御一代記聞書 心がけ一つ

遠きは近き道理、近きは遠き道理なり。灯台もと暗しとて仏法不断聴聞申す身は、御用を厚く蒙りて、「いつものこと」と思い、法儀におろそかなり。遠く候人は、仏法聞きたく、大切に求むる心あるなり。仏法は大切に求むるより聞くものなり。(129)
(意味)
遠いということは近いということ。近いということは遠いということ。これが道理である。遠くを照らす灯台もその足元は暗いように、いつでも聴聞できる環境にいる人は、恵まれた環境にいながら、その環境が当たり前だと思い、「いつでも聞きたいと思ったら聞かせてもらえる」と思って、いい加減な聞き方しかできない。だから、近い人ほど、救いに遠いのである。それに対して、仏法を聞きたくても、すぐに聞けない環境にいる人は、仏法を聞きたいと思っても苦労しなければ聞くことができない。だから、一回のご縁を大切に求めようとする。これが遠いということは救いに近いということ。だけど、仏法というのは、環境的に遠いか近いかということは関係なく、どれだけこのご縁がかけがえのない大切なものであるかという噛みしめて、聞かなければならないものである。
(解説)
遠いということは近いということ。近いということは遠いということ。一見すると逆説のようなこのお言葉。でも、これこそ、この世に真理を貫いている。
私たちは、仏法をいつでも聞かせて頂ける環境になったら、今まで以上に信仰が進むと思っている。
でも、この蓮如上人のお言葉は、そうやって、いつでも聞ける環境にいる人は、返って、聞けるのが当たり前になってしまい、聞いていながら、聞けてない人なんだと教えられている。
こういう人は、どこに現れるか。蓮如上人は法儀に現れるとズバリ答えられている。法儀とは、聴聞姿勢。聴聞をしている時の姿勢にその人の心が現れると言われているのです。
聴聞している時に、他事を考えたり、眠そうに聞いたり、他のことをしていたり、猫背になったり、その人の聞く姿勢がいい加減になるのは、その人の心が形となって現れたもの。
どんなに頭では大切に求めなければならないと分かっていても、心は正直に形に現れる。いい加減な気持ちで聞いている人は、いい加減な聞き方しかできない。それはそのまま聴聞姿勢に現れる。
一概に姿形を見て、その人のすべてを判断することはできないが、聴聞だけは、聴聞姿勢でその人の心がよく分かる。なぜなら、聴聞とは、その人の真実が明らかになるから。だから、自分の人生から逃げている人は、聴聞をどんなに真面目に聞こうと思っても、聞いているうちに、無意識のうちに見たくない真実が見えてくる。だから、自然と聴聞姿勢が悪くなる。ウトウトと眠くなる。身体をビシっと留めておくことはできない。それはその人自身が人生から逃げているから。
聴聞姿勢とは人生に対する姿勢。
仏法とは真面目に自分の現実と向き合おうとしている人しか聞けない。そうやって、現実と向き合うと、色々、人生には苦しみや悩み、また、簡単には解決できない問題が見えてくる。多くの人はそんな問題に蓋をして見ないように生きている。特に善知識のお膝元にいる人は、問題があった時には、善知識がその問題を対処して解決してくれると思っている。だから、近い人ほど、善知識に甘える。この善知識さえいれば、大丈夫と自分で努力することが無くなる。
こんな気持ちで聞いているから、仏法がおろそかになる。仏法をおろそかにするのは、自分にやってくる現実は自分で乗り越えなければならないと思っていないから。または、仏法の力がなくても、自分の力で何でも問題を解決できると自惚れているから。
両方とも、現実から逃げている人。現実と向き合ったならば、自分の力ではとても乗り越えることができないと知らされる。その時に、もうダメだと簡単に諦める人は、自分の人生を生きていない。まるで他人の為に人生を生きていると思っている人。自分の人生だと思っていなから、思い通りにならないと、もうダメだと簡単に投げ出す。また、自分が全部対処しなければならないと思って、抱えきれないほどの問題を抱え込んで、にっちもさっちもいかない人も自分の人生を真面目に生きてない人。そういう人は、たくさんの問題を抱え込んで、身も心もボロボロにしてゆく。自分の人生を生きている人は、自分を大事にする人。自分の人生を犠牲にできる人は、その犠牲にした結果を自分が最後まで責任を取らなければならないとは思ってない。自分を犠牲にできる人は、自分が頑張ったら、後は誰かがやってくれると他人任せにしている人でもある。自分が最後まで責任を取らなければならないと思っていたら、自分が抜けたら、誰も自分の代わりはできないと知っている。だから、自分を大事にする。
自分を簡単に粗末にできるのは、自分の代わりはいくらでもいると思っている証拠。つまり、自分が抜けても、誰かが自分の代わりを努めてくれると他人をあてにしている人でもある。こういう人は自分の人生を生きていない人。自分の人生を生きている人は自分のやったことに責任を取る。やりっぱなしで放置することはしない。たとえ自分の身体が病気になったとしても、それを理由に、だから、できなくて当然なんだとは言わない。これが自分の人生を生きている人。でも、私たちは善知識の近くにいると、善知識が問題を対処してくれるので、この善知識さえいれば、大丈夫。何かあったら、善知識が何とかしてくれると甘えてしまう。それが、聴聞姿勢に現れる。自分で問題を対処しなければならないと思っていないから、仏法を真剣に聞こうとは思わない。
仏法とは現実と向き合い、そこで見えてくるどうにもならない問題をどうしたら解決することができるか。その問題を解決する為に聞くもの。だから、現実と向き合い、真剣に悩んでいる人ほど、真剣に仏法が聞ける。それは自分の力では、この問題は解決できないと知っているから。だから、仏法にその答えを求めるので、真剣に聞かずにはおれない。
でも、どんなに現実に色々な悩みを抱えていても、誰かが何とかしてくれると思っている人は、自分の問題に真面目に向き合おうとしない。向き合おうとしないから、現実を見せつける聴聞が真剣に聞けない。
聴聞中に、眠くなったり、身体を動かすのは、現実に悩みを抱えていながら、その現実から目をそらし逃げているため。そうやって、逃げている間に誰かが何とかしてくれると思っている。そういう人が聴聞すると現実が見せつけられるので、その場にじっとしておれなくなる。それは、現実が見えたら、その現実を対処するのは自分がしなければならないと分かるから。誰かが何とかしてくれるということはないと分かるから。そして、自分の力では解決できないと分かるから。だから、自分の問題から逃げたくなって、真実を誤魔化そうとして、眠くなったり、身体を動かして真剣に聞けなくさせる。これはいつでも聞ける人ほど、その傾向が強い。だから、近い人ほど、救いに遠いのです。
その反対に、聴聞環境が遠い人は現実に問題が起きても、自分で対処しなければならない。善知識が何とかしてくれるということはない。だから、近い人よりも現実とぶつかって、悩んだり、苦しんだりすることが多くなる。そして、誰かが何とかして欲しいと思いながら、誰も何とかしてくれず、自分でやって失敗することが多い。そう、遠い人ほど、人生経験を積んでゆくのです。もちろん、それは、現実と真面目に向き合った人だけで、どんなに遠い人であったとしても、現実から逃げている人は、苦しむだけで、そこに何も学ぶことはない。だから、仏法とは遠いとか、近いとかということは関係ない。大事なことは、どれだけ自分の人生と真面目に向き合っているか。どんなに苦しくても現実から目をそらさないか。そして、どうにもならない現実と向き合いながら、それでも、もうダメだと諦めることがないか。それが大事なことなのです。それは自分の人生だと思うから諦め切れない。どんな結果になったとしても、自分にやってきたものは自分が受けていかなければならないと覚悟していたら、現実の問題をいい加減に対処することはできない。でも、自分の力ではどうしようないから、現実を目の前にして悩むのです。この悩みこそ、人生にとって最も大事なもの。自分の人生だと思うから悩むのです。他人の為に生きていると思っている人は、悩むことはない。悩むことは苦しいこと。だから、みんな苦しみたくないから、現実から目をそらす。でも、どんなに目をそらしても、誰かが何とかしてくれる訳ではないので、現実に目を向けると、そこにはいつも問題がある。この問題、誰かがたとえ解決して現実には問題はなくなったとしても、自分の心は晴れることはない。結局、自分の心が変わらなければ、自分の心は楽になることはないのです。だから、現実と向き合うのは、他人でも善知識でもない。自分なのです。でも、現実と向き合うことは苦しいこと。そして、すぐに答えは出ない。そう、みんな苦しいとすぐに楽になりたいと思うが、現実には、そんなにすぐに解決できる問題はない。みんな時間がかかる。解決できるまで待たなければならない。悩まなければならない。苦しまなければならない。これを避けることはできない。でも、自分の力ではその苦しみを耐えてゆくことはできない。だから、聴聞するのです。聴聞してその答えを求めてゆくのです。求めてゆけば、そこに答えがある。仏法は自分の力では解決できない問題を仏法の力によって解決してゆく。そう思って、求めてゆくもの。だから、自分の人生を大事に思っている人ほど、仏法を大切に求めようと思う。それは、自分の人生を大事に思っている人ほど、どうにもならない現実に苦しみ、悩んでいるから。そして、その悩みを嫌なものだと思わず、これが自分の人生にとって大事なものだと思っている人でもある。人生に悩むから、人生は面白い。人生に悩まない人は、空っぽの人生を生きている人。どんなにそれは楽であっても、そこには何もない。何もない道を無難に進んでいるだけ。そんなの何も面白くない。人生とは悩むから、苦しむから、面白い。面白くないのは、仏法を知らないから。仏法を聞かないから。だから、悩みが喜びに変わらないのです。仏法とは人生の悩みを喜びに変える教え。だから、人生を真面目に生きる人ほど、仏法を真剣に聞かずにおれない人であり、この悩みや苦しみに満ちた人生を面白おかしく生きてゆく人でもあるのです。これがこの蓮如上人のこのお言葉の意味なのです。

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