愧とは、

愧とは、まわりの人たちと比べて浮いてしまうことを恥ずかしいと思う心のこと。私たちは社会の中でいつも穏やかで道理に従って行動するように心がけています。だから、一人だけみんなと違う行動をすると、その人だけ目立ち浮いてきます。普通は自分だけ浮くと、そのことに気づいて、これではいけないと思って、みんなに合わせますが、我の強い人は浮いていても、それが何が悪い、自分は正しいことをしているだけじゃないかと自分の思いを押し通してゆきます。また、こういう人に限って、自分が浮いていても、そのことに気づかず、一人だけ浮いた行動をしているものです。
仏教では、このような人を愧のないものということで、無愧のものと言います。
例えば、仕事で言ったならば、みんな当たり前に決められた時間内に出社しているのに、自分だけ遅刻する。普通はそんなことをしたら、みんなはできていることが自分だけできていなかったことが恥ずかしくて、これではいけない。ちゃんと時間内に出社しなければと思うのが普通ですが、無愧のものは、自分はこういう理由があったんだ、あいつが悪かった、遅刻したのも仕方がなかったと自分を正当化して、正しいところに自分を置こうとします。
そういう人は、自分のやったことが正しいかどうかを問題にする心が強い余り、自分が間違ったことをした時、間違っていると認めることができずに、心の中では自分を正当化する為の言い訳がいっぱい吹き上がり、自分を正当化してしまいます。だから、自分だけ道理に外れたことをしていても、それを恥ずかしいと思うことができず、自分を正当化して、自分はこういう理由があったから、遅刻をしたのは悪いことかも知れないけど仕方がなかったんだと正しい所に自分を置いてしまうのです。
一旦このようになってしまうと、みんなは決められたことに従っているのに、自分だけやってないことがあっても、それが恥ずかしいとは思わず、平気で毎日のように破るようになります。そして、出来ていないところがあっても、それを正当化して、悪くないと思うので、自分には悪いところなんて何もないという所に立って、他人を大上段に立って責めるようになります。
人間、自分は正しい所に立って、他人を責めている時ほど、自分が見えていない時はありません。このような人を無愧のものと言うのです。
なぜなら人間ならば、何も間違いを起こさないような完璧な人間なんていません。だから、まわりの人ができていることでも、自分だけできないことが何かしらあるものです。だから、他人に出来ていないところがあったとしても、こんなことができないなんてあなた人間ですか?と大上段に構えて否定することはできない筈です。
だって、自分だってできていないところがあって、それを直さなければならないと思っているのですから、他人にどんなに悪いところがあったとしても、自分も間違いを犯す人間だと思って、他人に間違いを教えてあげることしかできない筈です。
それを他人の欠点を見て、あなたのここがおかしいと言えてしまうのは、自分には間違ったところはないと正しい所に自分が立っているからであり、これを無愧のものと言うのです。
つまり、無愧とは、自分は間違っているところがあるものだという所に立てない人のことであり、たとえ間違いを犯したとしても、それはこういうことだからと心で言い訳をして、自分を正当化してしまう人のことを言います。
自分の間違いを認めることは難しいことではありますが、間違いがあっても、他人も自分も責めることなく、それは人間として恥ずかしいことをしてしまったと直してゆく。
それが愧ということなのです。

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