自分のことを醜いと思う人がいる。この醜いという心にとらわれる心が仏教で邪欲と言われる。
では、醜いという心はどこから生まれるのか?
それは妬みの心から生まれる。妬みとは、相手に良いところがあっても、その良いところを認めることができず、否定的に見ること。
例えば、相手が頭が良くて成績優秀だったとしても、「ふん、人間の価値は頭の良さで決まるものではない。人柄で決まるものだ」と思って、相手の良いところを認めようとはしない。
そうすると、じゃあ、自分はどうなんだと自分の起こした思いは自分へと跳ね返る。そして、当然、自分の中でこれは素晴らしいと認めることのできるレベルが上がる。そして、自分の作り出したこれぐらいできて当然というレベルは自分へと跳ね返り、そのレベルに自分自身が達していなければ、自分は何の価値もない意味のない存在のように思う。
じゃあ、自分の生み出したレベルになるところまで、努力して自分が頑張ればいいじゃないかと思うのだが、人間とは他人には厳しいが、自分には甘いもの。
自分はできていないことでも、できている所に立って、他人を責める。
でも、どんなに自分に甘くしようと思っても、他人に向けた刃な自分へと跳ね返る。だから、自分はどうなんだ、自分はどうなんだと声なき声が鳴り響く。
でも、その声に対して、挑戦してダメだった時に自分は何の価値もない存在なんだと否定されるのが、怖くて、挑戦することから逃げてしまい、頑張ることもしない。
そこから、心の中で言い訳や愚痴やできている人に対する妬みなどが吹き上がり、そんな心を見る度に、自分とはなんと醜い存在なのかと、つくづく自分が嫌になる。
人にはそれぞれ良いところがある。でも、その良いところを認められず、その人の欠点を見つけて、この人をダメな人間だと思うことは、自分を何もできない人間へと変えてしまうだけ。
挑戦したくても、挑戦するのが怖いから、心の中からは醜い心が吹き上がる。
他人の悪いところを見るのではなく、良いところを見てあげたいですね。
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