執着とは

仏教をちょっとでも学んでいる人なら、執着は悪いものだ。執着を少しでも減らしてゆかなければならない、と思うもの。
では、何が執着なのか。
例えば、自分が大事にしている家。
その家に少しでも留まりたいと思うことは執着に入るのか。こういう気持ちさえも否定するのが仏教なのか。そういう疑問を持つ人もいると思います。
では、執着とは何か。
執着とは現実にはもう無くなってしまったもの。
また、現実とは全く違うものに対して、その現実を認められずとらわれる心が執着です。
例えば、彼女に振られてしまった人が、その現実を認められず、彼女を追い求めて、ストーカーになってしまうこと。
また、整理をしなければならないと思って、洋服ダンスを見たとき。着ていないのに、高かったから捨てられないと言って、服を捨てられないのは、その服を残していても着ることがないという現実を認められないから。
つまり、残しておけばいつか着るのではないかと思っているから、その服を捨てられない。
これが執着。
執着とは一事が万事。
何かに執着して離れることができない人は、同時に他のことにも執着して離れることができない人でもある。そして、それは変わってしまった現実を受け入れることができず、苦しみを生み出す。
この苦しみは現実には変わってしまったことを受け止められず、そこにとらわれ続けることによって、生み出される苦しみ。
つまり、執着によって生み出されるものが苦しみだから、離れなければならない。
それは執着は悪いものだからと無理やり剥ぎ取るのではなく、現実をありのままに見せることによって、自然と離れてゆくもの。
先ほどの着ていない服で言ったならば、その服を着てないからと言って無理やり捨てるのではなく、なるべく着るように勧める。そうすることによって、着てみても、現実の自分が変わってしまっているので、似合わない。そして、そのことが分かることによって、現実を受け入れ、服を気持ちよく捨てることが出来るようになります。
これと同じようにすべての執着は現実をありのままに受け入れることによって自然と離れてゆくことができるし、苦しみからも離れることができるのです。

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