慶ばしき哉や、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す

『慶ばしき哉や、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す、深く如来の矜哀を知りて、良に師孝の恩厚を仰ぐ。
慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し、これによりて真宗の詮を抄し、浄土の要を拾う。唯仏恩の深きことを念じて人倫の嘲を恥じず。 もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん』
まず、始めの“慶ばしき哉”とは『慶ばしきことだ、嬉しいことだ』と親鸞聖人が喜んでおられるお言葉。では、どんなことが嬉しくて、“慶ばしき哉”と言われているのでしょうか。
たとえば、今までの間違った生活習慣から病気になり、思い通りに体を動かすことができず苦しんでいる人で言ったならば、この“慶ばしきかな”とは、「こんな不自由な体になったことが嬉しいなあ。」と喜ぶことであり、自分の身体を粗末にして肺炎にかかって入院した人ならば、「肺炎にかかって、慶ばしき哉や、嬉しいなあ。」と喜ぶことでもあります。
また、自分が何でもかんでも抱えてしまい、その結果、目まぐるしいほど仕事が大変になった人であれば、「こんな体の疲れが取れないほど忙しくなってしまって、嬉しいなあ。」と喜ぶことを言います。
こんなことを聞くと、そんな不幸や災難がやって来て、何が嬉しいのか、ちっとも嬉しくないのではないかと思われると思います。
しかし、この慶ばしき哉というお言葉は、苦しい事や、辛い事がやって来たことを喜んでおられるお言葉。普通の人ならば、不幸や災難が来て、苦しんている時に、それが嬉しいなあと思う事なんてありません。しかし、親鸞聖人は阿弥陀仏に救われ、心を弘誓の仏地に樹ったからこそ、不幸や災難を嘆くことなく、喜ぶことができたのです。
では、 “心を弘誓の仏地に樹つとは、どんな身になることなのでしょうか?
因果応報、自業自得は真実だから、どんなに目の前にやってくる現実から逃げたとしても、苦しみは影のようについてくる。だから、幸せになる為には現実と向き合い二河白道を進んでゆくしかない、と頭ではよく分かっていても、いざ、苦しみや困難がやってくると、すぐに心が崩れ、現実を誤魔化す為に欲の河や怒りの河に落ちてしまうものが私たち。
だから、私たちにとって苦しみや困難がやってくることは、自分を苦しめる災難としか感じられず、「こんな事が起きなかったら、良かったのに、」と、どうしても思ってしまうのです。
しかし、どんなに現実と向き合うことが嫌で逃げたとしても、現実は形を変えるだけで、自分の目の前にやってくる。そして、逃げれば逃げるほど、逃げれない所に追い詰められる。やがて、にっちもさっちも行かなくなって、現実と向き合わなければならなくなります。
そこは私たちから見たら、地獄としか思えないが、この場所こそ、二河白道のスタートライン。幸せになる為のたった一つの道であり、現実と向き合い、今まで生き方を反省して、苦しみから離れてゆく道でもあります。それは、スキップ、スキップ、ランランランと簡単に求めていける道ではない。これから何度、泣くか分からない。何度、落ち込むか分からない。それでも歯を食いしばって現実と向き合って進んでゆくのが二河白道。今までの自分だったら、“もうダメだ。自分に進めるような道ではなかった。”と進む前から投げ出していた。それが仏法を聞いてゆくことで、段々と現実と向き合えるようになってゆく。
これが“心を弘誓の仏地に樹つ”ということ。現実と向き合うことから逃げてばかりであった私たちが、逃げても苦しみは無くならないと知らされ、現実と向き合うしかないと心が定まった心の境地です。
そして、このように現実と向き合い、二河白道を進んでゆくことができる。これが“念を難思の法海に流す”ということ。難思の法海とは、阿弥陀仏の極楽浄土のこと。この浄土へは二河白道を進んでゆかなければ到達できない。しかし、それはとても人間の力では進めない道。それが阿弥陀仏のお力によって、まるで川の水が海へと流れてゆくように進んでゆける。そう思うと、“慶ばしき哉や”と喜ばずにおれないのです。
苦しい事や辛いことから逃げてきた私が、苦しいことにぶつかって、愚痴を吐きながらでも、仏法を聞きながら、一歩一歩二河白道を進んでいる。
ここまで来るまでには何度、この道をやめようと思ったか。また、挫けそうになったか。そして、この道を何度、逃げ出そうとしたか知れない。でも、この二河白道の道は何度逃げたとしても、また、ここに戻ってくる。どんなに遠回りをしても、最後は、ここに戻ってくるのです。
戻ってきて、何をするのか、もう一度やり直す。現実と向き合うしかないと諦めて進んでゆくのです。それで、また現実と向き合うのが苦しくて逃げてしまったならばらまた、やり直す。阿弥陀仏のお力によって、何度逃げても、また、同じ場所に戻って、命が続く限り、何度でもやり直すことが出来る。これはなんと慶ばしきことでしょうか。
こんなことを聞くとニヒリズムではないかと思う人もいるかも知れないが、これはニヒリズムではない。もし、何度もやり直すことがニヒリズムならば、また、同じ場所に戻ってくることは出来ないからです。
仏法を聞いてゆくことで、段々と現実と向き合うことができるようになる。次から次へと苦しみや困難がやってきて、思い通りに物事が進まなかったとしても、何とか現実と向き合い、一歩一歩進んでいる。
それは、かつての自分では考えられないこと。今まで苦しいことがあると現実と向き合うことが嫌で他人を責めてばかりいた人が、今は仏法の力で、現実と向き合って、一歩一歩、進んでいる。
こんな幸せなことが、この世にありますか。腹を立ててしまってもいいではないですか。愚痴を言ってもいいではないですか。それでも仏法を聞きながら、一歩一歩進んでいるのですから。
この道は先が見えない真っ暗な道ではない。この道を進んでいけば、幸せになっていく道なのです。 途中で何度も挫けそうになり、 今までやってきたことをぶち壊してしまったことも何度もあったけど、 またやり直して前に進んでいる。 一歩一歩、浄土に近づいている。難思の法海へと流れている。
どんなに挫けたとしても、投げ出したとしても、逃げ出したとしても、スタートラインに戻ることができる。これは何て幸せなことなのでしょうか。
普通なら、こんなことは起きない。逃げたら終わり。腐って終わり。アル中になって終わりです。それが逃げたとしても、腐ったとしても、それでも、またスタートラインへと戻ることができる。これはなんと喜ばしいことなのでしょうか。
ここに戻ってきているのは、当たり前ではありません。
“深く如来の矜哀を知りて、良に師孝の恩厚を仰ぐ。”と書かれているように、このように何度もやり直すことができるのは、阿弥陀仏のお力が働いているからであり、善知識が絶対に諦めないで、働きかけ続けているお陰なのです。
だから、私たちは仏法を求め続けることができた。それはありえないことが起きているのであり、善知識や阿弥陀仏の念力によって起こして頂いてきたのです。
苦しみとぶつかって何度も倒れそうになると、以前の自分なら「どれだけ頑張っても駄目だ」と腐っていた。それが今、苦しみと向き合い、何とか乗り越えて進んでいる。まさに“慶ばしきかな”です。
普通ならば、苦しみや辛いことがあった時に乗り越えることなんてできない。逃げて終わり、欲に走って終わりです。
だけど、苦しみながらも、逃げることができずに目の前の問題に向き合っていけたのです。何と幸せなことなのか。喜ばしいことなのでしょうか。
今、あなたが仏法を聞いていることも、あなた一人の力でここまで求めてきた訳ではありません。
何度も何度も逃げ出し、何度も投げ出しながらも、その度に善知識が立て直して、現実へと引き戻してきた。だから、挫けそうで挫けなかったのです。
普通なら逃げて終わり、です。
今までの自分の二河白道を振り返ってください。支えてもらって、教えてもらって、今、ここにいる。
どれだけお世話になってきたか、どれだけ恩を受けてきたか、こんなにもしてもらいながら、それでも投げ出そうとするものが私たち。でも、善知識や阿弥陀仏が心を支えて下さるから、倒れそうで倒れない。落ちそうで落ちない。
だから、こんな私でも、よくぞ、ここまで、よくぞ、この道、進ませて頂けた。
ちょっと苦しいことがあると逃げていた。嫌なことがあると責めていた。それでも許してもらって今がある。何度でも許してもらったから、ここまで進むことができたのです。
善知識の仕事は、あなたの心を支えて、この場所に戻すこと。
苦しみから離れ、幸せになるには、どんなに苦しくとも二河白道を進むしかない。この道はたった一本の道。
『逃げるなら逃げろ、もう一度、元の場所に戻す。向き合わなければならないようにさせてみせる。』
この道は難度海。普通の人なら、絶対に渡ることが出来ない道。
何十億の人がいても、誰も渡れない道を私達は渡っているのです。こんな喜ばしいことがありますか。
この道を進んでゆくのに、どれだけ善知識からお世話になるか、助けてもらうか、分からない。そして、何度、善知識を裏切るか、分からない。それでも何度でも、許してもらって、ここにいるのです。
だから、逃げるなら、逃げなさい、必ずここまで導いてみせる。そうやって、私達は進んでいくのです。
この道は何度も支えてもらって、進んでいく道、そして、それは善知識も同じ。
善知識が一番、問題が起きる。波がビッグウエイブで、来ても解決していくしかない。
それでも阿弥陀仏のお力で何とかなる。心が崩れても崩れても、阿弥陀仏のお力で、また現実と向き合うことができる。本当に喜ばすにはおれません。もし阿弥陀仏のお力がなかったら、善知識として受けた試練に耐えられず何度投げ出してしまっていたか、分からない。それほど、私たちの心は弱く脆い。苦しいことがあったら、すぐに投げ出してしまうものが私たち。それでも、阿弥陀仏のお力によって、全部、立て直して、何事もなかったことがないようになった。
まさに、心を弘誓の仏地に樹っているからこそ、念を難思の法海に流すことができる。
そして、善知識がどんな困難も乗り越えて進んでゆくことができからこそ、その教えを聞いている私達も恩恵を受けることができる。どんな困難がやってきたとしても、現実から逃げることができなくなる。
この二河白道の道を進んでゆくことで、どれだけの困難がやってくるか分からない。でも、大丈夫、死にはしない。何とかなるさ。それは阿弥陀仏と善知識に支えられて進んでゆく道だから。だから、目の前の困難に対して、誰か何とかして欲しいと思うのではなく、まず自分自身が、やるしかない。
立ち向かって、駄目で心が崩れたら、もう一度、立て直せばいい。それで、まわりの人に迷惑をかけたのなら、その人たちに謝ればいい。どんなことがあったとしても死ぬよりはマシと思ったらいい。失敗しても、立て直せばいい。
それをやらせてくれるのが、阿弥陀仏のお力です。だから、“慶ばしきかな”と喜ばずにおれないのです。
親鸞聖人は、何十年と取り返しのつかない間違った教えを多くの人に伝えてしまった。
どうお詫びすればいいか、苦しまれた。それでも、教行信証の最後は慶ばしき哉や、で終わっておられる。親鸞聖人の心は折れなかった。
こんなに大きな失敗をされた親鸞聖人でさえも心は、折れなかった、挫けなかったのです。
私たちも困難にぶつかって心が折れたらどうしようと思う必要はない。困難にぶつかって、心が折れたならば、折れたらいい、もう一度、やり直したらいい。少しプライドがズタズタになるだけ。大したことはない。死ぬよりはマシです。
でも私達はそんなことをするぐらいなら、死んでもいいと思ってしまう。それほど、私たちはちっぽけなプライドを守る為に必死なのです。
でも考えてみてください。
そんなに必死になって守ってきたプライドも死んでゆくときには、木っ端微塵に崩れ去ってしまう。死んでゆく時には丸裸。何一つ持ってゆくことはできません。だから、死ぬ気になったら、私達は何でも出来る。どうせ死んで持ってゆくことはできないのです。持ってゆけるのは、己の業だけ。それ以外は何一つ持ってゆくことはできない。そう思ったら、失敗して失うものなんて何一つない。そう、始めから何一つないからです。だから、死ぬ気になったら、何でも出来る。できないと思っているのは、自分は死なないと思っているから。死は遠い先の問題であり、自分とは関係のないものだと思っているからです。でも、そうやって、自分はまだまだ死なないと思っている間に、時は五年十年と無情にも過ぎ去ってゆく。誰もが死は遠い先のことだと思いながら、瞬く間に時が過ぎて老いてゆきます。仏教とは、そんな人生の儚さを教えてくれる教え。だから、仏教を聞いてゆくと、如何に自分の人生が短いか知らされる。知らされるからこそ、自分は死なないと思っていることはできなくなります。そして、何度も何度も、同じ問題に向き合うことができるようになる。どんな困難も乗り越えて、浄土へ一歩一歩、進んでゆくことができるのです。
これが阿弥陀仏の本願力なのです。
だから、こんな困難なことばかり続いたら心が折れるのではないかと心配する必要はない。折れたらいいのです。そして、遠慮なく支えてもらったら、いいのです。
大丈夫、心が折れて、それで終わりになることはない。ちゃんと逃げれなくさせてくれる。また、スタートラインに戻って、現実と向き合えるようにしてくれる。
このように私たちは阿弥陀仏や善知識に支えてもらいながら、一歩一歩進んできたのだなあ、と思うと、“深く如来の矜哀を知りて、良に師孝の恩厚を仰ぐ”と言われた親鸞聖人の御心が知らされる。
私たちは阿弥陀仏や善知識に支えてもらいながら、幸せに一歩一歩、近づいている。これを親鸞聖人のお言葉で言えば、“念を難思の法海に流す”ということ。一歩一歩進むことで、苦しみから離れ、幸せになってゆく。
つまり、この道は明るい世界へと続いている。だから、どんなに頑張っても、ただ苦しみの輪を回るだけの流転輪廻ではない。
進むことで、人間関係も明るくなるし、未来も明るくなる。
この道は頑張っても徒労に終わるような道ではない。頑張ったら頑張った分だけ報われる道。でも、私たちはそれが信じられなくて、他の道と同じようにどんなに頑張ったって、苦労が報われないのではないかと思って、嫌になると、すぐに投げ出そうとする。すぐに気持ちが折れて、逃げ出したくなる。それでも阿弥陀仏や善知識が私たちの心を支えてくれるので、また、現実と向き合うことができる。
この阿弥陀仏や善知識のご恩は、自分一人で求めている時には分からない。誰かを担当して、その人のために苦労してみた時に分かる。
例えば、誰かの為に苦労しているのに、相手は感謝するどころか、私のことを馬鹿にしてくる。こんなことをされると、当然、腹が立つ。なんでこんな人の為に私が苦労しなければならないのかと善知識に愚痴をこぼす。
そうすると、善知識はニコニコして、「よくわかる。そうですよね。それは腹がたちますよね。どうしてこんなに馬鹿にしてくるのだという気持ち、分かる、分かる、私も同じ気持ちです。」と答える。
このように答えることができるのは、あなたのために、善知識が今まで耐え忍んできたからです。しかし、その善知識のご恩は自分が他人の為に苦労しなければ分からない。そして、今までどんなに腹が立つようなことがあっても、あなたのことを見捨てることなく、“分からないならば、分からないで仕方ない”と許し続けてくれなかったならば、あなたが今、誰かの為に苦労したいという気持ちになることさえもなかったのです。
それは、自分か誰かの為に苦労しなければ分からないこと。そして、苦労してみて初めて知らされること。“今までこんな腹が立つようなことがあっても見捨てることなく、心を支え続けてくれたのか”と知らされる。
こんな身勝手な自分のことしか考えない自分をよくぞ見捨てなかったか、 よくぞ育ててくれたものぞ、と思うと、“慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し”と喜ばずにおれないし、今までの善知識から受けたご恩が如何に重いか知らされる。
私たちがここまで成長するまで、どれだけ善知識が苦労してくださったか。現実と向き合うことから、逃げてきた私が現実と向き合い、二河白道を一歩一歩進んでいる。
それは特別な才能のある人だから進んでいるのではない。普通の人間が、ここまできた。それは誰かが心を支えてくれなければできないこと。支えてくれた方はどんな気持ちで支えてきたのだろう。ここまで進むためには、色々な困難や問題があったはず。嫌だな、逃げたいなと思うこともあったはずです。そんな色んな気持ちを乗り越えて、私たちを支えてくれた。だから、“慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し”と喜ばずにおれないのです。
それは、自分が他人の為に苦労してみた時に知らされる。そして、親鸞聖人は仏法を未来の人たちに遺してあげたいと苦労したからこそ、自分のために仏法を遺してくれた人たちの御恩が知らされた。
善知識が一番、心にかけるところはどこか。それは、私が死んでも教えが残るか、どうかです。
今、私たちが当たり前のように教えを聞くことができるのは、私のところまで途中で途切れることなく、教えを遺してくれた方がいるから。
だから、私も未来の人のために、教えを残してゆかなかったら、未来の人たちは、この真実の教えを知ることが出来ない。
どうしたら教えが遺るか、私ならば説法をして、合間に執筆に励み、本も出しているが、それで教えが遺せるか分からない。
だからこそ、力を振り絞って色々な手を尽くし、自分のできる精一杯をしていくしかない。その為に人を育てなくてはいけないし、和合僧を作っていかないといけない。
親鸞聖人もそんな気持ちで教行信証を書かれた。それが“真宗の詮を抄し、浄土の要を拾う”というお言葉。
真宗の詮とは、風呂の詮のようなもの。詮が無ければ風呂の水は抜けてしまうように、真宗の詮が分からなければ、浄土真宗は全く分からない。その浄土真宗の大事な所が真宗の詮。それを“抄し”とは、多くの教えの中から僅かなものを抜き取るということ。
次に“浄土の要”とはどうしたら浄土往生できるか、その要(かなめ)の教えということ。要とは、扇を留めるところ。要が無ければ、扇はバラバラになってしまうように、とても大事なところが要。だから、浄土の要とは、私たちが浄土往生する為の要となる、とても大事な教えということ。それを拾うとは、それを拾い集めて一つの本としたものが教行信証。
だから、“真宗の詮を抄し、浄土の要を拾う”とは、仏教は七千余巻もの膨大な教えが説かれているが、その中で本当に大事な教えは何か。どうしたら浄土往生できるか。親鸞聖人が抜き取られて、拾い集められたものが教行信証という本なのです。
つまり、教行信証には、親鸞聖人が今まで学んできた教え、何十年もかけて蓄積してきた、エキスのエキスだけを搾り取って、次の人のために遺してゆかれた本なのです。
しかし、教行信証は昔の言葉で書かれた本なので、今の人たちが読んでも、そこに何が教えられているか分からない。だから、私の役目は、色々学んできたものを、昔の言葉を今の言葉に変えること。そして、今の人が読んでも分かるようにすることなのです。
仏教には膨大な本、資料がある。その中から、みなさんの信仰にプラスになるものだけを選んで、現代の人の言葉に書き換えていかないといけない。
それを親鸞聖人もされていった。だから、私も膨大な資料の中から、選び取って、現代の言葉に残していかないといけない。
それは、どんなに困難な道であっても、“唯仏恩の深きことを念じて人倫の嘲を恥じず”で、ただ阿弥陀仏から受けたご恩の深きことを思えば、人々から非難や中傷を受けたって、ちっとも恥ずかしいとは思わない。プライドなんて、どうだっていい。人からどう見られたとしても、馬鹿にされたとしても、この深き仏恩を思えば、そんこと問題にはしておれない。
私の書いた文章を読んで、これは伝統教学とは違う、と学者から非難されるかもしれない。
それでも、私の為に命がけで教えを遺してくれた方がいるから、私もまた命がけで教えを遺してゆかなければならない。
皆さんで言ったならば、この道を進んで来れたのは、支えてくれた人がいるから。
そのご恩を思うならば、今度は誰かの為に支えてあげてください。
自分が受けてきたことを今度は、誰かの為に、してやってあげてください。
親鸞聖人の場合だったら、私に教えを遺してくれた人がいる。だから、その教えを自分は今度は遺す番だと思われたのです。
皆さんなら、時間をかけてくれた人がいるから、時間をかけようと思う。
親鸞聖人は教えを残してくれた人の苦労を感じて、私も教えを残していこうと思われた。自分が受けたものを返していこうとされました。
受けたことをお返しするために、どんな苦労も苦労でない。
最後に、“ もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん” とは、この本を見たり、読んだりする人は、信じる人もいれば、謗る人もいるだろう。でも、それを因縁として、浄土往生まで進んで頂きたいということ。
何とか、この本をご縁として、この道をあなたも進んでください、と推し進めて下さっているのです。
以上が、このお言葉の意味です。
私は親鸞聖人のお言葉が大好きです。
親鸞聖人の言葉を味わうことによって、人間に生まれて来て良かったなあ、と思います。
親鸞聖人のお言葉は、触れれば、切れば、血が吹き出るような生々しい言葉、ここには、親鸞聖人の心がここに収まっている。
この御心を説法を通して、話をする時が一番幸せ。それは、功徳が満ち溢れて来るからです。
今まで、自分のために苦労してくれた人がいるから、今の私がある。
今まで、自分のために時間をとってくれた人がいるから、その人の心を知るから、“慶ばしき哉や”と喜ばずにおれなくなる。
それは、人間は一人でないんだなあ、と知らされた喜び。そして、これは他人の為に苦労した経験がなければ知らされない真理でもあります。

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