なぜ否定されると、とらわれてしまうのか

煩悩とは、煩わせ悩ませるもの。他人から否定された時に、そのことが忘れられずにいつまでもとらわれる心。
ここでなぜとらわれるのかと言えば、自分の我が否定されたから。私たちは我=自分だと思っている。だから、他人から否定された時に、自分は否定されるような人間ではないかと思って苦しくなる。
この否定されるような我とは、どんなに努力しても自分は否定されるのだと思ってしまうこと。
我とは変わらない自分。その変わらない自分が否定されているのだから、自分はどんなに頑張っても否定されるのではないかと思って不安になる。
我とは価値がある時はいいが、価値を失ったならば、どんなに頑張っても変えることができない無力な存在であると思ってしまう。
相手から否定されるようなことを言われると、この我が否定される。この時、自分は否定されるような人間であることが感じられて苦しくなる。
だから、一度自分に対して否定的な思いを持ってしまうと、ちょっとしたことがあっても、自分はやっぱり否定されるような存在なんだと感じて苦しくなる。
これがとらわれるということ。とらわれとは、我を問題にすることから始まる。自分はダメな存在だと感じると、何かある度に自分はそんなダメな人間なんだと思ってしまう。
本当は運命は自分の種まきによって決まるのに、一度ダメな存在だと思ってしまうと、色々なことがこんなことが起きるのは、自分はダメな存在たからと思ってしまう。
そして、いつまでもあんなことがあった、こんなこともあったと、ダメな自分を確認するように思い出しては苦しむ。
運命は我によって決まるものではない。でも、私たちは我を問題にしているので、自分の我に合った運命がやってくると思って、自分の運命から逃げてしまう。
たまたまそういうことがあっただけなのに、自分がこういう人間だから、こんなことがあったのだと思ってしまう。
この自分の我に合った運命が来ると思って、身のまわりで起きたことを自分の我に合うようにマイナスに解釈することを煩悩というのです。

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