私たちは何のために生きているのでしょうか?
孤独になると寂しくなり、人から認められると嬉しくなるのはどうしてでしょうか?
それは私たちは人と接し認められることによって、自然と存在価値を確認しているからです。
私たちは呼吸ををするように自分の存在価値を確認しながら、生きています。
存在価値を確認するとは、他人から自分を認めてもらうことによって、自分はここに存在していると感じること。
そして、相手が自分のことをどのように扱っているのかによって、自分はどれだけの価値のある存在かを知ること。
これを存在価値と言います。
私たちは自分一人では自分がここに存在しているか分からないので、他人から自分の存在を見てもらわなければ、自分はここに存在しているのだと感じて安心する事はできません。
たとえ自分がここに存在しても、まわりの人が自分のことを見てくれないと存在価値が感じられなくて不安になる。自分がここ存在しているのに、まるで存在していないような、透明人間のような存在に感じてしまう。
こうなると自分が存在しても、しなくても同じように感じて、生きていることが虚しくなる。そして、このような人は存在価値を感じる為に他人から認めてもらおうとするし、それはたとえ周りの人を傷つけてでも、自分がここに存在していることをアピールするようになります。
それほど私たちにとって自分の存在を他人から認めてもらうことは大事なことであり、それができないと不安になるものなのです。
つまり、私たちは何のために生きているのかと言えば、自分の存在を他人から認めてもらう為に生きていると言ってもいいのです。
人は一人では生きてゆけない。
だから、他人から認めてもらってない人は、無意識のうちに他人の目が自分に向くように自分の存在をアピールするようになります。
そして、アピールしても認めてもらえないと、どうして自分はこんなに頑張っているのに認めてくれないのかと腹が立ち、認めてくれないまわりの人たちに対して恨みを抱く人まで現れます。
しかし、自分がどんなに苦しんでいたとしても、それが分かってもらえないからと言って、あいつのせいで自分が苦しんでいるのだと恨むのは理不尽な話。
でも、このように恨んでしまうのは、それだけ私たちにとって他人から認めてもらうことは切実な問題であり、私たちの日々の行いというのは他人から認めてもらう為にあると言ってもいいからなのです。
例えば、相手に挨拶をしたのに、相手が挨拶を返してくれないと、
“せっかく挨拶をしたのに無視しなくてもいいじゃないか”
と釈然としないものが残ります。
本来、挨拶というのは、相手の為にするもの。たとえ相手から挨拶を返してくれなかったとしても、腹を立てるのはおかしなことですが、それでも挨拶を返してくれるのは当然だと思ってしまうのは、挨拶を返してもらうことによって、自分の存在価値を確認しているからなのです。
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