仏教を信じるとは因果の道理を信じるということ。
因果の道理とは、一言で言えば、自分の運命は自分の心によって生み出されるという教え。
未来の運命は決まってはいない。どんな運命になるのか。幸せになるのか、不幸になるのか。それは私の心で日々どんなことを思い続けているかによって決まる。これが因果の道理。
じゃあ、どんなことを思い続けていたら幸せになれるか?
それは仏教の言葉で言ったならば、我利我利を離れ、自利利他になること。
この我利我利とは、自分が幸せになる為には他人はどうなってもいいという心。
いつも自分だけ楽しめばいい、自分の欲を満たせたらいい、思い通りにしたい。その為に他人がどうなってもいいという心。
この我利我利の根底には、自分と他人は別物という考え方があります。だから、少しでも自分のものにしたい、自分の思い通りになったら幸せなんだと思って、自分のところに少しでも幸せをかき集めようとする。そして、このような心は貧しい心から生み出される。
貧しい心とは、他人に自分の得た財を施してしまったならば、自分の財が無くなって、自分は幸せを味わえなくなってしまうという心。
だから、この貧しい心を持っている人は、財をかき集めようとしますし、手に入れた財は自分の為にしか使いません。そして、心の貧しさはどれだけ財を手に入れても、豊かになることはないので、どんなにお金持ちになろうと、他人に施したら、自分の財は無くなってしまうという思いは消えることはありません。これが我利我利の心です。
このように我利我利の心を持っていると、どんなに財を得ても満たされることがありませんから、幸せな人を見ると、妬みの心を起こし、他人の幸せを喜ぶことができず、ぶち壊してやりたいと思うのです。
そして、他人の不幸を願うと、それは天に唾を吐いたように自分へと跳ね返り、どんなに幸せを得たとしても、その幸せをまわりの人は妬んでいるように感じて、喜ぶことができない。
だから、ますます他人のために施してやるものかと思うようになり、自分の為にしかお金や財を使わなくなるのです。
しかし、どんなにお金や財を使っても、それを一緒になって喜んでくれる人がいなければ、楽しむことはできません。だから、我利我利の人は、いつも寂しさを抱えながら、その寂しさを欲で誤魔化しながら、苦しみ続けなければならないのです。
それに対して自利利他の人とは、幸せは自分一人で味わっても喜べないことを知っています。だから、楽しみを一緒に味わいたいと思っても、他人は思うように自分に合わせてくれることはない。だから、自分がまず相手を喜ばしてあげて、それを一緒に楽しもうとするのです。
幸せとは一緒に味わってこそ、楽しい。だから、一緒に味わう為に自分がまず相手の喜ぶことに付き合ってあげるのです。そして、一緒に楽しむ。このような人は自分が幸せになりたいからこそ、まず自分のまわりの人を幸せにしてあげたいと思っています。そして、相手が楽しんでいる所に自分もいて、一緒に楽しむ。それが幸せな生き方だと知っているのです。
このように自利利他の生き方をする人は、いつも人に囲まれ、明るく生きてゆくことができるし、その人の未来も明るくなります。
幸せとは、如何に自分だけでなく、自分のまわりの人たちも幸せにするか。他人の幸せを考えてゆく人が幸せな未来になってゆくのですね。
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