御一代記聞書 蒔きたてが悪し

 蓮如上人、法敬に対して仰せられ候う。「まきたてという物、知りたるか」と。法敬、御返事に、「ま*875きたてとあって、一度まきて、手をささぬ物に候う」と、申され候う。仰せに云わく、「それぞ、まきたてが、わろきなり。人になおされまじきと思う心なり。心中をば申し出だして、人になおされ候わでは、心得のなおること、あるべからず。まきたては、信をとることあるべからず」と、仰せられ候うと云々(107)
蓮如上人が法敬というお弟子に対して、こう尋ねられた。
「そなた、蒔きっぱなしということを死っているか。」
法敬はそれに対し、
「蒔きっぱなしというのは、仏法の教えを自分勝手に解釈して実践している人のこと。どんなにタネを蒔いていても、『ここが良くなかったのではないか。』『ここが間違っていたのではないか』と反省することのない人のことです。」と答えた。
蓮如上人、それに対し、
「そうだ。蒔きっぱなしが悪いのだ。それこそ人に直されたくないと思う心である。心の中のことを打ち明けて、人に直してもらわなければ、その心得が直るということはないのだ。このように蒔きっぱなしの人は信をとることはできない。」と仰有ったのでした。
(解説)
蓮如上人は法敬というお弟子に対してこう尋ねられた。
「そなた、蒔きっぱなしということを知っているか」
それに対して法敬は
「蒔きっぱなしというのは仏法の教えを自分勝手に解釈して甚世因している人のことであり、どんなにタネを蒔いていても、『ここが良くなかったのではないか』とか、『ここが間違っていたのではないか』と反省することのない人のことである」と答えています。
この蒔きっぱなしとは、自分のやっていることに対して疑問を起こさずに、「私は言われた通りにやっている。それとも、私はやっていないというのですか!そう言われるならば、やりたくありません。」と正しい所似たって、教えを実践している人のことです。
仏教の教えというのは、木像を彫るように真理が知らされてゆきます。まず、大雑把に輪郭を掘る。頭ならだいたいこんな感じ。体ならばこんな感じと言う風に。そうやって輪郭を彫ったら完成ではない。次に細かく彫ってゆく。これで何となく形が分かってくる。でも、顔なら表情は分からない。そこで最後に、目とか鼻とか、口を彫ってゆく。そうやって何度も何度も手を入れてゆくことによって木像は完成してゆく。
仏法の教えもそう。仏法の教えを聞いて実践しても最初は真理は分からない。何度もハンス婦負して、ここが間違っていない、ここが分かっていなかった。そう知らされて、手を加えてゆく。
それでも同じことを繰り返しているように感じることもある。これも流転輪廻という真理が知らされている証拠。流転輪廻している人は流転輪廻していることに気付かない。だから、いつまでも流転輪廻をしている。流転輪廻に気付けば、同じことをしていることが苦しくなる。だから、やまてゆけるのです。仏法はこのように実践してゆくことによって少しずつ知らされる。その知らされ方は間違っていた。間違っていたと知らされる。正しかった、正しかったと知らされることはありません。その間違っていたというのが、木像でいうと一彫り、手を加えるということ。その繰り返しによって真理という木像が出来上がる。最初は何が何だか分からなかったものが、段々と仏教とはこういう教えなんだと分かっていく。間違いを知らされてゆくことによって、仏教とは何かが分かってゆく。
それが蒔きっぱなしというのは、自分は分かっているという所に立って、教えを実践している。
分かっているというのは、私は間違っていない、私は善知識の言われた通りに実践している。それが間違っていると言われる、聞いてなかったと言われているように感じる。だから、反発する。これは間違いです。何が間違っているのかと言えば、ちゃんと聞いて、ちゃんと実践したから、間違いが見えてきたのです。この間違いが木像でいうと次の一彫り。何も実践していない人が間違いに気付くことはありません。ちゃんと聞いて、ちゃんと実践した人が間違いが知らされる。この間違いは実践する前は、もう気付くことはできない間違い。実践したからこそ、知らされる間違いなのです。
だから、実践すればするほど、知らされることが増える。だから、間違いを知らされても、私は駄目だと落ち込む必要はない。だって、私たちは間違いだらけの人間です。それをもう間違わないと思うのは、自分は仏だと言っているようなもの。仏になるまでは、何度も間違いだったと知らされるのです。だから、間違いだと知らされたからと言って、今までやってきたことは無駄だったと思う必要はない。この間違いに気付く為に今までやってきたことが必要だったのです。それを早く安心したい。もう、これで終わりにしたい。そう思う心が安楽イスと言われるものです。安楽イスとは求道をストップさせるもの。「これで大丈夫。もう分かった」と安心すると、もう進んでいるようで進んでいない。どれだけ聴聞しても何も知らされない。そのまま地獄へ堕ちてゆきます。
だから、善知識は安楽イスに腰掛けることを悪いと言われる。ここでは安楽イスとは舞いっぱなし。この蒔きっぱなしとは、人に直されたくないと言う心。人に直されるというのは無常。無常が起きると不安になる。その不安を少しずつ取り除いてゆくのが、仏法を求めるということ。不安を取り除くことによって、心は安定する。同じような無常が起きても不安にならなくなる。そうやって心が一つ強くなる。このように無常になっては不安を起こし、それを取り除いてもらう。無常になっては不安を起こし、それを取り除いてもらう。これを繰り返してゆくことによって、最後は死さえも不安ではなくなる。つまり、不安になることは私たちが苦しみから離れる為に必要なこと。だから、不安が来ることは良かったことなのです。でも、私たちはそう思えない。それは不安になった時に支えてくれる人がいなかったから。だから、不安になると、そのまま心が崩れてしまう。そのために不安になるのが恐ろしくなって、我という殻に閉じこもってしまったのです。つまり、我の強い人はそれだけ孤独な人。不安になっても支えてくれる人がいない人なのです。だから、我の強い人はそれだけ不安な人とも言える。心の中にたくさんの不安を抱えて苦しんでいる人とも言える。その不安が漏れないように必死になって、正しい所に自分を立たせているのです。でも、そんな必死な努力も死を目の前にすると、風船がパンと割れるように、不安が爆発する。もうその不安によって怒りの海に変わってしまうのです。自分も相手も切り刻まずにはおれない。恨まずにはおれない。嘆かずにはおれない。自分の心そんな地獄の業火で燃やすのです。だから、そんな不安を抱えていないで、話なさい。そして、人に直してもらいなさい。そんなことをしたら不安になってしまう。それを恐れるのは当然のことです。でも、その心こそ、阿弥陀仏の本願を疑う疑情。私たちを苦しめる元凶なのです。だから、蓮如上人も蒔きっぱなしとうのば信を取ることはできないと言われているのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました