想像の死と現実の死は全然違う

多くの人は死んだら何もなくなると言いながら、本当になくなるとはどういうことか分かっていない。
なくなるというのは、生きていて自分が積み上げてきたものがすべて無駄になってしまうこと。勉強だって、将来役に立つと思って頑張っている。それが最後無駄になるとしたら、人は無駄になると分かっていて頑張ることはできない。最後死んですべてが終わってしまうとしたならば、その死に向かう人生は何をやっても無駄になるし、何をしても意味がないとなってしまう。だから、多くの人は死んだらすべてなくなると言いながら、自分が死ぬとは思っていない。
だから、本当に死ぬまで、みんな死は他人事だと思っている。自分が死ぬことでさえ他人事にしている。自分が死ぬとは思っていないから、死ぬと思っても、それは死んだらすべてなくなることだよねと平気で言えてしまう。それが自分にとって何を意味していることか夢にも思わない。そして、その日は突然来る。死ぬとは思ってない自分に死は容赦なく襲いかかる。そして、こんな筈ではなかったと本当の死を目の前にして苦しみながら死んでゆかなければならない。そうなっては手遅れ。だから、準備しなければならないのです。
《自分が死ぬとは思っていないから、心でどんな悪を造っても平気でおれる》
人間いよいよ死んでゆかなければならないとなると、自分の行く先が問題になる。
死んだらどこへ行くのか?
できれば、幸せな世界に生まれたい。この行く先は何が決めるのか。その時、私たちは今まで見ることはなかった自分の心に目を向ける。それは心で何を思っているのか。それが自分の心の世界を生み出してゆくから。
だから、死を目の前にすると、自分の心でどんなことを思ってきたか、それが問題になる。
では、死を目の前にして私たちはどんな心が見えるのだろうか。
それはいつも自分の欲を優先して思いを通してきた為にどれだけ他人を傷つけてきたか。また、思い通りにならない時は腹が立て、悪いのはいつも他人のせいだと、どれだけ他人を責めて苦しめてきたか。そして、いい人と思われたくて、他人前ではいい格好をしているが、心の中では他人には言えないような醜いこと、汚いこと、恐ろしいことを思い続けている。そんな心が相手に分かったならば、相手は自分のことをきっと嫌いになって離れてしまうのに、相手は心が見えないことをいいことに、そんなことを思いながら、ニコニコと他人に接してきた。そんな醜い愚痴を抱え続けてきたことが見えてくる。
自分の心に目を向ければ向けるほど、ろくな種まきをしていないことが知らされ、こんな心では自分の後生はどうなるのだろうかと恐れおののく。
心が世界を生み出し、自分の行く世界を決める。死を目の前にした人は、自分の行く先が不安になり、心を問題にせずにはおれなくなる。
私たちは死ぬまで、自分が死ぬとは思っていない。それはいつか死ななければならないと思ってはいても、それはまだまだ先のことであり、そうやって死を遠くに追いやることで、自分が本当に死ななければならないなんて、考えることなく、毎日過ごしている。
だから、死ぬとは思っていないし、死後が問題にならない。そして、死後が問題にならないから、自分の心に目を向けることもない。
その為、自分の心でどんなに汚い欲、恐ろしい怒り、醜い愚痴を起こしていても、気になることもなく、毎日当たり前のように悪を造り続けている。
まさに後生は一大事なのだが、本当に死ぬまで、心に目を向けることはない。
これが仏教で教えられる後生の一大事なのである。
《まわりの人は自分の分身》
自分の見ている世界は、自分の心によって生み出された世界。
自分の心から起こしたものが鏡のように自分に跳ね返り、自分を幸せにしたり、苦しめたりもする。
だから、どんなに他人から嫌な思いを受けたとしても、その相手を悪者にして責めたならば、それが鏡のように跳ね返り、自分を苦しめる。
他人を責めるのは、自分を責めているのと同じ。
この真理が分かったならば、もう他人を責めることはできなくなる。
それは自分がこれ以上苦しみたくはないから。
自分のまわりの人たちは、すべて自分なんだと思ったら、この世で許せない人なんていなくなるのだなと思いました。

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