御一代記聞書 ただ信心肝要なり

順誓申し上げられ候、「一念発起のところにて、罪みな消滅して、正定聚不退の位に定まる」と『御文』にあそばされたり。然るに「罪は命のあるあいだ罪もあるべし」と仰せ候。『御文』と別に聞え申し候や」と、申し上げ候時、仰に「一念のところにて罪みな消えて」とあるは、一念の信力にて往生さだまる時は、罪は障ともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらん限りは、罪はつくるなり。順誓は早悟りて罪は無きかや。聖教には「一念のところにて罪きえて」とかくなり」と仰せ候。「罪の有る無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰を、いくたびもいくたびもよし」。罪消えて御助けあらんとも、罪消えずして御助けあるべしとも、弥陀の御計らいなり。われとして計らうべからず。ただ信心肝要なり」と、くれぐれ仰せ候なり。
順誓がある時、こう尋ねられた。「『一念発起の時、すべての罪が消滅し、正定聚不退転(途中で挫折することなく仏道を進み、仏の悟りを開くことができる身)になれる』と御文章に書いてありましたが、また、別のところで、『罪は業が尽きない限り、無くなることはない。』とも教えられます。この二つは矛盾しているように聞こえるのですが、どのように理解したらいいのでしょうか?」
それに対して蓮如上人はこう仰せられた。
「一念のところで罪がすべて消える」とあるのは、浄土往生の一念のとき、阿弥陀仏の無礙光に常に真実が照らされ、深信因果が知らされるので、どんな罪悪の報いを受けて苦しんでも、それが自業自得だと知らされる。そのため、それが礙りとならず静かに忍ぶことができる。だから、それは罪悪がないのと同じである。しかし、どんなに自業自得だと知らされたからと言って、罪悪が無くなった訳ではないので、業が尽きるまでは罪悪を造り続ける。それとも順誓はすでに業が滅して罪悪がなくなったから、このように聞いたのかな。お聖教の中に「一念のところにて罪消えて」とあるのは、このような御心である。
だから、「こんな恐ろしいことをしてしまったと過去の過ちを問題にして責めるよりも、どんな極悪人でも救うと誓われた阿弥陀仏の救いを信じて、聴聞に励みなさい。」
阿弥陀仏に救われたならば、今まで犯した罪悪が消えるのか、それとも残るのかということは、阿弥陀仏が考えることであって、私が計らっても仕方ない。ただ阿弥陀仏の救いを信じて聴聞に励んでゆくことが肝要なのである。
解説
ここで一念発起と言われるのは、苦しみ渦巻く穢土から離れ、阿弥陀仏の無礙光に常に照らされる身となった一念のことを言います。その身になると阿弥陀仏の無礙光が煩悩を貫き、常に真実を照らし出す。だから、不安なときは不安だと感じ、寂しいときは寂しいと感じるようになるのです。
私たちは心に不安や寂しさを抱えているとき、そんな心は見たくたないので、欲や怒りなどの煩悩を起こして、見えなくさせる。そして、あたかも欲を満たすことが楽しみかのように思っています。例えば、お酒が楽しみだという人は、楽しくてお酒を飲んでいるのではなく、お酒を飲まなければ、寂しい心が見えてしまうから。だから、お酒を飲んでいるだけなのです。しかし、どんなにお酒を飲んで、寂しい心を誤魔化したとしても、それは一時的な誤魔化しであって、酔いが醒めると、また、寂しくなる。そのため、また、酒を飲んで寂しさを誤魔化さずにはおれないのです。こうやって大きな寂しさを抱えている人ほど、酒に逃げて、寂しい心と向き合って何とか解決しようとはしない。しかも、本人は自分は酒が楽しくて飲んでいるのだと思っているので、自分の心が抱えている寂しさには気付いていない。それどころか、お酒を飲むことほど、楽しいことはないと思って、心が寂しくなるほど、お酒に溺れてゆくのです。しかし、そうやってお酒に溺れてゆくほど、放っておかれた心は余計、寂しくなる。だから、寂しさをお酒で誤魔化すほど、お酒を飲まずにはおれなくなるのです。
煩悩とは苦しみを誤魔化し、心を楽にさせるもの。だから、煩悩を起こすと、罪悪の報いで心は苦しんでいても、煩悩が心を隠すので、苦しんでいることさえも気付かない。そのため果てしなく罪悪を造り続け、苦しみ続けなければならないのです。
阿弥陀仏の救いとは、このように煩悩によって心が覆われ、自分が苦しんでいることさえも気付かず、苦しみ続けている人たちの心を照らし。自分の心の苦しみを知らせ。目を向けさせることなのです。
だから、仏教を聞いてゆくと、今まで苦しくなかった人も段々と苦しくなってゆきます。それは仏教を聞いたから苦しくなった訳ではなく、仏教を聞くことによって、今まで見えなかった心が見え、苦しみに気づき始めたからです。
こんなことを聞くとせっかく苦しみを煩悩によって誤魔化し、楽になっているなら、それで幸せではないかと思う人もあるかも知れませんが、楽になると言っても、それは煩悩によって心が見えなくなっているからであって、心が苦しんでいることには変わりありません。ただ欲に流れるとそれが見えないだけ。しかも欲に流れれば流れるほど、放っておかれた心はどんどん苦しみを増し、欲から醒めたときには、余計苦しまずにはおれなくなる。だから、煩悩によって常に心を誤魔化さずにはおれなくなってしまうのです。そして、欲に流れている間に罪悪を重ね、やがてどうにもならない所へと追い込まれる。とうとう煩悩によって誤魔化しても、苦しみを誤魔化せなくなり、それでも煩悩で心を誤魔化そうとするので、罪悪を重ね続け、より深い苦しみの世界へとどこどこまでも堕ちてゆく。それが煩悩によって心を誤魔化すものの哀れな末路です。
だから、阿弥陀仏はそんなものたちを憐れに思われ、どんなに煩悩によって心を誤魔化そうとしても、誤魔化すことのできない幸せな身にして下されるのです。この身になったことを“一念発起”と言います。では、それまでは自分の心の苦しみに気付かないのかと言えば、そうではありません。仏教を聞いてゆくことによって、阿弥陀仏の無碍光は煩悩を貫き、段々と心は見えてきます。ただ私たち自身がやっぱり欲に流れた方が楽になれると思っているので、心と向き合い、苦しみを解決しようとは思ってはいません。だから、心が見えて苦しくなると、もっと欲に流れて、心を誤魔化そうとしてしまう。そうやって、苦しみから逃げようとしているのが私たちの迷いの心。それが段々と苦しみを誤魔化しても苦しみが解決される訳ではないと知らされてゆき、もうこの苦しみを解決するしかないと心が一つに定まったときが一念発起のときなのです。だから、それまでは心と向き合わなければならないと分かっていても、やっぱり何処かにもっと楽な道があるのではないかと欲に流れてしまい、思い通りにならないときには怒りを起こす。揺れる心の中でこれ一つと心と向き合うことができないのです。
では、次に一念発起のところでなぜ罪がすべて消えると言われるのかと言いますと、苦しみとは、罪悪の報いを受けたときに、その原因が自分にあるとは思えず、なんで自分がこんな目に遭わなければならないのかと思うところから起きます。例えば、誰かに馬鹿にされて苦しんでいる人は、それは自分は他人のことを馬鹿にするような酷いことはしていないのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのかと思って、苦しんでいるのです。もし、自分も同じように他人を馬鹿にして相手を傷つけている自覚があったならば、「自分も他人を馬鹿にしているから、このように今、他人から馬鹿にされているのだな。」と自分の種まきを反省することができます。そして、どんな報いを受けたとしても、これも自業自得と静かに忍ぶことができます。このように自業自得と認めたものは、たとえ罪悪の報いがやってきたとしても、それが礙りとはなりません。礙りとは、自分の受けた結果が自分の蒔いた種まきだと思えず、「どうして俺がこんな目に遭わなければならないのか」といつまでも受けた結果にとらわれている状態を言います。このようにとらわれ始めると、今の自分が惨めに感じられて、苦しくて苦しくてどうしようもなくなります。私たちが苦しみと呼んでいるものは実はこの礙りであり、こんな結果を受けるようなことを自分はしていないと思いたいが為に、現実を否定し、現実の自分を否定し、果てしなく苦しむのです。だから、因果応報でどんな結果を受けたとしても、それが自業自得だと素直に認めることができたならば、それはもう苦しみではなくなる。もう罪や礙りとはならないので、無いのと同じであると言われているのです。
もちろん、自業自得だと認めたからといって、業が尽きない限り、罪悪が消えることはないですが、どんな罪悪の報いを受けたとしても、阿弥陀仏の無礙光によって自業自得と知らされるので、それはもう礙りとはならず、苦にはならないのです。
だから、どんな罪悪を犯している身であっても、それが礙りとならない身にして下されるのが、阿弥陀仏の救いであるから、自分はこんな酷いことをしてしまったと犯した罪悪を悔やむよりも、そんな者でも阿弥陀仏は決して見捨てることはないのだと思って、阿弥陀仏の救いを信じて聴聞に励めばいいのです。それを阿弥陀仏に救われても罪悪は無くならないということにとらわれて、それなら聴聞をしても意味がないのではないかと勝手に計らって、あれこれ悩むよりも、私たちの抱える罪悪については阿弥陀仏が考えること。私は阿弥陀仏の救いを信じて求めるしかないと聴聞に励むことが肝要なのです。

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