問 慚愧の心とはどういう心なのでしょうか?
答 慚愧とは人間の心のこと。地獄、餓鬼、畜生の三悪道を離れて人間界に心が生まれた状態を言います。ここで大事なことは肉体が人間に生まれた人は、誰でも人間の心を持っている訳ではありません。
人間の心とは、他人が傷ついている姿を見ると、自分の心も悲しくなり、その苦しみを何とかしてあげたいと思う心。また、幸せな心でいる人を見ると自分の心も嬉しくなり、相手の幸せを心から喜ばずにおれなくなる心を言います。
だから、人間の心がある人は、他人の幸せを妬み、傷つけたいと思うことはない。何故なら、他人を傷つけると自分の心も苦しくなるから。だから、人間の心のある人は、他人を責めることはありません。
しかし、そんな人間の心を持っている人は、ほとんどいません。
何故なら、私たちは罪悪を抱えているからです。罪悪とは自分を傷つける業。例えば、失敗したときに、こんな失敗をするような自分を認めたくはなくて、自分を責める。また、都合の悪い自分が見えたときに、そんな自分の存在を否定すること。そうすると、その人が人間の心を持っていたならば、心が傷つき苦します。でも、ほとんどの人はこの苦しみを知りません。何故なら、すでに自分の心を殺しているからです。この心を殺すこと。これを仏教では殺生と言います。殺生というと生き物の生命を奪うことだと思っている人も多いですが、そうではなく、人間の心を殺すことを殺生と言います。では、なぜ心を自ら殺してしまうのでしょうか?それは殺せば心が楽になるから。殺してしまえば、罪悪を犯しても心が苦しくなることはない。だから、罪悪の苦しみから、早く楽になりたくて、心を殺してしまうのです。そして、心を殺すことで平気で罪悪を犯すことができるし、より重い罪を犯しても何とも思わなくなります。その代わり、心を殺すと、自分を感じられなくなる。たとえ他人から認められても、その時は嬉しいけど、すぐに不安になって、自分のことを認めてもらおうと動き出す。これが三悪道の一つ餓鬼道。人間の心を殺すと心は三悪道に堕ちる。その一つが餓鬼道です。餓鬼は食べても食べてもお腹が満たされずに食べずにはおれない。それと同じように、餓鬼になった人は認めてもらっても、認めてもらっても心が満たされることはない。それどころか、もっと心が渇く。巨万の富を築いても、欲しいものは何でも手には入っても、心が満たされることはありません。それでいながら、他人が幸せそうにしていると、妬み妬みの心を起こして、その人の幸せを奪いたくなる。だから、自分のものにする為なら、平気で嘘をつく。他人を騙してでも自分のものにしようとします。
そうやって、他人を傷つけてまで手に入れても、すぐに飽きて、他人のものが欲しくなる。他人のものが輝いて見えるからです。“他人の芝は青い”と言われるが、他人のことがよく見える。これが餓鬼道です。
次に心を失うと他人がどれだけ傷ついても平気になります。相手の心からどんなに血が流れていても平気になり、そんな相手を食い物にできる。そして、食い物にされた相手を見て、心では、騙される奴が悪いのだ、と開き直っている。自分の思いを通す為なら、どれだけ相手が傷ついても何とも思わない心。これが畜生の心です。では、相手の心を傷つけておきながら、自分の心は傷つかないのかと言えば、もちろん傷つきます。相手の心を傷つけたら、自分の心も傷つき、不安になる。そして、相手の心を傷つければ、傷つけるほど、自分の心はボロボロになってゆきます。でも、どんなに心を傷つけたとしても、心が死んでいる人は、心が悲鳴を上げて苦しむことはない。ただ心はボロボロになってゆくだけ。これが畜生の心。まさに弱肉強食。強いものが弱いものを食い物にする世界。この人の心は自分が弱者にならないようにすることしか考えていません。何故なら弱者になったら、角砂糖にアリが群がるように、まわりの人が自分を食い物にして穢れを押し付けてくるから。少なくともその人の心には、そう映っている。だから、自分が食い物にされたくないので、まわりの人を平気で食い物にする。この畜生界は不安に満ちた世界なのです。殺すか殺されるか、食い物にするかされるか、それしかない。心は不安でビクビクしながら、責められないように強者の言うことに従ってゆくしかない。それはまるで凶暴な親に気を遣う子供のようなもの。いつも親の顔色を窺いながら、怒らせないようにしている。それでいながら、自分も親になったら好き勝手できると思っている。こう思っているから、思い通りにならないと腹を立てて怒りをぶつける。自分の思いを通す為ならば、相手の心がどんなに傷つこうが平気な人間になってしまう。こう聞くと、「私はそんな酷いことなんてしていない。」とみんな言うかも知れません。しかし、それはすでに相手が何でも言うことを聞く肉の塊になってしまっているから。思い通りにしている人は、相手の気持ちが見えていない。それでいながら、ちゃんと相手に確認していると思っています。でも、実際は相手は責められたくないから、言うことに従っているだけ。言うことを聞かないと不機嫌になって無口になったり、イライラするから。それが見たくないから、言うことに従っている。そういう自分の態度が相手に言い返せなくさせているのです。これが畜生界。仏様の眼から見たら、残虐な鬼がまわりの生き物を殺して、食い物にし、あたりは血の海になっているように見えることでしょう。
そうやって、弱者になり、食い物にされた人ほど食い物にされたくない、という気持ちが強くなる。だから、みんな力を求める。力を手に入れたら見下されなくて済む。それどころか、今まで自分のことを見下してきた連中を見下すことができる。そうしなければ、自分が見下されて、食い物にされる。だから、みんな見下されないように上に立とうとする。ここから競争が生まれる。馬鹿にされたくない、見下されたくない、見下ろされたくない。だから、頑張って上に立とうとする。上に立てないならば、相手を引きずりおろしてでも上に立とうとする。これが地獄の心。そうやって、頑張れば頑張るほど、ちょっとした相手の態度が気になる。それが見下されたように感じて腹が立つ。怒りの炎が燃え上がって自分では止められない。当たり散らし、あたり一面焼け野原にしてゆく。この地獄の業火は頑張っている人ほど燃え上がる。世の中では頑張ることは善いことだと思われているが、仏教では、何に頑張るかが大事。馬鹿にされたくないと頑張ると、地獄を生み出す。頑張れば、頑張るほど、ちょっとしたことが許せなくなり、怒りの心で相手を責めてしまう。そして、責めた後は、こんな酷いことをしてしまったと自分を責める。責めると心の中で不安が溜まる。溜まると怒りとなって相手を責める。これが果てしなく繰り返すのが地獄。まわりの人から見たら、たまったものではない。その人はいつもイライラして、怒る為に、いつも悪い所、間違っている所を探している。それで見つかったら、「あなたがこんなことをするのが悪い。」と責めている。たとえどんなに責められた所を直したとしても、相手は別の悪い所を見つけては怒りを起こし、責めてくる。結局、この人は怒りを起こして、自分の心に溜まった不安を吐き出したいから責めているだけ。そうやって怒りを起こし相手を責めても、しばらくすると心の中は不安で一杯になる。それは責める人ほど、その人の見ている世界はまわりの人が自分を責めているように感じるから。だから、その不安から逃れる為に他人を責める。もう怒りを起こしていないと不安が見えてしまうので、止めることはできなくなります。そして、その人のまわりにいる人は、自然と離れてゆく。地獄の心はその人を孤独にさせてゆきます。それは他人が離れてゆくから孤独になるだけではなく、責められるのが怖くて、自ら人を避け、一人になろうとする。それでいて、みんなが自分を一人ぼっちにさせると嘆く。そして、そんな自分をかわいそうに思って、何とかしてあげたいと思った相手に怒りを起こし、不安を吐き出す。だから、誰も近付かなくなってしまう。これが地獄の心なのです。
以上が地獄、餓鬼、畜生の三悪道であり、その三悪道から離れた心が慚愧の心なのです。
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