「仏法には、世間のひまを闕きてきくべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思う事、あさましきことなり。仏法には、明日と云う事はあるまじき」由の仰せに候う。「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」(讃弥陀偈和讃)と、『和讃』にあそばされ候う。(155)
「仏法は、世間事を止めてまでも聞かなければならないもの。だから、時間ができたら、仏法を聞けばいいと思って、自ら時間を割いてまで聞こうとは思わないことは浅間しいことである。仏法は“今はこれが忙しいから明日聞けばいい”と後回しにできるものではないのだ。」とある時、仰った。このことは「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」(たとい大宇宙が火の海になったとしても、その中突破して求めてゆかなければならないものが仏法。だから、どうしても火の海を突破しなければならないと思ったならば、真剣に仏法を聞かずにはおれなくなるし、そうやって聞いてゆくことで、どんな苦しい現実からも逃げずに向きあうことができる不退の身になることができる)と『和讃』にも教えられていることなのである。
(解説)
仏法は世間事を止めてまでも聞かなければならないものである。なぜ、そこまでして聞かなければならないのかと言えば、人生には限りがあるから。どんな人も最後は死んでゆけなければならないから。その死を乗り越える為に聞くものが仏法。だから、世間事と重さが違う。それを世間事に忙しく、暇ができたら仏法を聞けばいい、と思っているのは、自分は死なないと思っているから。いつまでも生きておれると思っているから、世間の人の付き合いが大事になる。「あれも行かなくちゃ、これもしなくちゃ」と世間事に振り回されて、仏法を聞くことができないのです。でも、考えてもみて下さい。そうやって毎日、「大事だ、大事だ」と言いながら、世間事に忙しく動いていますが、それにキリがありますか?そうやって一生懸命、世間事に頑張っていたら、終わりが来るのですか—。どんなに世間事が大事だからと言って、世間事を優先していたら、どうしても世間事に振り回されて、仏法を聞くときには疲れきってしまいます。その為に、明日の世間事の為に今日の仏法はお休みしようとなってしまう。そうやって世間事に振り回されて、臨終が来た時に後悔しませんか?臨終が来なくても、不治の病にかかっただけで後悔すると思います。「なぜもっと聞いておかなかったのだろう。」時間はあったはず、なのにどうして真剣に求めなかったのだろう。どうして世間事に振り回されたのだろう。後悔とは後に悔いると書くが、先に悔いる人なんていません。それほど私たちは自分が死ぬとは思っていないのです。死ぬが死ぬまで死ぬとは思っていないものが私たち。そんな私が死ぬと思えるようになってから聞こうと思っていたら、手遅れ。仏法に明日はないのです。
だから、たとえ大宇宙が火の海になったとしても、その中、突破してでも仏法を聞かなければならないのです。ここで火の海とは、現実と向き合うこと。それは我が身の死を意識するまでは、私たちは自分の人生を真面目に考えることも、現実と向き合うこともありません。だから、自分の人生にとって仏法が大切だとは思えず、どうして仏法を聞かなければならないのか分かりません。その為に仏法を聞かなくても、こうやって生きていたら、人生何とかなるさ、ぐらいに思っています。でも、現実と向き合うことから逃げて、世間事に走った時間は、まるで早送りをしているように五年、十年が瞬く間に過ぎ去ってゆく。そして、いつの間にか、歳を取っています。そうやって、年齢的に死まで、そう遠くはないと分かっていても、それでも自分が死ぬとは思えず、世間事や欲に逃げている間に命が尽きてゆきます。だから、死ぬとは思えないからこそ、今、現実と向き合わなければならないのです。でも、今まで我が身の死を真面目に考えることなく、現実から逃げてきた私たちにとって、現実と向き合うことは、まさに恐怖。火の海に飛び込んでゆくような覚悟が必要です。だから、どんなに頭では現実と向き合うことが大切だと分かってはいても、実際はそんな恐怖を乗り越えて、火の中に飛び込んでゆくことなんてとてもできません。だからこそ、私たちは仏法を真剣に聞かなければならないのです。我が身の死をまともに考えることができないものだからこそ、死を考える為に、現実と向き合う為に、仏法を聞かなければならないのです。始めから現実と向き合える人なんていません。始めから火の中に飛び込める人もいない。でも、どんなに現実から逃げていても、死から逃げることはできない。どこかで向き合わなければならない時が必ず来るのです。そして、それまでは、どんなに歳を取ったとしても人生は始まっていない。現実と向き合ってからが、私の人生のスタートなのです。現実と向き合った時が人生の始まり。そこから、たとえ一日しか生きられなかったとしても、私の人生には意味がある。一カ月生きたら、その一カ月。一年生きたら、その一年。それは何十年生きてきた時間よりも、ずっと価値があるかけがえのない時間なのです。私たちが現実と向き合った時、本当の意味で仏法の大切さが分かる。自分の人生にとって何が本当に大事か分かるから。その大事なことをしてゆく為に仏法を聞かなければなりません。つまり、仏法とは目的ではなく、手段。大事な目的を果たす為に仏法を聞かなければならないのです。これが大宇宙が火の海になっても仏法を聞いてゆくということなのです。
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