善悪にとらわれるから苦しみが生み出される

私たちは無意識のうちに人を善人と悪人とに分けている。そして、この人は、悪い人だと決めつけたならば、その人が悲しむことや苦しむことをしても、何とも思わず、平気でやってしまうことができる。
例えば、無視をしてきた人には無視をする。ここで無視をしたとしても、自分は無視をするような悪い奴とは思わない。あくまでも私が相手のことを無視をしたのは、相手が悪いからで、私はそんな無視をするような悪い人間ではないと思っている。
つまり、私が人間だと認めた相手には、相手を傷つけるような悪いことはしない。たから、私は本来ならば悪いことをする人間ではないのだが、相手が私に対してこんなに悪いことをしてきたから、その人に対して仕返しをすることは当然なことであるし、それは悪いことではないと思っている。
でも、そうやって、一度悪い奴だと決めつけて、その人に酷いことをしてしまうと、自分はそんな悪い人間にはなれなくなる。たから、悪い人間にならないように、自分の決めた常識に従い、悪いことをしないように頑張るようになる。
例えば、他人から傷つけられて、その人を責めたならば、自分はそんな他人を傷つけるような悪い人間にはならないように気をつけるようになる。
そして、自分はこんなにも他人を傷つけないように努力しているから、悪い人間ではないのだと正しい方に自分を置こうとする。それで自分が正しい方に立つと、安心して、また、悪人を見下し、この人を人間扱いしなくなる。
私たちは善悪にとらわれる。そして、自分はいつも善人の側に立って悪人を見下す。
でも、悪人を見下した分だけ、自分は悪人の側には立てなくなる。立ったら、自分が悪人に対して向けていた感情がすべて刃となって自分に向けられる。
それはもう自分は人間ではない、存在してはならないような存在に思えてしまい、自分の存在が消えてなくなりたいと思って、死にたくなる。
だから、私たちは他人を簡単に悪人と決めつけ否定しても、自分は悪人とは認められない。どこどこまでも善人になろうとして、他人と比べて上に立とうとする。
私たちは人を善悪に分ける所から苦しみが生み出され、悪人ならない為に頑張り続けながら、他人と比べては自分が劣っていると、自分はダメな人間ではないかと思って苦しむ。
善悪から離れることができてら、苦しみや不安から離れ、穏やかな心になれるのに。
その善悪から離れた世界に出ること。それが仏教でいう悟りを開くということなのです。

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