小さい時に、自分の存在を否定されたり、無視されたりすると、人というものは、自分の存在を傷つけるものだと思うようになる。
だから、人と一緒にいると気を遣うから、自分の好きなことをする時は一人になりたいと思うようになる。そして、自分の好きなことをする時は、邪魔されたくないと思うし、邪魔された時は、目の前の人に対して責める心が起きる。
責めるとは、相手の存在を否定すること。そして、そうやって責めれば、相手は自分の言うことを聞くと思っている。
責めれば、人は言うことを聞くと思う心。これを仏教では偸盗という。それは自分も責められたくないから気を遣っているから。自分も気を遣っているから、相手も気を遣って当然だと思う。この心から相手を責める。
人に気を遣う人ほど、自分のことも責めるし、他人のことも責める。
それは迷惑をかけないように自分も気を遣うし、他人に対しても、自分が迷惑だと感じないように気を遣って当然だと思う。そして、自分が気を遣っている分だけ、自分にとって他人が迷惑だと感じたならば、責めずにはおれないし、それでも相手が変わらなかったならば、目の前からいなくなれと思ってしまう。
他人に気を遣うことは大切なことだが、それがどんな心でやるかによって、善ではなく、罪悪にもなってしまうのですね。
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