外に賢善精進之相を現ずることを得ざれ

外に賢善精進之相を現ずることを得ざれ 内に虚仮を抱けばなり
ここで外とは、自分とはこういう人間だとイメージしているもの。これを仏教の我と言います。私たちは誰しも自分とはこういう人間だというイメージにとらわれる。たとえば、自分は男だと思ったら、悲しい時でも泣くことはできないとか、自分はこの会社の責任者だから、私が倒れたら、みんなも倒れてしまうとか。みんな大なり小なり、自分はこうならなければならないというものにとらわれる。これが我。この我がある為に、心は悲しみに包まれていたとしても、表面的には元気に笑顔で振る舞う。自分の感情を犠牲にし、無理をかけて、必要以上に何でも知っていると賢く振る舞ったり、善人のように見せたり、無理して頑張ったりもする。これが賢善精進之相を現ずるということ。このように感情を犠牲にし、無理をすると私の魂が傷つく。そして、魂に悲しみが溜まる。でも、どんなに悲しみが溜まっても、我に執着してとらわれている限り、外に吐き出すことができない。つまり、悲しくても泣くことができない。では、悲しくても泣くことができないのか。それは悲しみを吐き出す為には、その悲しみを受け止めてくれる人が必要だから。でも、私たちはまわりの人がどんなに悲しみを抱えていたとしても、その悲しみを受け止めてあげようとはしない。それはみんな悲しみを抱えているから。だから、他人の悲しみを受け止めてあげるよりも、まず、自分の悲しみを受け止めて欲しいという気持ちが強いので、誰も相手の悲しみを受け止めてあげる人はいない。そして、自分が相手の悲しみを受け止めてあげたいと思ってないので、それが鏡のように跳ね返り、誰も自分の悲しみなんて受け止めてはくれないと思ってしまうのです。だから、みんな孤独な魂を抱えている。魂が傷つきボロボロになり、心は悲しみの海になったとしても、この悲しみを外に出すことができず、自分の心が折れないように独り頑張り続ける。これがすべての人の姿。
みんなみんな頑張っている。精一杯自分が正しいと思うことをやり続けている。でも、どんなに頑張りたいと思っても、魂が傷つき、ボロボロになると頑張ることができなくなる。そして、悲しみを誤魔化す為に、欲に走る。欲に走るのは、今まで限界まで頑張り続けたから。だから、もう頑張ることはできない。でも、世の中の人はそんな人を見て、その人の今の姿を見て、欲に流れることはいけないことだと責める。誰もその人がどうして欲に走らずにはおれなくなったのかは見ていない。欲に走るようになったのは、それほど過去に於いて頑張り続けたから。でも、頑張っても頑張っても誰も自分のことを認めてくれない。それどころか、頑張っている人を見て、この人はこういう人と決めつけて、頑張ることが当たり前だと思ってしまう。だから、頑張っても、それがその人の当たり前だと思うから、誰も認めてはくれない。そのうちに魂は傷つき、もう頑張ることはできなくなる。そう、人間が頑張り続けるには、認めてもらう必要がある。認めてもらうことが心のガソリン。みんな認めてもらいたい。認めてもらう為に頑張っている。それがどんなに頑張っても認めてもらえないと、心のガソリンが尽きて、もう頑張ることができなくなる。でも、自分の我では私はこういう人間だと、こういう人間でなければならないのだと、そして、今までこうやって頑張ってこれたのではないかと思うから、魂に無理をかけても頑張り続けてしまう。その為に、私たちの魂は傷つき、ボロボロになってゆく。そして、魂が傷ついた分だけ、心には悲しみが溜まる。でも、どんなに心に悲しみが溜まっても、我にとらわれ無理をしてきた人は、自分の魂の存在に気づくことはない。これが『内に虚仮を抱けばなり』と教えられている内。内とは魂のこと。この魂が虚仮になってしまうということが、内に虚仮を抱くということ。ここで虚仮とは、虚とは空っぽということ。空っぽとは心にもないことをしているということ。たとえば、心では相手の幸せなんて考えていないのに、形は相手の幸せを念じているように行動する。また、心では自分のことを誰よりも認めて欲しいと思っているのに、その心を隠して、外には笑顔で振る舞うことが虚。つまり、空っぽ。心がない。いや、心がないというよりも、心がついてゆかない。頭ではこういうことをしなければならないと分かっていても、心が言うことを聞かない。心がついてゆかない。でも、自分はこういう人間だからという我があるから頑張らなければならないと思う。だから、心にもない行動をする。そして、悲しみという姿を隠す為に仮面をつける。これが虚仮の仮。仮面をつけて、自分を演じなければ、他人と接することができなくなる。だから、他人と接するのが疲れる。一人でいたい。一人でいた方が気楽だと思ってしまう。一人でなければ心を休めることができなくなる。だから、ますます孤独になる。その為に私たちの魂は孤独で寂しい旅を続けなければならなくなる。本当は誰よりも自分のことを分かって欲しいのに、誰よりも人にそばにいて欲しいのに、自分の素顔を見せることができないから、自ら他人を避け、孤独になってゆく。それが外に賢善精進之相を現ずるということ。こんな悲しいことはない。誰もが幸せになりたいと思いながら、我に執着する為に誰もが孤独で寂しい一生となってしまう。だから、親鸞聖人は、外に賢善精進之相を現ずるを得ざれと言われているのです。これは、格好つけるなということ。自分に正直になれということ。認めて欲しいなら、認めて欲しいと勇気を持って伝えなさいということ。このように自分に正直に生きるということが、外に賢善精進之相を現ずることを得ざれということ。そうしければ、魂の存在が分からなくなり、心が空っぽになって仮面を被って生きているだけの人形のような人生となってしまう。
これを教えられたのが、外に賢善精進之相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を抱けばなりというお言葉なのです。

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