機の深信とは

よく機の深信とは、地獄一定の自分が知らされることだと聞く。
では、地獄一定の自分が知らされるとはどういうことか?
親鸞聖人は機の深信のお言葉として、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑してと言われた。
愛欲とは、愛してもらいたい、大事にしてもらいたい、認められたい、心をかけてもらいたい。いつも自分、自分で自分から離れられない心。
相手と一緒にいても、自分が無視されると、腹が立って、相手を責める心。自分が一人でいる時に、まわりで楽しい声が聞こえると、自分がこんなに寂しい思いをしているのに、声もかけてくれずに、楽しくしてるなんて酷いと相手の楽しみをぶち壊してやりたいという心。一緒にいるのに、声をかけてくれないと、自分の心の中で寂しいと思って、自分、自分と自分のことを見てもらいたいと訴える心。このようにいつも心の中で自分、自分と自分のことを見てもらうことしか考えてない心が愛欲。
まるで幼い子供のような心を抱えて生きているのが私たち。
そんな子供のような心を抱えているならば、自分の方から頭を下げて、自分のことを認めて下さいと近づいたらいいのに、プライドが邪魔をして、頭を下げることができない。
これが名利の大山。
自分が無視されたら、腹を立てて相手を責めるのに、無視されないように自分から近づいてゆかない。それは自分の中に自分とはこういう人間なんだという我があって、その我を崩さないように、いつも自分の心を隠し、自分のイメージした自分を演じている。
だから、愛欲を抱えて、自分のことを認めてもらいたい筈なのに、本当は誰か一緒にいてもらいたい筈なのに、自分一人で生きてゆけるように思っている。相手と人間関係がギクシャクした時に、相手とこんな気まずい関係は嫌だから、自分から頭を下げて仲良くしてらいいのに、自分は悪くない、悪いのは相手の方だ。自分が悪くないのに、どうして自分の方から謝らなくてはならないのかと頭を下げることができない心。これが名利の大山。
自分の感情を見たら、いつも誰かに一緒にいてもらいたい子供そのものなのに、大人ぶって、一人でも生きてゆけると思う心。
これが愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑してという意味。だから、自分のことが深く知らされれば知らされるほど、自分は幼い人間だなと思うし、そんな幼い自分の思いを大事にしてあげなくてはならないと思う。それなのに、馬鹿にされるのてはないか、見下されるのではないか、そんな相手の目が怖くて、また、自分は誰に頼らなくても生きてゆけるという強い自分という我を崩したくなくて、頭を下げて、自分が下になって、相手に近づいてゆくことができない。そんなちっぽけなプライドも捨てられない自分に迷惑しながら、それでも、少しずつ頭を下げて、自分から近づいてゆくようになる。
これが機の深信が知らされた人の姿なのです。

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