私たちの生きている世界は我の世界。我の世界とは、価値によって大事にされるかどうかが決まる世界。
例えば、政治家になったら、まわりの人は先生、先生と言って自分のことを大事にしてくれる。
お金持ちもそう。ただお金をたくさん持っているだけで、まわりの人の見る目が変わる。世の中とは、価値のあるものは認められ、価値のないものは見捨てられる世界。
そういう世界の中で、誰しも自分が見捨てられたくないから、価値を求め、価値のある人間になろうとしている。
でも、どんなに価値のあるものを手に入れ、自分に自信をつけたとしても、相手が頭を下げているのは、自分の手に入れたお金や財産、地位、名誉などの価値であって、自分自身ではない。だから、価値を手に入れて自信をつけた人ほど、価値を失うことを恐れる。
自分から価値を取ったならば、誰も自分のことを相手にしてはくれないのではないか。見捨てられるのではないかと不安になる。
この裸の自分で生きる。これを仏教で沙門という。沙門とは、一切の価値にとらわれることなく、裸の自分で生き、裸のその人で相手を見る。
それは何もない自分に自信がなければできない。我にとらわれるから、見捨てられるのではないかと不安になる。我にとらわれなければ、見捨てられるかどうかは気にならない。この我にとらわれない生き方をすることが仏教の小乗の教えなのです。
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