整理とは使っているものと使っていないものを分けて、使っていないものを捨てること。
ここで使っているとは、いつも使っているもののこと。
今、使っているものだけが、本当に自分にとって必要なもの。
それ以外は執着で自分の手元に置いておきたいと思っているだけ。
ここで執着とは何か?
執着とは心の穢れ。具体的には、自分の間違っている所を教えてもらっても、すぐに直そうとはせずに面倒臭いと思って後回しにする心。
心が穢れるとどうなるか。
まず、その人は豚になる。ブーブーブーと不満を言うようになる。どうしてこうしてくれないの。あーしてくれないのと愚痴がこぼれる。
これが穢れ始め。まわりの人の悪い所ばかりが目につき気になる。文句が多くなる。
これが穢れ始めの姿。
では、もっと穢れたらどうなるか。
その人は牛になる。
牛とは、何かお願いすると、モー、なんで私がやらないといけないと何もかも面倒臭くて、動きが遅くなる。自分の欲の為なら動いても、他人の為には面倒臭くて動かなくなる。それでもお願いすると、面倒臭いのに動かないといけないから、モー、モーと言いながら、面倒臭くて、心が重くなって動きが遅くなる。
これが本格的に穢れた状態。
それでは、もっと穢れたらどうなるか。こうなってしまうと、面倒臭くて、石のように欲以外何もしなくなる。それでなんで動いてくれないのかと文句を言おうもんなら、自分だって一生懸命頑張っているんだと、石を叩くとこちらの方が痛くなるように激しく反発してくる。
このように心が穢れると自分のことで心が一杯になり、やらなければならないことがあっても面倒臭くて、後回しにするようになる。
これが執着が溜まった姿であり、心が穢れるとこのようになってゆく。
心が穢れると頭でこれをしなければならないと分かっていても、面倒臭くて、何もかも後回しにしようとする。
一度こうなってしまうと、もう執着を断ち切り、使わないものを整理しない限り、穢れを取ることはできない。
つまり、整理とは心の穢れを知るバロメーター。
整理しないといけないと分かっていても、面倒臭くて出来ない人ほど、心が穢れている。
心が穢れている人は自分のことしか考えなくなる。
たとえ相手が自分の気持ちを分かって欲しくて訴えたとしても、いつも自分の欲を満たすことに一生懸命で忙しく、相手のことは全く考えない。
また、心が執着で埋め尽くされているから、いつも心に余裕がない。
余裕がないのでちょっとしたことで腹を立てる。少し思い通りにならないことがあると相手を責める。
そんな心が穢れた人は相手も見えてないし、自分のことも見えてないのである。
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