要としてくれているならば、その人の為に人生をかけなさいと言われています。必要としてくれなければ、その人の為に、どんなに頑張ったとしても相手は当たり前になるだけで意味がありません。こちらから、この人はこういうことを望んでいるのだろうなと思って、察して動いてあげることが、世の中では美徳とされているが、ここで必要とされるということ、ちゃんと言葉で頼まれること。頭を下げてもらうこと。それが必要とされるということです。そういう人が現れたならば、その人の為に人生をかけなさい。そうすれば、生活の心配はいらない、と教えられているのです。もちろん、そんな人はなかなかいないものです。でも、もしいたならば、その人の為に人生をかけても惜しくはないのです。まず一人。その一人の為に人生をかけてゆく。その一人とは自分のことを必要としてくれている人。世の中、自分のことを当てにする日東亜利用する人が多い中で、必要としてくれる人が一人でもいることは嬉しいことではありませんか。その自分のことを必要としてくれる一人の期待を裏切らないことが私たちが孤独な人生を離れ、幸せになる為にも必要なことなのです。

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