親鸞聖人ほど念仏をされた方はないと思う。念仏と言っても、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と口で唱えることではない。南無阿弥陀仏と唱えることで、少しでも阿弥陀仏の御心が知りたい、阿弥陀仏の御心を感じていたい。阿弥陀仏の御心をいつも感じていたい、そう思われて念仏を唱えておられたのだと思います。
それは、苦しんでいる人に阿弥陀仏がましますことを知ってもらいたいから、自分にとってこんなにも明らかな阿弥陀仏の御心。それを相手は知らないから、苦しんでいる。
だからこそ、知ってもらいたい、こんな阿弥陀仏がおられることを、どんな相手でも見捨てない、必ず救うと誓われている阿弥陀仏がおられることを。
親鸞が今心に思い浮かべている阿弥陀仏の御心があなたにも分かったならば、私は一人ではなかったんだと心から安心できるであろうに。
それが分からないから、見捨てられるのが怖くて価値にしがみついて、これだけ善をしてから、これだけ念仏をしたから、とやった善、唱えた念仏を力として、それによって価値のある人間になれたと思って、見捨てられないだろうと信じている。
でも、どんなにこの世で価値のあるものをしたり、価値のあることをしたとしても、それで得た価値は臨終で脆くも崩れ去る。価値のあるものすべてを置いて、力となるもの何一つもなく、丸裸で死んでゆかなければならない。
死んでゆく時には、やった善が何の力となろうか、唱えた念仏がなんの助けとなろうか。死出の旅路にたった一人でゆかなければならない。
そんな時、助けとなるのは、私のことを絶対に見捨てない存在。それが阿弥陀仏。阿弥陀仏だけが、私と一緒に死んだ後もついてきて下さる。
こんな明らかな阿弥陀仏がましますことを知って欲しい。あなたは一人じゃないんだ。そばにおられる方があるんだ。どんなことがあっても見捨てない方なんだ。
そんな阿弥陀仏の御心をあなたも知ったならば、どれだけか心強いか。
でも、あなたは分からないから、見捨てられることが怖くて、今も価値を求め続けている。知って欲しい阿弥陀仏がましますことを。どうしたら知ってもらえるか、どうしてら分かってもらえるか。
どうしたら、どうしたらという思いが念仏となって、いつもいつも阿弥陀仏のことを念じ続けておられたのだろうと思う。
悩みが念仏となる。もっと悩まなくてはいけないなあと思わずにおれません。
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