若不生者のちかひゆへ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならずさだまりぬ
阿弥陀仏が若不生者と命をかけて必ず浄土へ生まれさせると誓われているから、信楽まことだったと知らされる時が来るのだ。
ここで浄土に生まれさせると信楽の身になることとどう関係があるのか?信楽とは、阿弥陀仏の御心に触れ、心からこの心は素晴らしいと頭が下がること。この心になった人は、私も阿弥陀仏と同じ心になりたいという心が起きる。この阿弥陀仏と同じ心になりたいという心が阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいという心。阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいとは、阿弥陀仏の作った極楽浄土に生まれることではなく、阿弥陀仏と同じ世界を見ること。仏教は肉体よりも心を問題にする。だから、肉体がとこへ行くかが大事ではなく、心がどんな境地になるか?私たちは心で世界を見るから、どんなに素晴らしい環境にいたとしても、心が苦しんでいる人は、その幸せな世界にいなから、いつも不満で不平を言って苦しまなければならない。だから、阿弥陀仏の極楽浄土に往生するとは、阿弥陀仏と同じ心になること。阿弥陀仏と同じ心になれば、どんな世界も阿弥陀仏の極楽浄土に見える。だから、若不生者と必ず生まれさせると誓われていることは、阿弥陀仏と同じ心にして見せようという誓いなのです。それを聞いて私も同じ心になりたいと求めてゆく人に、信楽ということがあるのです。
ては、私も同じ心になりたいと求めていくことと、信楽になるとは、何が違うのか?
それはどんなに同じ心になりたいと求めても、その人は阿弥陀仏の御心は何か?本当の意味では分かりません。阿弥陀仏とはこんな心の方だろうと想像して、この心になりたいと求めてゆくしかありません。だから、肝心の阿弥陀仏の御心が分からないから、阿弥陀仏と同じ心になりたくても、本当の意味でどこに向かってゆけばいいか分かりません。
それに対して信楽の身になるとは、阿弥陀仏の御心を頂くので、頂いた阿弥陀仏の御心を通して、阿弥陀仏とはこんな素晴らしい心なんだと知ることができます。だから、阿弥陀仏の御心が分かるから、頂いた阿弥陀仏の御心のままに動かされることによって、私の心も阿弥陀仏と同じ心になれる。だから、信楽になった人は阿弥陀仏の極楽浄土に必ず生まれることができるのです。
だから、阿弥陀仏に救われても、自分の心は何も変わらなくても浄土に生まれさせると思っている人は、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれるという意味が分かってないのです。それは阿弥陀仏の作られた阿弥陀仏の極楽浄土へと私も生まれることができると思っている。それで幸せになれると思っている。これはどんでもない間違いです。阿弥陀仏の極楽浄土にたとえ生まれたとしても、私の煩悩にまみれた心で見たならば、それはやっぱり苦しみ渦巻く現実世界と何も変わりません。阿弥陀仏と同じ心になってこそ、阿弥陀仏と同じ幸せを味わうことができるのです。
この阿弥陀仏と同じ心になりたいという心が抜けているから、阿弥陀仏に救われてもいないのに、私は救われたと勘違いするものが現れるのです。その人は私は阿弥陀仏が必ず救うと誓われていることを信じたから、これが信心なんだと思っています。だから、自分の心から醜い心が起きても、こんな心でいいのだろうかと思う心が起きないのです。これは阿弥陀仏の救いを信じた方が楽だから信じているだけで、始めから阿弥陀仏と同じ心になれることなんてできないと諦めているのです。普通考えたら、阿弥陀仏と同じ心になれるなんてできません。それを必ずさせて見せると誓われたのが阿弥陀仏の本願なのです。
だから、阿弥陀仏から御心を頂かなければ、とても同じ心になれると思えないので、阿弥陀仏の御心を頂いた人だけが、阿弥陀仏と同じ心になれると信じられるのです。
それは一念のあっという間に頂くので、この心を頂くとこれが阿弥陀仏の御心なんだと知らされ、大きな喜びが起きて、阿弥陀仏の御心のままに人々の苦しみを取り除いていくので、必ず往生(阿弥陀仏と同じ心になる)することができるのです。
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