我を崩してくれたことに感謝しなければならない

私たちは誰しも自分はこんな人間だというものを持っている。たとえば、自分は強い人間だとか、自分は善人とか、そんな自分を他人からも見てもらおうと演じている。
仏教では、この自分を我と言う。私たちはこの我を守り、崩さないように生きている。それは我以外の自分を知らないからだ。だから、私たちは我を崩さないように生きているし、我が崩れることを恐れている。
でも、仏教では、この我は本当の自分ではないから、臨終にはこの我が崩れ、心は真っ暗になり、怒り、悲しみ狂い、他人を責めては罪悪を造り、その報いで苦しまなければならないと教えられる。
我は本当の自分ではない。本当の自分とは、我が崩れてた時に吹き上がる感情の方。多くの人は感情を抑えている為に感情は醜く歪んでいる。だから、感情が吹き上がると醜い心を見せるので、他人から嫌われると思っている。だから、我が崩れて感情が吹き上がるのは悪いことだと思っているし、感情が吹き上がった時はそんな醜い感情を持っているものが自分だと思いたくはないので、あの人があんなことをしなければ、我が崩れることはなかったと他人を責める。その心は自分は悪くない、悪いのはこの我を崩した奴だと思っている。
でも、仏教から言ったならば、我を崩すことは悪いことではない。なぜなら今まで抑えていた感情が吹き上がるから。
大事なことは、吹き上がってきた感情を自分が否定しないこと。それよりも、抑えてしまってきた為に傷ついてしまったことをごめんねと謝ってあげる。
感情を傷つけたならば、その報いは後生受けてゆかなければならない。
この傷ついた感情に気づくこと。それが私たちが幸せになる為に必要なこと。だから、我を崩してくれたことにも感謝しなければなりませんね。

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