御一代記聞書 仏法の為ならば

 蓮如上人、仰せられ候う。「仏法のためと思し召し候えば、なにたる御辛労をも御辛労とは思し召されぬ」由、仰せられ候う。御心まめにて、何事も御沙汰候う由なり。(127)
蓮如上人がこう仰有った。
「仏法の為だと思ったならば、どんな苦労も、苦労とは思わない」そう仰有って、何事も面倒臭いとは思わずに自ら進んでやってゆかれた。
(解説)
仏法の為とは弥陀尾ゴンに報いる為ということ。恩に報いるとはどういうことか。例えば親の恩に報いるとはお世話になった両親に、色々おいしいものを食べさせ、介護してあげることではない。自分が親からしてもらったことを子供の為にしてあげること。それが親の恩に報いること。そうすることによって、親の気持ちが分かる。親となって初めて知る親心ということわざもある。
小友の時は親がどんな苦労をしてきたから分からない。自分も同じ苦労をしてみて初めて親もこんな苦労をしてきたのか。親はこんな気持ちだったのかなと分かってくる。そういう意味で子供の為に苦労することは、自分がどれだけ親から大事にされてきたかが知らされるので幸せなことです。これは善知識も同じ。善知識は苦労することによって、過去世自分がどんなに仏様からお世話になったか知らされる。因果応報。自分がやってこなかったことは、自分にはやってきません。たとえ今生やっていなかったとしても、過去世やっていたから、今、その報い自分にやってくるのです。苦しみがやってくることは不幸なことではありません。自分の為に苦労してくれた人の存在を知る有難いご縁なのです。
蓮如上人も苦労ができて、幸せだなーと思っておられたのだと思います。こんなにも私は大事にされて、ここまで導いてもらったんだなと喜ばずにおれなかったと思うのです。
仏教とは、知恩、感恩、報恩の教え。
恩を知るから幸せなんです。どんなに経済的に恵まれていても、物質的に何不自由なく暮らしていても、何でも欲しいものが買えたとしても、恩を知らないものは不幸な人なのです。その人の心はいつも寂しい。何をしても、どこへ言っても、心は虚しく孤独な人なのです。幸せとは、自分は人ではないのだと思う心。自分は大事にされてきたのだと知っている人。それは恩を知らなければできないことなのです。

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