ある人が、心の中はいつも暗く、明るくなることがなくて苦しいという。
では、なぜ暗いのか?
それは未来に対して希望が持てないから。このまま生きていても良いことがあるように思えない。ただ何もない毎日を過ごして歳を取ってゆくだけ。昔はまだ若かった。これから色んなことができる可能性があった。でも、その若さもなくなり、残りの人生が見えた時、自分の人生とは何だろうという気持ちになった。この歳になって結婚もしてない、子供もいない。仕事も自分の人生をかけてまでやることではない。このまま無意味に終わってゆくだけだとしたら、自分の人生は何のためにあるのか?このまま何もない人生を生きてゆくだけだとしたら、死にたいとさえ思うようになる。
人生には希望が必要。
しかも、人間とは煩悩の塊だから、求めているものは、他人を見下すことができるものを得たいと思っている。他人の真似のできないものを手に入れて、どうだ自分は凄いだろと見せつけて、他人から認められたいと思っている。
それが他人から認められる存在になるどころか、普通の人にも劣るような人生になるとしたら、人生に絶望して生きてゆきたくないと思うのも当然だと思う。
じゃあ、この人が苦しんでいるのはどうしてなのか?
どうだと上に立つことができないから苦しんでいるのだろうか?
そもそも、どうして他人の上に立ちたいのだろうか?
それは他人の上に立てば、親から認めてもらえると思っているから。
私たちは自分の存在を根本から認めてくれる存在が必要。
親から私はどう見られるかで、自分の人生は大きく変わる。
子供は親に自分のことを肯定的に見てもらいたい。でも、親が子供のことを見てあげることをせず、自分の思い込みでこの子はこういう人間だと決めつけて見てしまうと、子供は親の決めた人間を演じて、本当の自分を見せることができなくなる。
それでも、親の決めた自分でいられる時は、親は自分を見てくれるように思える。しかし、挫折によって親の決めた自分のイメージが崩れると、今の自分のままでは見捨てられるという不安に苛まれるようになる。だから、今までの自分を否定して、それに代わる価値のある自分になろうとする。
そうすれば、親は自分のことを認めてくれるように思える。この人は親に反発しながら、どこかで価値のある自分を親に認めてもらいたいと思っている。でも、価値のある人間になりたいと思いながら、自分の思い描いているような自分になれないと絶望する。
なぜ絶望するのか?
それはこのままでは価値のある人間と思えないから。だから、自分で自分を否定してしまう。誰よりも他人から認めてもらいたいと思いながら、他人よりも上にならなければ、他人から認めてもらえないと思っている。そして、こんな価値のない自分は駄目だと自分で自分のことを見捨てている。
それでも生きてゆかなければならない。惨めな自分を見続けてゆかなければならない。それが苦しいのです。
この人が救われる為には価値のある自分に対するとらわれから離れること。
それは他人から評価される為に動くのではなく、自分が自分らしく生きるために、できることをコツコツとしてゆくこと。自分が価値のある人間になったら、他人からしてもらいたいと思っていることを、自分自身が自分のことを価値のある人間だと思って、自分にしてあげる。
今まで他人から価値のある人間だと見られる為にやってきたことを、自分のことを価値のある人間だと思って、自分に対してしてあげる。
徳のある人とはどんな人か、どんな志を持って、どんなことをいつも考え、行動しているか、それを想像して、少しでも近づけるように、コツコツとタネを蒔いてゆく。
それによって他人から価値のある人間だと見てもらうのではなく、自分で自分のことを価値のある人間だと思えるようにする。
このように心がけたならば、たとえ思い描いたようにすぐにできなくても、そんな人間になりたいと努力を続けているだけで、自分で自分のことを肯定的に見れるようになる。たとえ他人が認めなくても、自分のことを価値のある人間と思えるようになる。
自分が価値のある人間かどうか、それを判断するのは自分。今の自分にできることをコツコツと続けてゆく。そうすることで、どんな人も自分のことを価値のある人間と思えるようになるのだなと思いました。
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