安楽国をねがう人

安楽国をねがう人 正定聚にこそ住すなれ  邪定不定聚くにになし  諸仏讃嘆したまえり
阿弥陀仏に救われ、極楽浄土に生まれたいと願う人は、阿弥陀仏から大慈悲の心を頂くので、その心によって、人々の苦しみを抜いてあげたいと思って、接してゆくので、自らの心も、段々と仏の心である大慈悲に近づいてゆく。だから、阿弥陀仏に救われた人は必ず仏に生まれることができる身である正定聚になるのだ。
ここで大事なことは、阿弥陀仏に救われた人が仏になることができるのは、自分の心の中に大慈悲があり、この大慈悲の心に憧れて、少しでも大慈悲に近づきたいと体にかけて仏のお姿を真似してゆくからであり、ただ俺は阿弥陀仏に救われたんだと思って何もしないで死んだら極楽に生まれられると思っている人は極楽に往生することはできない。
でも、どんなに仏の大慈悲に憧れて実践しても、自分の心は大慈悲には程遠いことが知らされて、これではいけない、これではいけないと努力を続けてゆく。
でも、阿弥陀仏に救われてない十九願の人は、少し善に励むと自分はこんなにも善に励んでいるからと、まるで自分は善人になったかのように思い、いつもまわりの人間と比べて自分はできていると思ってしまう。このように仏様と比べるのではなく、人間と比べて善か悪かという気持ちが変わらない人を邪定聚と言われます。
そんな人も、少しずつ仏様のことを心に思い浮かべられるようになって、仏様のようになりたい。少しでも仏様に近づきたいと思うようになる。しかし、そのような心になるのは菩薩から聴聞を受けた後のわずかな間だけであって、その心が続かない。しばらくすると、他人の為に温かい心を起こしてあげても、お礼がないと腹が立って、相手を責めたくなるようになる。これが不定聚です。
このような邪定聚、不定聚は阿弥陀仏に救われ大慈悲を頂いた人にはない。だから、いつも大慈悲を心に思い浮かべ、少しでも近づいてゆくように努力を続けてゆく。
だから、このような正定聚の身にする阿弥陀仏のお力を諸仏方は褒め称えずにはおれないのである。

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