心を大事すると言って罪悪を造る

よく自分の心を大事にしなければ、と言って、自分の心に無理をかけることは良くないと思いを通す人がいるが、仏教では、そういう人は、たいてい邪欲という罪悪を犯してゆく。
邪欲とは、他人に振り回されたくないと思って、楽になりたい、自由に振る舞いたいという感情から起きてくる罪悪で、そんな心で、まわりの人の存在を軽く見たり、無視することで、生み出す罪悪。
これは他人がいると、その人から悪く思われているのではないかと気にして、相手の顔色を窺っている人が、こんなに気を遣うのは苦しいから、もう気を遣いたくない、自由に振る舞いたいという心から、相手の存在を考えずに自分のやりたいことをしたいと思ってすると、それが邪欲という罪悪になる。
では、邪欲とは、どんな罪か?
それはどんなに自由に振る舞いたいと思ったとしても、その為に相手の心を軽く見たり、無視して、自分の思いを通すと、その報いで、まわりの人から自分の存在を軽く見られているのではないかという不安が起こり、自分の存在を軽く見られたくない、馬鹿にされたくないという感情が起きてくる。
だから、自分のことを馬鹿にされない為に、必要以上に自分の存在を大きく見せたり、自分が如何に価値のある人間かということを誇示したり、まわりの人と比べて自分が上か下かということが気になるようになる。
でも、どんなに頑張って、自分が価値のある人間だということを示したとしても、それによって、まわりの人を見下したならば、その起こした感情によって、今度は自分が見下されているように感じて苦しむ。
だから、どれだけ自分が価値のある人間だと示したとしても、ちょっとでも、自分の思い通りにならなかったとしたら、自分は糞のような価値のない、みんなから嫌がられる存在のように感じて苦しむし、そんな時は怒りを起こして、自分のことを馬鹿にするなんて許せないと相手を責める。
そして、今度は力で相手をねじ伏せた分だけ、常に自分が価値のある人間だということを認めさせられなかったならば、自分の心が潰されて、血塗れになるように感じて、必死になって自分の価値を認めさせようとする。まさに自分の心が生み出した落とし穴に自分がはまって苦しむのが罪悪。
そして、この苦しみを生み出すのが、邪欲であり、その心が起きるきっかけは、他人に縛られたくないという思い。
本当に心に任せていたら、苦しみはどんどん深くなるだけですね。

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