十方の無量菩薩衆 徳本うへんためにとて 恭敬をいたし歌嘆す みなひと婆伽婆を帰命せよ
大宇宙の無量の菩薩方は、徳の本である念仏をする為に、阿弥陀仏を恭しく敬い、歌うように説法をされる。ここでなぜ念仏をすることが徳の本となるのか?
世の中ては、念仏とは南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えることだと思っているが、どんなに南無阿弥陀仏と唱えていても、心で阿弥陀仏のことを思い浮かべていなければ、それは念仏にはならない。たから!菩薩は私たちが念仏ができるように、阿弥陀仏の御心から見た世界を説法という形で教えられる。それは阿弥陀仏の本願力によってまるで歌うように、自由自在に教えを説くことができる。教えを説くと、説いた菩薩も阿弥陀仏の御心を念ずることができる。それは口から阿弥陀仏ならこの世界をまた、この人に対してどんな気持ちになられるかを説かれるからだ。たから、説いた菩薩も教えを聞いた人も共に、こんな考え方ができたらどんなに素晴らしいだろうなあと思うようになる。これが恭敬。この恭敬の気持ちで阿弥陀仏の御心を思い浮かべたならば、私も今はできないけど、このような心になりたいと求めるようになる。求めるから、やがて徳が身につくのである。この時、阿弥陀仏の御心を思い出して、ああ、尊いなあ、自分にはとても真似はできないけど、こんな心になりたいなあと唱えるのが南無阿弥陀仏。だから、南無阿弥陀仏は尊いのである。でも、南無阿弥陀仏が尊いのは、恭敬の思いで阿弥陀仏の御心を思い浮かべるからであり、どんなに南無阿弥陀仏を唱えても、その心で阿弥陀仏の御心を思い浮かべていなけれぱ、その念仏には何の意味もないのである。
だから、阿弥陀仏の御心を思い浮かべることができる菩薩の説法を聞かなければならないのであり、菩薩が自由自在に説法できるのも、阿弥陀仏の本願力があるから、だから、みなひと尊い阿弥陀仏のことを帰命しなさいも言われたのです。
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