御一代記聞書 仏法は若きとき

仏法者申され、「若きとき仏法は嗜め」と候。「年寄れば行歩も叶わず、睡くもあるなり。ただ若きとき嗜め」と候。
蓮如上人がある時、このように仰有った。
「仏法は若い時から聞かなければならないものだ。」
「歳を取ると足腰が立たなくなって、満足に歩くこともできなくなり、また、真剣に聞こうと思ってもまぶたが重くなって眠くなってしまう。だから、若い時に仏法は聞かなければないのだ。」
解説
蓮如上人が「仏法は若いうちに聞け」と仰有ったのは、仏法は年寄りが聞くものだと思っている人がいるからです。このような人たちは、自分は若いから、今は聞く必要はない。もっと歳を取ってから聞けばいいと思っています。言い換えるなら、仏法とは死が近付き、自分が死ぬように思えるようになったら聞けばいいと思っているのです。
若者は自分はまだ若いから死はまだまだ先のことだと思っていますが、それは年寄りも同じ。歳を取ったからと言って、死ぬように思える人はいません。誰だって自分が死ぬとは思いたくない。死ぬのはまだまだ先だと思いたいものです。でも、無常の前では老少不定。老人が先に死んで、若い者が後に残る訳ではない。事故、病気、災害、津波。死の縁無量。いつ無常が私を襲い、命を奪ってゆくか、誰にも分かりません。
仏法は死ぬと思えるようになってから、聞けばいいと思っている人が多いが、死ぬと思える日なんて永遠に来ないのです。
毎日、世界では雨が降るように人が死んでいますが、その人たちの誰か一人でも。今日が自分の死ぬ日だと思って、朝を迎えた者がいるでしょうか。
みんな“明日がある。死ぬのはまだまだ先だ”と思っていた人たちばかりであったと思います。そんな人が今はもうこの世にはいない。誰もが自分が死ぬとは思えません。いや、誰も本当に自分が死ぬとはもう思えないのです。だからこそ、死ぬとは思えない今、聞かなければならないものが仏法なのです。これが「仏法は若きとき嗜め」ということなのです。
我が妻子ほど不便なることなし。それを勧化せぬは浅ましきことなり。宿善なくば力なし。我が身一つを勧化せぬ者があるべきか。
私の妻や子供(家族)ほど自分にとって大事な存在はいない。この大事な人たちに仏法をお伝えしないこと程の無慈悲なことはない。しかし、一生懸命お伝えしたとしても、聞くかどうかは過去世からの仏縁次第であるから、仏縁がなければ力及ばず、聞いてもらえないことはある。でも、始めから、この人は仏縁ない人だと決め付けて、伝えようとしなければ、自分自身も一生懸命聞くことはない。家族に伝えようとしない人は、自分自身の命も軽く見ている人なのである。
解説
家族は自分にとって大事な人。そして、大事な人だからこそ、仏法を聞いて幸せになって欲しいと思うのは当然のことです。もちろん、伝えてみて、聞くか聞かないかは、その人の仏縁まかせではあるが、伝えようともしないのは、家族のことを大事に思っていないか。自分のことを大事に思っていないか。そのどちらかです。
家族のことを大事に思っていない人は別として、家族のことを大事だと思っていながら、その人たちに仏法を伝えたいと思わないのは、自分の存在を大事に思っていないから。もし自分の存在を大事に思っていたならば、大事な自分を幸せになる為には苦労は惜しまないもの。それと同じように大事な家族にも仏法を聞いて幸せになって欲しいと進んで努力してゆきます。しかし、家族のことを大事だと思ってはいても、その大事な家族の為に苦労してまで仏法を伝えようとは思わない人は、それと同じように自分自身もコツコツと努力してまで幸せになりたいとは思う気持ちのない人でもあります。つまり、自分なんか大事にする価値のないどうでもいい人間だと思っているのです。価値のない人間だと思っているから、欲を絶ち切ってまで大事にしてあげたいとは思わない。幸せになる為に苦労することよりも、今さえ楽ができたらいいと思って、欲に流れてゆくのです。
子供でもそうです。自分の存在を大事に思うからこそ、将来のことを考えて苦労してでも勉強する。自分のことをどうでもいい存在だと思ったら、少しでも欲を満たしたいと思って勉強なんかしません。
つまり、仏教とは自分の存在を大事に思う気持ちから求めてゆくものであり、他人にも伝えてゆくものです。
では、自分のことをどうして大事に思えないのでしょうか?
それは自分自身の存在を大事にしてもらった経験がないからです。私たちは誰かに大事にしてもらうからこそ、自分自身のことを大事な存在だと思えるようになります。今、自分のことを大事だと思えないのは、親から、そのように扱われてきたからです。だから、親が自分に接したように、自分も子供や家族にしてしまう。まさに負の連鎖です。この連鎖を断ち切るのが仏法。だから。仏法は慈悲の教えだと言われるのです。

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